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きれいな音
「おまえ、こんなところでなにしてるんだ?」
辺りに誰もいないと思った私は、不意にかけられた声にビックリして、心臓が飛び跳ねるのを感じた。それまでしゃがみ込んで地面を見つめていたが、顔を上げて周囲をキョロキョロ見回す。
深い森の中、木々のあいだに茂る草むらの手前に、男の子が立っていた。ふたつほど年上のようだが、雰囲気は中学生ぐらい大人びている。整った顔立ちの彼が、黒い着物姿だったからかもしれない。
道が分からなくて途方に暮れていた私は、ホッとした。
「お父さんを探してるの」
すると男の子は視線を外して森を眺め、静かな声で応じた。
「いまは遠くにいるけど、また会える。だから安心して家に帰れ」
「いつ会える?」
「そのうち、だ」
彼の言葉は、ふわふわ漂うクラゲみたいな私の心をそっと引いて、地面に降ろしてくれた。私はにっこり笑いかけたあと、自分の状況を訴えた。
「帰り道が分からなくなっちゃった」
それまで無表情だった男の子が、困り顔になった。
「こんな深い場所まで来るからだ」
「どっちに行けばいいか知ってる?」
「教えても、おまえ、また迷子になりそうだ」
言い返せなくてしょんぼりしていると、彼が目の前までやってきて手を差し出した。
「送ってやるよ」
「ほんとに? ありがとう!」
私はパッと立ち上がって、こちらに伸ばされた白く大きな手を握った。相手の肌は、直前まで川に浸したかのようにひんやりした。
私は男の子と手をつなぐことを、そろそろ恥ずかしいと思う年ごろだった。けれどさっきまでの心細さから、ためらいなく飛びついた。彼は自分で差し出しておきながら、私が手を取ったことに驚いた。
「そんなんじゃ、悪いやつに連れてかれるぞ」
「お兄ちゃんは親切だよ?」
男の子は呆れた息をついて、右のほうへ伸びる道に目をやった。
「はぐれるから手を離すなよ」
彼が私を従えて歩いていく。私からすれば進んでいるのか戻っているのかも分からないが、男の子は迷いなく森の出口を目指す。小柄な私が息を切らせると、こちらに合わせて速度をゆるめてくれた。
水中散歩のような浮遊感は、遠目に町明かりが見えたところで途切れた。これで帰れる。でも隣の存在が手をほどいたので、そのことを淋しく感じた。
彼はこちらに背を向けた。
「あとは大丈夫だろ。もう一人で森に来たりするなよ」
道を戻っていく相手に、私は急いで声をかけた。
「ありがとう、お兄ちゃん」
「おれはおまえの兄貴じゃない」
「じゃあ、お名前きいてもいい?」
後ろ姿の着物の肩がピクッと跳ねた。すこしの沈黙のあと、ためらいがちな声が答えた。
「……柊矢」
私は嬉しくなって自分も名乗った。
「わたしね、秋穂っていうの」
すると男の子はゆらりと振り返り、なぜかつらそうな顔で見つめた。
「おまえの名前なんて聞きたくなかった」
そんなふうに言われるとは思わず、私はしゅんとした。
「ごめんなさい……」
相手があわてた声で訂正した。
「いや、いまのは……嘘だ。ほんとは知りたかった」
私がうかがう目を向けると、彼は困った様子ではあるものの、怒ってはいないようだ。真面目な眼差しで静かに言う。
「きれいな音だな。おまえに合ってる」
子どもらしからぬ言葉に私はキョトンとして、くすぐったくなりクスクス笑った。
「私も好き。柊矢くんっていう名前も、大人っぽくてかっこいいね」
彼は赤面して、不機嫌な表情でそっぽを向いた。
「おれの名を呼ぶな!」
「じゃあどうすればいいの?」
「全部さっさと忘れろ!」
「迷惑かけたから怒った?」
不安な気持ちで尋ねると、彼は困惑をふくんだ息をついた。
「迷子になったことなんて、思い出したって楽しくないだろ」
「でも助けてくれた。嬉しかった。その気持ちは覚えてていい?」
「……勝手にしろ」
突き放した言い方だけど、冷えきった声音ではなかった。まったく笑わないし、言葉づかいも柔らかくない。でもここまで連れてきてくれた。しっかり手を握って。それが彼だと思った。
漆黒の瞳が、促すように町明かりを見た。
「早く帰れ。おまえまでいなくなったら母親が哀しむ」
その言葉で、自分に戻る場所があることを思い出した。けれど、どうしても相手と別れがたい。
「また会える?」
彼はギクッとした顔を向け、目元を険しくした。
「……知るかよ」
「いやなこと言っちゃった?」
謝ろうとすると、突然、大きな手が私の頭をグシャグシャ撫でた。相手が諦めた様子で言う。
「縁があれば、町ですれ違うかもしれない」
「そのとき、名前を呼んだら怒る?」
「一回会っただけのやつなんて忘れる」
「じゃあ、賭けをしようよ。忘れてたらそっちの勝ち。覚えてたら私の勝ち。そっちが負けたら、呼ばれても怒っちゃダメ。約束ね?」
彼は目を見張り、こちらの頭に乗せた手を下ろした。
「バカだな。まぁいいよ、フワフワしたおまえのことだから、明日には忘れてるだろ。おれを見かけたときに素通りしたら、笑ってやるからな」
「ひどぉい。ぜったい覚えてるから、そのときは降参してね」
すると相手はわずかに目を細めた。かすかに笑った……気がした。
「じゃあな。秋穂」
不意に名前を呼ばれてドキッとしているあいだに、彼は森へ去った。一瞬だけめまいがして、いましがたまで見ていた男の子の顔が、消えそうに揺らめいた。
「柊矢くん……」
覚えるように何度も口にした。自分の手を見て、ひんやりした感触を思い出す。黒い着物をまとった物憂げな彼が、頭の中で私を見つめ返した。
帰宅した私は、キッチンで麦茶を飲んでから母の部屋に入った。和室の隅に仏壇が置いてあり、父が遺影の中で微笑む。それがどういうことなのか、私にはまだよく分からない。
しばらく写真を眺めて自分の部屋に戻り、着替えてからベッドに潜り込んだ。あと三十分ほどで母が夜勤から帰ってくる。それまでに眠っていなければならない。でも、心細くて寝るのが怖い。
ふっと森での言葉を思い出した。
『いまは遠くにいるけど、また会える』
いろんな大人の慰めは、風のようにただ通り過ぎていくだけだった。彼の声は心に残って、じわりとあたたかい気持ちになる。きっと信じられる。
次に目を開けると朝だった。いつの間にか眠りについていたようだ。
私はクラスに友だちのいない子どもだった。
母は働いていて、私は一人っ子なので、学校が終われば長い長い時間が横たわっている。本を読んだりテレビを見たりするのが好きだった。
やがて、近所に住む男の子と友だちになった。一人で下校する私に、相手が声をかけてきたのが始まり。顔を合わせれば会話するようになり、公園で遊んだり、お小遣いを手に駄菓子屋に行ったりした。
あまり本を読まないと言うので、お気に入りを貸してあげた。よほど面白かったらしく、同じ本を三回ぐらいねだられた。
大人のひとに「淋しいのにがんばっててえらいね」という言葉をかけられると、私は、へんなことを言うものだと首を傾げる。お母さんも友だちもいるから、淋しくないのに。
小学生のころはその男の子と仲良くしたが、卒業してからふっつりと姿を見なくなった。同じ中学ではないか探したり、近所を歩き回ってみたりしたけれど、再会することはなかった。もしかしたら引っ越したのかもしれない。
中学校の生活に慣れると、私は勉強に励み、より多くの家事を手伝うようになった。あわただしい日常に、幼いころの思い出は遠くかすんでいった。
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