6人が本棚に入れています
本棚に追加
つたない距離
念願の公立高校に入学したあと、学校から許可をもらってカフェのバイトを始めた。初めて働くことに加え、人見知りの自分に接客業がつとまるのか不安だった。けれど家から近くて、試験前など融通が利く点がありがたい。
都会と違ってゆったりした雰囲気の店で、従業員はみんな明るく優しい。フォローしてもらいながら仕事を覚えていった。
夏休みまであと一か月というころ、キッチン担当の先輩に告げられた。
「僕と付き合ってほしい」
予想外の言葉に、私はただただビックリする。相手が窺うように尋ねた。
「好きなやつとかいる?」
「い、いいえ。そんなことは」
「僕のこと嫌い?」
私は首を左右に振った。どう受け答えすればいいのかさっぱり分からない。彼は穏やかな性格で、誰に対しても親切で、ときどき冗談を言っては周りを笑わせる。素敵なひとだ。
恋人になるってどんな感じなんだろう。うまく想像できずにいると、相手が押しをゆるめた。
「友だちみたいに仲良くなるのはどうかな。よかったら、ケータイの番号を教えてくれると嬉しい。すぐに答えは出ないだろうし、すこしずつ互いのことを知っていけば」
女性の先輩とは連絡先を教え合っている。ただ、この場合の番号の交換は意味合いが違うだろう。彼なら、こちらの気持ちをおざなりに、グイグイ行動してくるとは考えづらい。
私は緊張しつつも了承した。
淡い交際が始まった。バイトでは前と同じだけれど、ときどきメッセージのやり取りをする。向こうも学生でさらに部活動をこなしていたので、連絡の頻度はちょうどよかった。
たまに電話でお喋りしたり、バイトが重なったときに「女子に人気だって」とお菓子をプレゼントしてくれたりする。やがて、一緒に水族館や緑地公園へ出かけた。いちいち不慣れな私を、相手は紳士的にエスコートする。
こんなふうに時間を重ねていくのかな、と感じた。けれどある日の電話で、彼は突然に切り出した。
「会うのも連絡するのもやめるよ。いい先輩になれても、恋人には見てもらえなさそうだから」
私はとっさに返事できなかった。居心地のいい距離を保っていると思ったのに、相手にとっては不満だったのか。つたない言葉で謝ったけれど、よけいに彼を哀しませたようだ。やり直すことができないまま連絡は途絶え、間もなく相手はバイトを辞めてしまった。
彼は辛抱強くこちらのペースに合わせてくれた。私は甘えすぎたのかもしれない。自分には相手を喜ばせることができたはずだ。でも一緒にいるあいだは、それが足りなかった。
自らの未熟さが情けなかった。
そのあと、告白されて付き合うことが二度あったけれど、いつも三か月ほどでダメになった。こちらが恋人としてやっていけると感じたタイミングで、相手は物足りなさそうな顔で去っていく。三回も続くと、自分には欠陥があるのだと思った。
小学生のころに比べると女友だちもできたし、バイト先でも私なりに人付き合いする。だが、それ以上に親しくなるやり方が、身についていないのかもしれない。流行りものに疎いし、気の利いたことを言えるわけでなし、二人きりでは退屈だろう。
相手が望むような彼女になれなかった。なにが悪いのか把握できなければ、同じ失敗を繰り返すだけだ。
友だちを介して「いちど会ってほしい」という申し出があったが、私は首を左右に振って、話をその場で終わらせた。
それでも、恋に対する憧れは胸に息づいていたらしい。通学電車でときおり見かける大学生らしき男性に、いつしか視線が引きつけられた。気難しい面持ちで、ひとを寄せつけない雰囲気だ。きれいな輪郭の中、メガネをかけた目に意思の強さを感じた。
いつも文庫本を読んでいるので、こっそり眺めても気取られることはない。どこの学校なのか、どんな本を読んでいるのか、なんという名前なのか、どういった声で話すのか。気になるけれど、とても喋りかけられない。怪訝な顔をされるのも、話してつまらない子だと知られるのも怖かった。
電車内で姿を見つければ嬉しかったし、いないときはガッカリした。私にはそれが精いっぱいだった。格好いいひとだから、恋人がいるかもしれない。だとしても、せめて通学するあいだは一緒にいませんように、と願った。
奥手すぎる片想いを抱いたまま、高校を卒業する時期になった。友だちとの別れや、馴染みの学校に通うことがなくなるのは淋しい。いちばんつらかったのは、もう通学電車に乗る機会がないという事実だ。
どうせ終わりなら、勇気を振り絞って働きかけようと何度も思った。けれど、私に大きな一歩を踏み出すことはできなかった。凛々しい横顔をいつものように眺め、涙をこらえつつ心の中で「さよなら」と囁いた。
私はある会社の事務員として働き始めた。家から三十分かけて自転車で通勤する。バスや電車を使うと、さらに時間がかかる。慣れれば大変ではない。強雨や積雪の日は交通機関を利用した。
かつてのバイトである接客業とは畑違いで、社会人としてのプレッシャーもあった。ただ、多くの仕事仲間はひと回りもふた回りも年上で、なごやかな会社なので働きやすい。
相変わらず人付き合いの下手な私だけれど、高校のバイトにしろ、周囲に恵まれている。新人らしく失敗を経験しつつも、事務員としての仕事を学んだ。
就職してから一年後、職場の近くで一人暮らしを始めた。それから半年が過ぎたある日、母から連絡があった。
「会ってほしいひとがいるの」
待ち合わせたレストランで、母と壮年の男性が迎えた。
数年前、風邪を押して仕事に行った母を、車で送り届けてくれたひとだ。私がお茶を出そうとするのを断ってすぐ帰ったけれど、印象に残っている。二人がそのころから親しかったかどうかは分からない。確実なのは、いま彼らが家族になりたいと思っていること。
反対する理由はない。母が幸せになるならそれがいちばんだ。その男性が彼女に向ける眼差しは柔らかく、大切にしてくれると信じられた。
私は相手に頭を下げた。
「母をよろしくお願いします。なんど言っても資源ゴミの日を忘れちゃうんで、代わりに覚えておいてくださいね」
母は苦情の目を向けたけれど、彼は物静かな笑みを浮かべた。
「承諾してくれてありがとう。家族になるんだから、なにかあれば頼ってほしい。彼女も君の一人暮らしを心配しているし、顔を見せに帰ってきて」
「はい、遊びにいきますね」
二人は式を挙げない代わりに沖縄へ旅行に出かけ、後日お土産を届けてくれた。私は手料理を振る舞ったあと、帰っていく夫婦を見送る。
胸の片隅に、割り切れない気持ちがくすぶった。『お父さん』が二人になってしまったからだろうか。独り立ちしたというのに、まだ子どもごころが残っているなんて、と苦笑した。
最初のコメントを投稿しよう!