つながる記憶

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つながる記憶

 家族が変化したことに対する複雑な気持ちは、その後もよどんだままだった。母の『旦那さん』に不満はない。むしろ、いい縁があってよかったと祝福している。  血のつながる父を失ったあと、三人で家族だったものを母子で担ってきた。正直、「お父さんがいてくれたら」と思うこともあった。母の再婚によって人数が戻り、個々の負担は三分の一になる。  家族が増えたというのに、唐突にひとりぼっちなった感覚だ。仮に私が一緒に暮らしたいと言えば、両親は受け入れてくれるだろう。毎日、顔を合わせるうちに距離を縮めていけるかもしれない。  ただ、戸籍上で彼らの子になることと、心のうえで『親子三人』になるのは、べつのことだ。新しいお父さんは私を娘として扱うだろう。私も相手を頼るに違いない。けれどそれはどこか、演劇のステージで割り振られた役柄を演じるみたいだと思った。  自分が母の娘であることには変わりないのに、新しい夫婦の前では弾き出された気持ちになる。その中には入っていけない。胸の奥でくすぶる屈託に、嫌気がさす。  そして彼らをうらやむ。どうすればたった一人の相手と出会えるのだろう。叶ったとして、どんなふうに歩み寄ればいいのだろう。何度も失敗した自分には不可能にしか思えなかった。  こんなことを口にしたら、きっと「若いんだから、いくらでも出会いがある」と笑われる。けれど、それに同調できない。ずっと一人なのではないかという心細さに、胸が締めつけられる。  部屋のベランダから夜景を眺めた。たくさんの家の明かりがあたたかく灯る。その数だけ、ひとは笑い合ったりケンカしたり仲直りしたりしているのだろうか。  いちばん大切な母が幸せになった。だから私は、もうがんばらなくていいのではないだろうか? ほんとうは素敵なひとと出会って家庭を持ち、母の腕に孫を抱かせてあげたい。そんな夢はたちまち霧散する。  情けないなぁ……。  心がどんどん沈んでいく。底のない穴に落ちるようだ。私はなんのためにここにいるのだろう。綱を切られた舟のように、海の闇に呑み込まれていく。姿かたちをとどめていても、心が風前の灯火のように揺らめく。  感情をこらえるために目を閉じたとき、不意に、森の清らかな空気を嗅いだ。まぶたを上げると、目の前に背の高い男性が立っていた。ここは二階だから、物音も立てずに現れることはできないはず。でも奇妙だとは思わなかった。  相手は黒い着物をまとっている。古い記憶を呼び起こされた。彼はすっかり大人びて、ほとんど別人だけれど、きれいな顔立ちにわずかな面影が残っていた。私はこわごわ呼びかける。 「柊矢……くん?」  彼は鋭い視線でこちらを射た。 「バカ、何度も呼びやがって。いいかげん俺のことなんて忘れて、ひととしてしっかり生きろよ」 「ごめんなさい」  反射的に謝ってから、私は首を傾げた。 「何度も?」 「心に隙間ができるたびに、だ。呼びかけに俺は抗えないし、引き寄せられたらお前のそばに影を落とす。自分を不幸にしてどうする。淋しければ、せめて父親を恋しがるべきだった」  そう言われて初めて、小学生のころに遊んでくれた男の子も、高校生のころに電車で見かけた大学生も、彼だと理解した。それぞれの記憶が断片的で、ひとつの存在であると気付かなかった。 「ちゃんと思い出してないのに、無意識に呼んでたの?」 「いちど会っただけのやつなんて、覚えているはずがないのに」 「きっとそれ以上に、あの夜に安心をくれたから」  柊矢くんは重いため息をついた。 「もう分かってるだろ。俺はひとに穢れをまく存在だ。お前を少なからず不幸にした。ほんとうのお前は、孤独を抱えて生きる魂じゃない。心細くても、俺みたいな人外を頼りにするな。きちんと周りに目を向けろ」 「……柊矢くんを呼ぶ私がおかしいってこと?」 「いろいろあって心が削られるのは仕方ない。けれど、俺に救うことはできない。まだ引き返せる。母親を哀しませたくないだろう? お前は周りとつながっている。そこでとどまれば、未来が拓ける」 「私は、普通のひとみたいに生きていけないよ」  相手がかぶりを振った。 「道がひとつなら、迷う余地はないだろ」  その言葉に、私は別れを予感した。 「どこかに行っちゃうの?」 「ぜんぶ忘れさせる。なにもなかったことにするんだ」 「やっと記憶がつながったのに消しちゃうの? 名前を呼んだら降参してくれる約束でしょ? あなたに勝手をする権利はないよ」  すると彼は表情を険しくして叫んだ。 「お前には幸せになってほしいんだ!」  こぶしを握りしめて唇を噛みしめる。 「そのきれいな魂がほしい。でもこの手で輝きを奪いたくない。頼む、お前を哀しませ淋しがらせる役割から、もう解放してくれよ……」 「柊矢くん……」 「俺がしてやれるのは、二度と関わらないことだけだ」  私は、耐えがたい痛みを抱えた相手を見つめた。 「私が縛りつけなければ、あなたは楽になる?」  彼が視線をさまよせたのち、うなずいた。私はかすかに笑った。 「ごめんなさい、苦しませて。そんな顔をさせるぐらいなら、忘れるよ。魂をあげたら……きっとあなたは悔やむね。覚えていられなくても、二度と呼べなくても、そばにいてくれたことは私の中に残る」  自分に言い聞かせる。だからこれは過去の消滅じゃない。 「十年後だったらほんとうに忘れてたかもしれない。そうなる前に言葉を交わせてよかった。私から自由になって。これまでありがとう」  わがままを言えば覚えていたいけれど、口から出る言葉も本心だ。つらい思いを強いたくない。これからは自分のためだけに生きてほしい。ひとに災いをもたらす存在だとしても、被害を受ける誰かより、私にとっては彼のほうが大切だ。  相手は呆然として、表情を隠すように顔を伏せた。 「礼を言うなんてバカだ。さんざん不幸にしたやつに向かって」 「それくらい、寄り添ってくれた」  わずかに顔を上げた彼が、苦しそうに白状した。 「……覚えていてほしかったんだ。つらい思いをさせると知ってたくせに」 「私の一方通行じゃなかったんだね。ホッとした」  すると彼はふっと苦笑した。 「なんで幸せそうな顔するんだよ。この俺が憑いてやったのに、台無しじゃないか」  私も思わず笑った。 「不幸にしそこねたみたいだね」 「あーあ、こんなバカとは付き合っていられない」  彼はこちらの頭に手を乗せた。 「縁が切れてせいせいする」  それで思い出を消すのだろうと察した。あわてて声をかける。 「待って。五秒だけ」 「なんだよ」  怪訝な顔をする相手に、私はねだった。 「あと一回、呼んでいい?」  彼は目を見開いてから、切なげに表情をゆがめた。そして、大きくうなずく。私はこれまでもこれからもすべて込め、大切な名前を言葉にした。 「……柊矢くん」  次の瞬間、私は相手の腕の中に収まっていた。彼が悲痛な声で訴える。 「こうすることで、俺が、お前を幸せにするんだ!」  大きな手のひらに吸い込まれるように、意識が薄れていく。ああ、もう相手の顔も思い出せない。最後に、愛しげなつぶやきを聞いた。 「秋穂……」  そうして彼は、私の中に植えた花を摘み取っていった。
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