6人が本棚に入れています
本棚に追加
ほがらかな会話
朝がくれば、出かける準備をして職場に向かう。夕方まで働き、帰宅したあと家事をこなして、わずかなプライベートを過ごす。週末になると、実家に顔を出したり公園を散歩したり映画館に出かけたりした。
ある土曜の昼、駅前の図書館へ足を向けた。棚を眺めていると、ポンと肩を叩かれる。振り向けば、同僚男性の荻窪さんがスーツ姿で立っていた。会社の最寄り駅とはいえ、こんなところで会うと思わなかったので、私はビックリする。
「どうしてここに?」
相手は穏やかな笑みで答えた。
「午前中だけ休日出勤をした帰りなんだ。家のほうより、こっちが便利で。そういえば、片木さんは会社の近くに住んでるんだっけ?」
片木というのは私の苗字だ。ほんとうは母と共に、いまの父の姓に変わったのだが、対人においては旧姓を継続している。もちろん両親の了承ずみだ。
「近所にべつの図書館があるんですけど、今日は駅前に用事があったので」
「起きそうで起きない偶然だね」
好きなミステリーが同じ系統だと分かり、未読の一冊を勧められる。
あまりにも面白かったので、週が明けて職場で顔を合わせたとき、感想を口にせずにはいられなかった。ミステリーだから、すでに読んだ相手でなければ詳しい内容に触れられない。彼はかなりの読書家で、ほかの作品も挙げてくれた。
話題の本は、予約の順番が回ってくるまで日数がかかる。書店に行こうか迷っていると、荻窪さんが提案した。
「貸してあげるよ。明日にでも持ってくる」
「ありがたいんですけど、申し訳ないような……」
「ほかに本好きのひとがいないからさ。どういう感想を抱くか聞いてみたいんだ」
じゃあ、と厚意に甘えた。
作品の印象を語ったり、お気に入りを勧め合ったりするうちに、私にとって職場でいちばん言葉を交わす相手になった。年齢がひとつ違いであり、中高生のころはこんな作家にハマった、という話題でもかぶる。男性と一定の距離を保っていた私だが、彼とは友人のように接することができた。
あるとき、借りた短編集がいまひとつ面白くなかった。そういうことが初めてだったので、私は戸惑った。でも、ときに好みが違って当然だ。さほど厚い本ではなかったため、「荻窪さんはどこを気に入ったのかな?」と探しものをする気分で読み進めた。
返すとき、相手から尋ねられる。
「どうだった?」
「えぇと、私にはちょっと難しかったです。描写はとても克明でした」
すると彼はくくっと笑った。
「ごめん。つまらないと思った本をわざと貸したんだ」
「……どうして?」
「どんな反応をするかと思って」
いたずらを成功させた少年みたいな表情に、からかわれたのだと気付く。なぁんだと一緒に笑うべきか、ひどいと怒るべきか分からずにいると、荻窪さんは申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「悪かったよ。これからは面白いものしか勧めない。お気に召さなかったら……そうだな、君がほしいものをプレゼントするよ」
「え、そんな……」
「今回のお詫びは、このあいだ話してた透かし彫りのしおりでいい?」
私はあわてて首を左右に振った。
「べつに腹を立ててませんから。私のほうこそ、いい作品を教えてもらってるお礼をしないと。甘えてばかりですみません。こういうときにどうするのか分からなくて……。私があなたにできること、ありますか?」
相手は動揺したように、視線をさまよわせた。
「そんな無防備に言われると気が咎める……」
「え?」
「僕は、あえてつまらない本を貸したりする人間だからさ。すこし疑ってかかるくらいがちょうどいいと思う」
私はちょっと考えてから言った。
「大人だと思ってた荻窪さんにも、子どもっぽいところがあるんだと分かりました」
「しっかりしてる君より、ぜんぜんガキだよ」
彼は苦笑したあと、改めてこちらを見た。
「自分が好きな作品を勧めて、楽しんでもらえたら君はどう感じる?」
「嬉しいです、とても」
「それがなによりだよ。本に目を通すことは時間と労力がいる。君が借りてくれるだけで、僕は報われるんだ」
「紹介してくれる作品がどれも面白いからです。荻窪さんには感謝しかありません」
相手は照れて頭をかいた。
「今回はいたずらに引っかかって、時間を浪費させられたのに?」
私はクスッと笑った。
「あなたがつまらないと思ったものを、私が気に入るケースだってあるかもしれません。それは読んでみないと」
「逆もありえるね。もしかすると僕は確認したかったのかもしれない。好みが似通っていても、意見が分かれることはあるって」
「当たり前なのに、忘れかけてました」
荻窪さんはうなずいて、うかがう表情を向けた。
「これからも気に入った本を勧めていい?」
「もちろんです。ひとつの作品を、揃って楽しめるのは素敵なこと。でも意見が真っ二つに分かれても、面白くありませんか? 『良作だ』『駄作だ』でケンカしちゃったりして。そんなふうになるの、想像つきませんけど」
「言い争いたいわけじゃないけど、片木さんが意地になるところは見てみたいなぁ」
「どこに興味を引く要素が?」
すると相手はふっと笑った。
「さっきの言葉を借りるなら、目にしないことには分からない。君にとってつまらなくても、僕も同じかどうかは、そのときにならないと。だよね?」
「なんか、うまいこと丸め込まれた気がします……」
恨めしい視線を向けると、彼はさらに眼差しを和らげた。
「貴重な読書仲間だから、僕だって多少の手練手管は使うよ」
本が好きなひとなら、探せばいくらでもいるのではないだろうか。だが、ここまで傾向が近いとなると、まれな出会いかもしれない。荻窪さんが続けた。
「さしあたり、つぎに勧める本は厳選しないと」
「あんまり意気込まれると逆に怖いです。それでなくても私は物語にのめり込みがちですから、手加減してくださいね」
「善処しよう」
それからもさまざまな本が話題に上った。感じ方に差はあれど、正反対の感想をいだくことはなかった。
「ケンカするチャンスに恵まれないなぁ」
彼は残念な口ぶりながら、いつも嬉しそうな笑みをたたえていた。
うちの会社は休憩室が大小ふたつある。どちらで昼休みを過ごしても構わないが、人数の関係から大きいほうを男性が占め、小さいほうに女性が集まる。
ある昼食どき、ふたまわり年上の仕事仲間から、私は直接的に聞かれた。
「荻窪くんと付き合ってるの?」
あまりにビックリして箸を落としそうになった。
「い、いえ……。読書の傾向が似てるので、そういう話で盛り上がりますけど」
周りの女性はみな、面白がる表情だ。たじろいだ私に、一人が話題をつなぐ。
「趣味が合うって大きなきっかけよね。話すうちに相手のことが分かってきたり」
「はぁ、まぁ……」
「同じものが好きでも、嫌いな相手とは喋らないわよ。話してるときの二人、とても楽しそうだもの」
「そ、そうですか」
「歳が近いと話題も重なるでしょ。荻窪くんがいい子だって、片木さんも思わない?」
「ええ、頼れる先輩だと」
「私みたいなおばちゃんにも親切だから、大事なひとをしっかり守るに違いないわ。このあいだなんて、脚立で物を取ろうとしたときに、『危ないですよ』って代わりにやってくれて――」
すると、ほかの面々も彼の長所をアピールした。
「行方不明の伝票を探してたら、見つけてくれたわ」
「ソフトの不具合をサッと直してくれた」
「調子の悪い台車を修理してくれたの」
私は思わず苦笑する。こう聞くと、荻窪さんが親切にして回っているみたいだ。実際には彼女らに頼まれたり、上司に解決するよう指示されたり、体よく使われているのである。嫌な顔ひとつせず引き受けて、素早くこなし、自分の仕事もだいたい規定時間内で収める。とても真似できない。
それはともかく、いまの私にとって問題なのは、女性陣が矢つぎばやに売り込んでくる状況だ。この手の話題にうとい私でも、彼女らがなにを期待しているか察した。
押し寄せる言葉をかろうじてかわし、用事があるからと休憩室から逃げ出した。いったん会社の敷地から出て、ホッとする。そばの自販機でカフェオレを買い、ひとくち飲んで息をついた。
そうか、特定の男性と仲良くなると、周りからそんなふうに見られるんだ……。どうして放っておいてくれないんだろう?
荻窪さんにとっても、迷惑だよね。
哀しくなった。根も葉もない噂がたつくらいなら、もう雑談しないほうがいいのかもしれない。淋しいけれど、男女の感情などないと周囲にアピールするためには、距離を取るのがいちばんだ。
こんなふうに断ち切られるなんて想像もしなかった。
荻窪さんに借りた本を返してから、彼を避けるようになった。仕事上のやり取りはするけれど、雑談に逸れそうになると、「今日は立てこんでて」とか「読書する時間が取れなくて」と断って離れた。
初めはすんなり引き下がった相手も、そういうことが続くとおかしいと思ったらしい。もの言いたげな視線を投げたり、業務の合間に声をかけようとしたりした。私はそれらを無視し、かいくぐった。
不自然だが、上手にあしらうことなんてできない。こんな行動でしか、「私たちは仲良くありません」と示す方法がなかった。
自分で距離を置いたくせして、朗らかな会話がなくなって、心は凍えた。あの時間がどんなに大切だったか、えぐるように思い知らされた。
読書する気が起こらないだけでなく、食事がおいしくなくなり、夜はなかなか寝付けない。ああ、こんなに依存してたんだ。相手の重荷になる前に離れて、よかったのかもしれない。あのひとに「迷惑だ」と突き放されたら、立ち直れない。
それよりは、ほんのすこしだけ、ましだと思った。
最初のコメントを投稿しよう!