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あふれる心
息づまる日々が続いたが、あるとき荻窪さんが出張に行ったため、緊張感から解き放たれて仕事をすることができた。
自分がずいぶん疲れていると気付く。転職したほうがいいんだろうか? たかがこんなことでと思うけれど、脆弱な私には、小さな掛け違いでも重くのしかかる。
彼に申し訳なくてたまらない。親切にしてくれたのに、お礼もしないままこんなことになった。薄情な私に怒っているだろうか? 理由も告げずにこんな真似をされたら、誰だって納得いかない。
きちんと話をするべきだった。くだらないことでも、荻窪さんは耳を傾けてくれたはず。「気にする必要ないよ」と笑ってくれたのでは? どうしてそれを思いつかなかったのだろう。
いまさら遅い。やっぱり私はうまくできない。自分に欠陥があるのはともかく、そのせいで誰かを巻き込む。なんのために私はここにいるんだろう。誰かを幸せにできなくても、せめて迷惑をかけずにいたいのに。
つくづく嫌になる。謝りたくてもできない相手を、またひとり増やした。私にできるのは、誰とも関わらないことだけ。償いになるなら、この心を切り分けたって構わないのに。ああ、でもそんなものを押しつけたって、迷惑になる。
すこし残業をして仕事を終わらせ、帰途につく。歩みはいつもどおりだが、感情が抜け落ちて、地に足がついていない。ずっとこんなふうに生きるんだろうか? 泣きたいのに涙も出ない。
静かな町並み、行き交うひとや自転車や車。その中で、自分だけべつの次元にいるみたいだ。
私はさまよっている。いつか落ち着くことができるのだろうか。居場所が見つからなければ、ずっと一人……。でも誰かを不幸にするぐらいなら、そのほうがいい。みんなが幸せなら、それで構わない。
誰も私に気付かないで。穏やかな日差しになれないなら、それをさえぎる雲にはなりたくない。ひとの心に影を落とすのはいやだ。だから流れ流れて、誰の思い出にもなりたくない。
そのとおりの道を歩んでいるのに、淋しいとささやく自分がうとましい。こうしてこぼれるくらいなら、思考なんて止まってしまえばいいのに。
それでも私は息づいている。なにをすればいいのか、どこへ向かえばいいのか分からなくても。新しく生み出すものがなくても。一歩一歩を踏み進める。
どうせ、やれることしかできない。なんらかの答えが出るなんて期待は捨てよう。ずっと未完成品だろうと、いまこのとき、私の時計は刻まれている。一秒ずつ過去を作っていく。
それが精一杯。いびつなかたちで不器用に転がる。同じ場所に戻ってこようと、それぞれべつの瞬間なのだ。
ふっと息をついて、目の前から始まる坂を見上げた。道の先に一人の男性が立っている。小ぶりのキャリーバッグをかたわらに置き、こちらを見下ろしている。やさしく包み込む眼差しに、私は立ちすくんだ。
「荻窪さん……」
彼はなぜかばつの悪い笑みを浮かべてから、荷物を手に提げ、こちらに歩み寄った。前に立って静かに尋ねる。
「片木さんは、周りに勘ぐられる相手が僕だから、嫌になった?」
「え?」
「よく喋ってることを、とやかく言われたんだって? それから避けるようになったのは、僕と噂になるのはまっぴらごめん、って意味かな」
「そ、それは……ちょっと違います」
「どこが違う?」
私はためらったあと、胸がチクチク痛むのを感じながら答えた。
「私なんかが相手だと、荻窪さんが困ると思って……。でもあなたは、私を傷つけまいとキッパリ否定できないかもしれない。周りに固められて、足かせになりたくなかったんです」
「……残念ながら、僕は、周囲がそう動くように仕向けた」
「どういう……ことですか?」
荻窪さんが真剣な目でこちらを射た。
「これ見よがしに仲良くしたら、おばさんたちは世話を焼きたがる。あと男性への牽制。君は僕以外に対して距離を保っているだろう? こちらにアドバンテージがあるんだと、彼らは誤解する。諦めないひとがいても、ライバルはすくないほうがいいからね」
私は困惑して首を傾げた。
「荻窪さんには、誤解されるメリットがあるんですか」
すると彼は、仕方ないなと言いたげに苦笑した。
「彼らがためらっている隙を利用して、あわよくば、誰も割って入れないくらい親密になる。うまくいくかどうかは君の気持ち次第だけど」
「荻窪さんが誤解していませんか? 私なんて誰も見ません。でも、あまりに頼りないから守ってくれたんですね? 心配しなくても大丈夫ですよ。下心を持って近づいてくるひとなんていません」
「うーん、自覚がないほうがいいと思ったけど、こうも無防備だとそれはそれで弱ったな……」
荻窪さんは気を取り直して、真面目な顔に戻った。
「ひとつ理解してほしいことがある」
「はい」
「君に下心を持って近づく男が、ひとりいる。それは紛れもない事実だ」
「どうして断言できるんですか? そのひとがあなたに打ち明けたんですか?」
「打ち明けるまでもないよ。その男は僕だから」
私はキョトンとして、まばたきしながら相手を見た。彼が苦笑いする。
「これまでいちども、そんな可能性を考えなかった、って顔だね」
「えぇと……」
かろうじて、冗談ですよねという言葉を呑み込んだ。なにも言えずにいると、彼はやわらかく目を細めた。
「僕も異性だと意識させないように接したからね。ただ、成功して喜ぶべきか哀しむべきか複雑なところだな」
「荻窪さん、私……」
「混乱してるよね。親しい友人という立ち位置を失いたくなかった。けれど、いずれ想いを告げていたと思う。君の向けてくれる笑顔が、スポイトで落とした絵の具みたいに僕の中で広がって、どんどん重なった……」
彼は自分の胸に手のひらを当て、感慨深げに語った。
「趣味仲間みたいな顔をしながら、どうすれば独り占めできるのか、そんなことばかり考えた。僕を特別な存在として見つめてほしい、と。切り出そうとして、何度、思いとどまったかしれない」
ただ耳を傾けるしかできない私に、話しつづける。
「君にとって会社でいちばん身近な相手は、僕かもしれない。でも、その眼差しが彩られていないことは、よく分かってた。だから友だちとしてでも、そばにいるほうがいいんじゃないかって……」
荻窪さんが苦しげに目元を険しくした。
「いや、どのみち我慢できなかっただろうな。唯一無二の相手として、君の隣に立ちたかった。その手を取って一緒に歩んでいきたいと」
沈黙する私に対して、ふっと表情を和らげる。
「唐突な告白になってごめん。せめて気持ちを知ってほしかった。わがままだとしても、しまい込んだら後悔すると思ったから」
「わ、私……」
なにも気付かなくてごめんなさい。と、口にできなかった。荻窪さんはちょっと困ったように笑った。
「そんな顔させたくなかったんだけど。でも、言葉が届いたってことだね。きちんとかたちになって、君がそれを見つめてくれた。ありがとう。僕はきっと、幸運なほうだ」
「荻窪……さん」
その心を告げるために、どれほどの勇気を必要としたのだろう。私は不意に泣きたくなった。彼が静かな声をかける。
「勧めた本をたくさん読んでくれて嬉しかった。感想を語り合うのが面白かった。いろんな顔を見られた。そういえば、ケンカできなかったのが心残りかな? でも楽しそうなのがなによりだよ。僕の心をどれだけ和ませてくれたか」
荻窪さんがまっすぐ見つめた。
「いつか君に、『このひとだ』と思える相手が現れるよ。だから、自分なんてと思わないで。僕にとって君は、まぶしい存在だった。つかめないのに、つい手を伸ばしてしまうほど。夜空に浮かぶ月に焦がれたようなものだから、仕方ないね」
自分は素敵なひとではない、と思ったものの、彼を否定することはできなかった。その想いから目を逸らせない。相手はひと段落ついて、肩の力を抜いた。
「長話になってしまったね。帰ったらゆっくりして。僕も会社に顔を出したら、仕事は終わりだ。じゃあ、気をつけてね」
彼はニッコリ笑いかけ、横を通り過ぎた。足音が遠ざかる。充分な距離が空いてしまう、と思った瞬間、私は振り返って声を上げた。
「荻窪さん!」
相手が足を止める。こちらを向かないので、どんな表情をしているか分からない。なにを言えばいいのだろう。下手なことを口にすれば、また傷つけてしまうかもしれない。だが、黙ったままでは後悔する。
「これでおしまいですか? もうお喋りできないんですか? ぜんぶ、哀しい思い出になってしまうんですか?」
答えは返ってこない。こんなことを言ったら許されないかもしれない。でも、素直な気持ちが口をついて出た。
「行かないで……ください」
しばしの静寂ののち、相手が顔を向ける。荻窪さんは激痛をこらえるような表情をしていた。
「これ以上そばにいたら、君を……手放せなくなる」
じっと見つめ合う。私はゆっくりうなずいた。
「あなたとなら、きっと……」
たったそれだけの言葉を発するのに、腕が震えて、意識が遠くなりかける。
いまにも倒れそうな私を、駆け寄ったひとが支える。そして、ぬくもりで包んでくれた。
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