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むごい現実
私と荻窪さんは、ゆっくり、ゆっくり歩み寄った。きっと彼は、普通のペースだと私がついていけないと察したのだろう。急かしたり、無理強いしたりすることはいちどもなかった。
会社でどう接するべきか悩む私に、彼が笑う。
「普通でいいよ。前は会社しか接点がなかったけれど、これからはそうじゃないし。女性陣は、僕らがギクシャクした責任を感じてるから、もう焚きつけてこない。彼女らがああしたのは僕のせいだから、恨まないであげてほしい」
「恨むだなんて……。悪気がないことは分かってますから」
「みんな、君が心配なんだよ。悪い男に引っかかって泣かされないかって」
戸惑う私に、相手は肩をすくめた。
「僕が君を傷つけたら、それはもう、寄ってたかって説教されるだろうな」
「……私、見てて危なっかしいんでしょうか?」
「というより、守ってあげたくなる。君のがんばってるところや、ときに見せてくれる笑顔に、みんな癒やされてるんじゃないかな。曇らせたくないと思う。まぁ、僕がいちばんそれを願っていると強調しておく」
まっすぐな瞳に見つめられて、私は顔が熱くなるのを感じ、視線をさまよわせた。
「荻窪さんは、私を評価しすぎてる気がします。嬉しいけど、うまく受け止めきれません……」
「大丈夫、焦らなくて。これからお互い変わっていくだろう。君は『いま』と精いっぱい向き合っているよ。そんな自分の『呼吸』を大切にしてほしい」
その言葉があたたかくて、思わず泣きたくなった。いつも、もっとがんばらなければと思ってきたけれど、このひとは私を認めてくれる。そんな存在がいることは心強い。
「肩の力が抜けた気がします。私なりに息づいているんだって、思い出せました」
「うん。君は、ちゃんとここにいる」
彼の穏やかな笑みに、私は素直にうなずいた。
高校生のころは何度もうまくいかなかったから、まだ自信が持てない。けれど、荻窪さんとなら歩んでいけそうな気がする。すぐは無理でも、いつか彼にふさわしいパートナーになりたい。そこへ向かって小さな一歩を積み重ねていこう。
ある週末に実家へ帰った。家族三人で母の料理に舌鼓を打つ。貝の身が入った炊き込みごはんがあまりにも美味しくて、おかわりしてしまう。レシピを聞き出すと、お父さんがほっとした表情になった。
「よかった、気に入ってくれて」
じつは、彼の出身地の郷土料理らしい。改めて、両親が新しい時間を紡いでいるのだと実感した。鍋ものやみそ汁は地域色が出る。これからも二人は、互いの舌に馴染んだ味を知っていくのだろう。
彼らが結婚しなければ、私はこの炊き込みごはんを口にする機会がなかったかもしれない。縁はいろんなものを運んでくる。母が席を外したとき、私は相対するひとに向かって言った。
「お正月にはお雑煮を食べられますよね? お父さんの地方の」
「そうだね。具がバラエティに富んでて、体があったまるよ」
楽しげに応じてから、彼はハッと目を見張った。
「いま、『お父さん』って……」
「なんだか気恥ずかしいですね。心の中ではそう呼んでたから、統一しちゃっていいですか?」
すると相手はうっすら涙ぐんで、ぎこちなくうなずいた。
「ありがとう、秋穂ちゃん……」
『お父さん』と呼ぶことに抵抗がない、と言えば嘘になる。でも私がそう口にすると、両親は明るい笑顔になる。変わらないものはない。何年かたてば、こちらのほうが当たり前になるだろう。
そんな思いを話すと、荻窪さんは自分のことのように喜ばしい顔をした。
「素敵な親孝行だね」
「まだ、呼ぶときに心の準備がいりますけど」
「僕なら嬉しすぎて取り乱すよ」
私はふふっと笑った。続いて口に出そうになった言葉に、息を呑む。
荻窪さんは、いいお父さんになりそう。
間違いない。奥さんや子どもに囲まれて、あたたかな家庭を育む。彼と微笑み合う女性。このまま歩めば、それは私の将来になるのだろうか。
やっと、穏やかな恋人になりつつある。できれば、半年後も一年後もこんな関係でありたい。それが続けば、両親のような『夫婦』というかたちを意識するのだろうか。
戸惑う私に、荻窪さんが不思議そうな表情をした。
「どうかした?」
「い、いえ。お母さんとお父さんが出会えて、ほんとうによかったなぁって」
彼はちょっと考えたあと、ニッコリした。
「いまのお父さんは、まえのお父さんに感謝してるだろうね」
「なにをですか?」
「思いやりのある娘を遺してくれて、ありがとうって」
私は謙遜の笑みを浮かべようとして失敗した。荻窪さんがこちらの体をそっと引き寄せる。私はぬくもりの中でつぶやいた。
「空の上にいるお父さんは、ずっと、私たちが心配でならなかったんでしょうか?」
「いまは安心してるよ」
私は、しまわれた遺影を思い出す。
お母さんは幸せになったよ。私も、優しいひとがそばにいてくれる。将来のことなんてまだ分からないけれど、私がときを重ねていくのを見守ってください。
目の前の服をギュッと握りしめると、相手がこちらの頭をいたわるように撫でた。
ときどき、哀しい夢を見る。薄暗い空間のなか、誰かの呼ぶ声が聞こえる。周囲を見回すけれど、あるじの姿は目にできない。つらい感情がにじみ出るような声。胸に迫る。
目を覚ますと、はかない記憶は日常に押しやられて消滅してしまう。理由のない心細さだけが残った。私には仕事があって、家族がいて、見つめてくれるひとが存在する。なのに、フワフワさまよう心地になるのだ。
だから人と接するとホッとする。片木秋穂はここにいるのだと。
荻窪さんと次の休日の計画を立てた。
「ちょっと足を伸ばして、この海沿いはどうかな? 遊覧船に乗るのもいいし、ショッピングモールや博物館でも楽しめると思う」
「面白そう。遊覧船って乗ったことないんです」
「じゃあ、いのいちばんに海からの景色を楽しもう」
ワクワクする予定があると、平日の仕事も苦にならないのだから、私も現金だ。あと三日、あと二日。いよいよ明日となって仕事が終わった。
揃って定時上がりなら、夕食を共にすることもあるが、この日は珍しく荻窪さんが残業だった。でも明日は一緒に過ごせる。退勤の挨拶をすると、彼はいつものように穏やかな笑みで応えた。
スーパーに寄って買い物袋を下げ、家までの距離を縮めていく。あと数百メートルというところで、交差点の信号に引っかかった。帰ったら、教わった炊き込みごはんを作るつもりだ。美味しくできれば荻窪さんにも食べてもらおう。きっと気に入ってくれるはず。
そんな想像に心を弾ませていたとき。
いやにスピードを出す車の走行音が聞こえた。まるでブレーキが壊れてしまったみたい。目を向けると、大きな車体がルートを外れて突き進んでくる。こちらへまっすぐに。
息を呑む。逃げないと。同時に理解する。ああ、間に合わない……。
なにもかもがスローモーションになる。一秒一秒を刻みながら車が近づいてくる。互いの距離がゼロになり、とてつもない衝撃に見舞われ、自分の体が宙に浮かび上がったことを把握した。
次に、アスファルトの上で仰向きに寝転がっていると気付く。落ちた瞬間は覚えていない。体中がどうしようもなく痛くて、生命力がこぼれ落ちていく。あまりにひどいせいか、どこか遠くで起きているように感じた。
体を動かすことができない。いや、もしかしたら動いた可能性はある。だが、その感覚が伝わってこなかった。
たぶん目は開いている。しかし、幕を下ろされたようになにも見えない。
これは危険な状態だ。誰か救急車を呼んでくれるだろうか。隊員が駆けつけたとして、間に合うだろうか。ゾッとする。もし手遅れになったら……?
泣き叫びたい。けれど声も出ない。私はどうなるの? まだとどまっている。でもあらゆる器官が停止してしまったら、魂は……。
こんなむごい現実に襲われるなんて。毎日、たくさんの事故が起こっている。ニュースで取り上げられるのは、ほんの一部。でもまさか、自分の身に起こるなんて思わない。
アナウンサーが淡々と読み上げる。死者、重軽傷者。自分はどちらに分類されるのだろう。
両親や荻窪さん、親戚や仕事仲間が頭の中に次々と浮かんだ。ああ、みんなを哀しませる。悪い夢だったと目が覚めればいいのに。私は家に帰って炊き込みごはんを作り、明日は海沿いへお出かけするんだ。事故になんて遭っている場合じゃない。
そう思うのに、体はピクリとも動いてくれない。どうしてうまくいかないんだろう。がんばっても報われる日は来ないのか。
私は、幸せになれないのだろうか?
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