誰にも愛されず生涯を終えると思っていた冷遇王女ですが、暗殺にきた侯爵様が私を救ってくれるようです。

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  「――はぁ? あの無能なニーナ姫をこの城から追い出す?」  不意に聞こえたその言葉に、食糧庫から抜け出そうとしていた私の足が止まる。 「そうよ。王妃様が遂に名案を思い付いたの。ねぇ、どんな案かアンタも聞きたい?」  その声は、隣にある調理場から聞こえてきているようだ。どうやら壁の向こう側で、この王城で働く使用人たちが噂話をしているらしい。  壁越しでは彼女たちの顔は見えないけれど、悪意の()もった会話であることは間違いない。  会話の中にあった()()()単語が気になった私は、壁に耳を当てて盗み聞きをすることにした。 「いいから勿体(もったい)ぶらないで、さっさと言いなさいってば……」 「えへへ。実はね、ある方法で暗殺者を雇うことにしたんだって」  (へぇ、姫に暗殺者を……その()()()()って何かしら?) 「えぇっ!? まさか王妃様、義理の娘であるニーナ姫にあの番犬をけしかけるつもりなの!?」 「ちょっと、大声を出さないでってば! 他の誰かに聞かれたらどうするのよ」  間違いない。彼女たちはニーナ姫の暗殺について会話をしている。  そしてニーナという名前の姫は、この国では一人しか該当しない。 (――まったく、王妃様はどれだけ私のことを嫌っているのかしら)  一度壁から顔を離し、私は深い溜め息を吐いた。  ただの噂話だったら良かったんだけど、困ったことにそのニーナというのがこの私なのだ。  彼女たちの話によると、王妃様は私に暗殺者を仕向けようとしているらしい。 (自分が産んだ娘じゃないとはいえ、相変わらず酷いことをするわね……)  今の私は、王女とはとても思えないような恰好をしていた。  服はメイド姿だし、両手には倉庫から盗んだ林檎を抱えている。  さらには黒髪を誤魔化すように茶色のかつらをかぶり、顔の印象が残らないように特徴を誤魔化すメイクまでしている始末だ。  どうして王女がこんな事をしているのか……それは継母(ままはは)である現王妃様が率先して、私や前王妃だったお母様を冷遇したからだ。  別に私やお母様が何かをしたわけじゃない。ただ、王であるお父様の血を私が引いているのが気に入らないという理由で、この国に居ない存在として扱われていた。  この城のどこにも居場所がない私は、敷地の隅にある小さな一軒家に追いやられ、自給自足に近い生活を強いられている。  庭にある小さな畑だけでは生活はままならず、こうして王城に忍び込んで食糧を盗む日々。  さらには五年前に母を亡くしてからというもの、私はたった独りでこの生活を続けていた。  それでも……こんな惨めな生活を送らせるだけでは、王妃様は満足できなかったようで。 (今までは嫌がらせ程度だったけれど。遂に命まで狙うようになってしまったのね……)  自分の家へ帰ってきた私は、テーブルの上にある一枚の紙を眺めながら、今日何度目かの深い溜め息を吐いた。  その紙には『シードル侯爵家 林檎注文書』と書かれている。 「林檎農園を経営するシードル家、ね……」  この用紙は、私が帰宅してすぐに、先ほどの使用人がこの家へ持ってきたものだ。 『お喜びください。王妃様がニーナ殿下のために、林檎を注文してくださるようですよ。寛大な王妃様のご厚意に、感謝してくださいね!!』  そう言って下手な愛想笑いを顔に貼りつけながら渡してきたのが、この注文書だった。  注文する内容はすでに王妃様が決めたから、あとは私がサインをして提出すれば良いらしい。  彼女はそれだけ伝えてさっさと帰っていった。普段はこの家には近寄りもしないから、ここにいるのが相当嫌だったみたい。 「本当に寛大なら、義理の娘に対して冷遇なんてしないでしょうに。まったく……」  テーブルに腕を伸ばし、注文用紙を手に取ってみる。すると、紙からふわりと林檎の香りが漂ってきた。  紙の材料に林檎の木でも使っているのかもしれない。上質な手触りで、使いきりにしてしまうのは勿体ない気がした。 「いっそ恋文にでもしたいぐらいね。……で、これが使用人が言っていた、暗殺の依頼ってことなのかしら?」  注文の内容は、『最高級の林檎を使用したアップルパイを希望』と書いてある。  宛先は私で、依頼人も私になっている。つまり、(はた)から見たら私が個人的に注文したようにも見える。 「シードル侯爵といえば、権力に興味のない日和見(ひよりみ)な貴族って言われていたけれど……裏では暗殺家業をしていたってことなのかしら」  そういえば数ヵ月前、使用人の誰かが口にしていた。  いわく、違法な商売を繰り返していた貴族が、自分の屋敷で不審な死を()げていたとか。  他にも不自然な事故に遭って息子に家督(かとく)を譲った貴族や、誤って毒のある山菜を口にして亡くなった大手の商家の話とか。  『この国には、陰から正義を守り続けている番犬がいるって伝説があるのよ!』  噂話好きなその使用人は、楽しそうにそう語っていたっけ。  彼女の話がもし本当なら、その番犬の正体はおそらく、シードル侯爵家なのでしょう。  この注文書ひとつで、この国に潜む悪人を()らしめている。  いったいどんな人物なのかは知らないけれど……きっと義理人情に厚い、高潔な人物のはずだ。 「……よし、これでサインは大丈夫ね」  それならば、私の命をシードル侯爵に委ねてみましょうか。  王妃様は私が邪魔だから、暗殺対象になるとでも思ったのでしょうけれど。  もし本当に私がこの国にとって“害悪”だというのならば、別に死んでも構わない。大人しく、殺されて差し上げましょう。  なにより私はもう、こんな生活に疲れ切っていた。愛する人も、愛してくれる人もいない。楽しみも希望もなく、何のために生きているのかも分からない。  私が唯一持っているのは、お母様との思い出だけ。 「そうだわ。明後日はお母様の命日だし、お母様に習ったアップルパイを焼こうかしら」  林檎の香りを嗅いでいたら、ふとそんなことを思い付いた。  それに死ぬ覚悟ができると、吹っ切れてなんだか楽しくなってくる。 「ふふ。暗殺者さんが久しぶりのお客様になるのかしら。キチンとお迎えしなくっちゃね……」  まだ見ぬ暗殺者を夢想しながら、なぜか私は少しだけワクワクし始めていた。  ◇  いったいどんな人物が私を殺しに来るのだろう。  顔は強面(こわもて)で、身体は筋肉で覆われた大柄な男……いえ、冷酷な目付きをした影のある死神みたいな男かもしれないわ。  そんな妄想がどんどんと膨らんでしまい、ここ数日はソワソワして眠ることができなかった。 (いけないわ。このままじゃ、(くま)だらけの酷い顔の死体にされるかもしれない……。)  そんな頭のおかしな心配をしていたものの、意外にも運命の日はすぐに訪れた。 「失礼、ここがニーナ殿下の居城ですか……?」  注文書を出した次の日。なんと、シードル侯爵がさっそく我が家へやってきた。 「ようこそシードル侯爵! お会いしたかったですわ。さぁ、どうぞ中へ!」  丁寧にお辞儀をしながら挨拶をしてくれたシードル侯爵は、とても優しそうな二十代ぐらいの紳士だった。  刃物なんて食事のナイフぐらいしか持ったことがなさそうなほど、柔らかな雰囲気を(まと)っている。  身長は私よりも頭ひとつ分ぐらい高いけれど、王城にいる騎士ほどはガッチリもしていない。  予想とはかけ離れ過ぎて、失礼だとは思いつつも、胸の中で笑いがこみ上げてきてしまった。  徹夜で気持ちが昂っていたせいもあるかもしれない。私が満面の笑みで玄関で出迎えると、彼は呆気に取られた表情を浮かべた。  暗殺者さんを驚かせてしまったかしら?  もしそうなら、ちょっとだけ嬉しい。 「急な訪問をお許しください、ニーナ殿下」  この狭い家には客間なんか無いので、彼をキッチンにある食事用の席に案内する。  シードル侯爵はここへ来てからずっと、視線が家の中を右から左へ行ったり来たり。  どうやらこの国の姫がこんな場所に住んでいることに、驚きを隠せないみたい。  ふふふ……暗殺者なのに、彼は随分と感情が豊かなのね。 「私のことはニーナと、どうか名前で呼んでください」 「いや、そういうわけには……」  そう言われても、今まで私が殿下なんて呼ばれたことは殆どない。  王女らしい生活もしてこなかったし、殿下呼びをされても、敬われた優越感よりむず痒さしか感じなかった。 「あ、ごめんなさい……久しぶりのお客様で、私ったら浮かれちゃって……」 「いえ……はぁ。ニーナ様が良ければ、この場はこれで。私のことも、ヴィクターと」 「――嬉しい! ありがとうございます!」  シードル侯爵、あらためヴィクター様は「まいったなぁ」と頭の後ろを()いた。その仕草がなんだか可愛らしくて、つい口角が上がってしまう。  それにしても、名前で呼び合える人は生まれて初めてだ。  城の人は誰も彼も、『捨てられた孤児姫』だとか『物置小屋の野良猫』みたいなあだ名で私を呼んでくるから。 「……ヴィクター様?」 「え? あ、あぁ。申し訳ない、少しボーッとしていました」  ヴィクター様は何かを考えているご様子。  私のことを見極めようとしているのか、それともこの境遇を見て(あわ)れんでいるのか。  お出ししたお茶にも手を付けず、小さく唸っていた。 「すみません。大したおもてなしもできず……」 「いえ……というより、ここではニーナ様が家事を?」  そう言ってヴィクター様はテーブルの上のお茶を手に取り、ひと口。  目を少しだけ大きくさせ、さらにもうひと口。  良かったわ。庭で採れたハーブで調合したブレンドティーだったんだけど、彼のお口に合ったみたい。 「ふふふ、意外でしたか? 掃除や洗濯、料理なんかも得意なんですよ!……あっ、そうだ。実は今日、アップルパイを焼いたんです。ヴィクター様も良かったら食べてみませんか?」 「姫が自らアップルパイを!?」 「はい! 大好きなんです、アップルパイ!」  先日に王城の食糧庫から失敬した林檎を使って、アップルパイを作っていた。  丁度今日はお母様の命日ということもあり、思い出に浸りながら食べようと思ったのだ。 「ヴィクター様のお口に合えば良いのですが……」 「これは……」  キッチンのオーブンから熱々のアップルパイを取り出し、テーブルの上に置く。  上手に焼き目がついて、甘くて香ばしい香りが部屋いっぱいに広がった。  食器を渡してあげると、ヴィクター様はおそるおそる手を付け始めた。 (あ、あれ? なにか失敗したかしら……?)  上品に一口サイズにパイをカットしてから、もぐもぐと味わうように食べるヴィクター様。  だけど特に感想を口にするでもなく、無言で咀嚼(そしゃく)を続けている。  レシピ通りに作ったはずなのに……と、そこである事に気が付いた。 「すみません……林檎のパイなんて、ヴィクター様は食べ飽きてましたよね……?」    相手は林檎農園を経営している、林檎のプロだ。  王家に献上するほどの林檎を食べている相手に、私はなんてことを。 「――申し訳ありません。とても美味しくて。幼い頃に母が作ってくれた味に、何だか似ています」  ヴィクター様は少し頬を染めて、嬉しそうに次のパイへと手を伸ばす。 「良かった……実はこのパイ、私の母から教えてもらったレシピなんです」 「王妃様……あ、いえ。お母様が……?」  このパイはお母様がまだお元気だった頃、この家のキッチンで一緒に作っていたものだ。  私の誕生日だけに食べられる、特別なデザート。  だけどまさか、ヴィクター様もお母様に作ってもらった思い出があったなんて。 「そういえば、ヴィクター様はどうして我が家へ?」 「あー……、そういえば」  彼とは不思議な共通点もあり、話に花が咲いてしまった。  だけどヴィクター様はあの暗殺依頼を実行するために、ここへとやって来たはず。  すっかりくつろいだ様子のヴィクター様は眉を下げ、再び頭を掻いた。  どうやら、困ったら頭を掻くのがこの人の癖のようだ。 「実は、ご依頼の林檎に少々お時間が掛かりそうでして。そのご連絡のために(うかが)わせていただきました」  ――嘘ね。  いっそ、正直に事情を話してしまおうかしら。  ……いいえ。取り敢えずここは、話を合わせておきましょう。 「まぁ、それはご丁寧にありがとうございます! 平気ですよ。ただ、またアップルパイが食べたいので……」 「おっと、それは大変だ。至急、ご用意させていただきますね」 「ふふっ、ヴィクター様ったら……」  暗殺の注文書にあった『アップルパイ』の単語を出すと、ヴィクター様の口元が一瞬だけヒクッとした。  誤魔化したということは、彼は何か迷いがあるのかもしれない。 「さて、今日のところはこの辺で……」 「えっ!? もう帰ってしまわれるのですか……?」  どうやら、今日はシードル家のお仕事はなさそう。  だけど私は殺されなかったという安心感よりも、寂しさをより強く感じてしまっていた。  こんなにも楽しい時間を過ごせたのは、お母様が亡くなってから初めてのことだったから。 「ヴィクター様……我儘なお願いなのは、重々承知なのですが……」 「……はい。どうしました?」  駄目だと頭では分かっていた。彼の困った可愛い顔が見たかっただけかもしれない。  他にも理由はいくつかあった。  気が付いたら私は、とんでもないことを口走っていた。 「私と……お友達になってくれませんでしょうか」  ◇  ヴィクター様が帰った後、私は独りで余ったアップルパイを食べていた。  少し冷めてしまったアップルパイは、なんだか味気なく感じてしまう。  それは一緒に食べる人がいないからか、それとも……。  こんなにも孤独が辛いなんて。  私は冷えた心を慰めるかのように、少しだけ泣いていた。 「……誰かしら」  もう日はすっかり落ちているというのに、誰かが家の扉をドンドンと激しく叩いている。  最近はどうも来客が多い。  だけどあの遠慮のない叩き方は、きっと好ましくない人物の予感がする。 「あら、なによその酷い顔は。不細工だった顔がもっと不細工になっているじゃない……あはははっ!!」  扉を開けた瞬間、来客の女性は人の泣き顔を見て嬉しそうに笑った。  そして来室の許可を得ずに、無断で家の中へと入っていく。  派手なメイクに、臭い香水。月明かりでも分かるような、(きら)びやかな衣服と宝飾品の数々。  彼女は、私がこの世で最も会いたくない人物だった。 「なによ。このアタシが直々に来てやったんだから、ちゃんともてなしなさいよ」  私がすぐに後を追い掛けると、彼女は殺風景な家の中を眺めて大きな溜め息を吐いた。  尊大な態度だけど、彼女はそうするだけの地位を持っている。  ――私の目の前にいるのは、この国の王妃様だった。 「何も気が利かずに申し訳ありません、王妃陛下。しかし、突然どうして……?」  私の記憶が間違いでなければ、王妃様がこの家に来たことなんて一度もない。  家ではなく、家畜の小屋だと思っていたはずだから。 「んふふふっ。そうね、いろいろと言いたいところだけど……今日は貴方に良い話を持って来たの」 「……良い話、ですか?」  王妃様は私の問いには答えず、手をパンパンと叩いた。  すると家の外に控えていた侍女たちがゾロゾロとやってきた。どの侍女も、両手に大荷物を抱えている。 「これは……」 「喜んでちょうだい。可哀想な貴方に、優しい方から縁談が来たのよ~?」 「え、縁談ですかっ!?」  思わず大きな声が出てしまった。  なにしろ、縁談なんて私には一生縁のない話だと思っていたから。他の貴族の令嬢だったら、他家との縁を結ぶための駒に使われることはある。  だけど私にそんな価値がないのは、自分が一番分かっていた。  そもそも、私なんて存在しない王女の扱いだったのに……。  一瞬だけ、あの困ったように笑うヴィクター様の顔が脳裏に浮かんだ。  いや、だけどまさか、そんなはずは……。  王妃様は驚く私の顔を見て、ニタニタと笑う。 「お相手は、隣りにあるトリノ共和国のアンドレア王子よ。是非とも貴方が欲しいんですって。うふふ、随分と熱烈な御方ねぇ~」 「アンドレア王子……まさか、あの女殺しで有名な!?」 「あらあら、そんなはしたない言葉遣いをするものじゃないわよ? それに良いじゃないの。たとえ慰み者でも、使い道があったんだから。もっと喜んだらどう?」  トリノ共和国のアンドレア王子といえば、使用人たちの噂にも上がるほどの()()()()だ。  何人もの女性を無理やり手籠(てご)めにした後、飽きたら殺すか廃人になるまで虐待を行なうと言われている。  彼にとって、女とは性欲処理のための玩具(オモチャ)でしかない。  それをこの王妃様が知らないはずがない。 「嘘です……お父様が、そんな事を許すはずが――」 「あら、貴方の言うお父様って誰のことかしら? 少なくとも陛下は、貴方を娘だとは思っていないみたいよ?」 「そ、そんな……どうして……」  そんな会話をしている間にも、私の家には次々と荷物が運ばれてきている。  いやに煽情(せんじょう)的な胸元のあいたドレス。使い古した靴やアクセサリー。  いかにも間に合わせで用意したというのが、すぐに分かってしまうものばかり。 「来週、トリノ共和国で貴方とアンドレア王子の婚約パーティがあるから。精々それまでに、この小屋とお別れを済ませておきなさい?」 「来週!? ちょ、ちょっと待ってください!」 「それじゃあ、貴方と会うことは二度と無いだろうけれど……お元気でねぇ~」  こちらの話は一切聞かず、王妃様は手をヒラヒラとさせながら、お付きの侍女に見送られて去っていった。  その侍女たちも用が済むと、一礼だけしてから家をあとにする。同じ女として同情心が湧いたのか、少しだけ憐憫(りんびん)の表情を浮かべながら。 「どうして私が……お父様、どうして……」  誰もいなくなった部屋で、私はその場に崩れ落ちた。  頬から雫が伝い、雨のようにポツポツと床を濡らしていく。  お父様に、私への愛情が少しでも残っていると信じたかった。  だけどそれは、私の独りよがりな甘い希望だった。 「なにがドレスよ! なにが王子との理想的な結婚!! こんな……こんな結末なんてあんまりだわ!!」  本当はずっと我慢してきた。王城に住む他の家族が、とても羨ましかった。  義理の姉みたいに、華やかなパーティで素敵な殿方と踊ってみたかった。  綺麗なドレスに、宝石のついたネックレス。お腹いっぱいの食事に美味しいワイン。  頑張って生きていれば、いつかそんな日が来るって信じて頑張ってきた。  毎日朝から晩まで土まみれになって、畑を耕して。  したくもない変装で忍び込んだり、使用人たちの心無い嫌がらせや悪口にも耐えてきた。  だけど、全部無駄だった。  もう、何もかもが嫌になった。  静かな部屋に、嗚咽(おえつ)がいつまでも響いていた。  ◇  ――今日は何日だろう。  泣きつかれては眠り、最低限の飲食でまた泣いて。私の心や身体はボロボロになっていた。  テーブルの上に置き去りにされたアップルパイは、腐りかけて虫がたかっていた。  もう私には時間が残されていない。  そのうち、トリノ共和国に私を引き渡すための迎えがやってくるだろう。そうなれば、本当に私は終わりだ。 「いっそ、このナイフで……」  床に転がっていた食事用の安物ナイフを手に取った。刃の腹に、私の顔がぼんやりと映っている。  他国で知らない男に弄ばれるぐらいなら、お母様との思い出が残るこの家で果てた方が幸せかもしれない……。  首元にナイフを当てようとするも、手が震えて動かない。  カサカサになった口から、声にならない声が出る。 「お母様、私に勇気を……お母様……」  ギュッと目蓋を閉じ、ナイフを持つ手に力を籠めた……その時、玄関の扉をトントンと優しくノックをする音がした。 「だ、だれ……?」  来客の予定はない。  婚約パーティの迎えが来たのかしら。  物音を立てないようにして玄関へと向かう。  こっそりと扉の隙間から外の様子を窺うと…… 「あ、あら? どうしたのですか、ヴィクター様……」  来訪者の姿を見て、私の心臓が跳ねあがる。  扉の向こうにいたのは、なんとシードル侯爵だった。 「すみません、ニーナ様。今、よろしいでしょうか」 「え? はい……あ、いえ。少々お待ちください!!」  玄関を開けようと扉に手を伸ばしたところで、自分が今どんな姿をしていたのかを思い出す。  服はボロボロ、髪はボサボサ、顔は涙と鼻水でカピカピになっている。  こんな状態でヴィクター様と会えるわけがない。 「連日の無礼をお許しください、ニーナ様。実は少々、お話したいことがありまして……」  急いで部屋へと戻り、大慌てで最低限の身嗜みを整える。  玄関に戻って扉を開けると、ヴィクター様は申し訳なさそうに頭を下げた。  そして手には何かの手土産が。どうやら本当に何かの用事があっていらっしゃったようだ。  上手く頭が回らず、私がポカンとしていると、ヴィクター様は不安げな表情になった。  しまったな、と言いながら頭をポリポリと掻いている。  何となく私の様子がおかしいと気が付いたのかもしれない。 「お気になさらないで、ヴィクター様。私もお会いできて嬉しいですわ」 「それはよかったです。なにかお変わりは無いですか?」 「えぇ、おかげさまで。……ところで、本日はどのようなご用件でしょうか?」  たった今、命を絶とうとしていたなんて言えるわけがない。  これ以上なにかを探られても困るので、私は先日と同じようにお茶を淹れながら話題を逸らす。  今日はミントを使ったハーブティー。  お風呂に入っていないのがバレないように、清涼感のある香りで誤魔化した。 「単刀直入に言えば、トリノ共和国との婚約パーティについてです。……その、ニーナ様はどうお考えなのでしょうか」 「……あぁ、ヴィクター様の耳にも入ってしまわれたのですか」  彼には何でもお見通しだ。  いえ、もしかしたらこの数日で、私のことを調べ上げたのかもしれない。  捨てられたお母様のこと、存在しない姫として育った私のこと。  私を殺そうとしている王妃様と……そしてお父様のことも。 「はい、もちろん。……すみません、不躾なことを申しました」 「いえ、そういうわけでは……ただ、あまりにも急に決まったことでしたので」  随分と様変わりしてしまった家の中を眺めながら自嘲する。  質素な家に不釣り合いなドレスや宝飾品たち。  そのどれもがつい先日まで無かったものだ。 「でも私、母との思い出の残るこの家を離れたくありません。誰かの都合の良い人形にされるぐらいなら、私はここで静かに死にたいのです」 「……やはり貴方は」 「――えぇ。あの注文書の件は知っていました。もちろん、シードル家がどんなことをしているのかも」  もう隠しておく必要はない。  それよりも、ヴィクター様とは最後にすべてを話しておきたかった。  ヴィクター様もいろいろと察していたようで、あまり驚いた様子はなかった。 「しかし何故知っていて、あんな無茶なことを……」 「ふふ。女を(もてあそ)ぶ王子なんかよりも、暗殺者さんの方がずっと紳士的でしょう?」  そう言ってヴィクター様を見詰めれば、彼は気まずそうにスッと目を逸らした。  否定したくても、こうして暗殺対象である私を気遣っている時点でバレバレだ。 「王子との縁談話はおそらく、王妃陛下が提案されたのでしょうね。これまでの嫌がらせ程度でしたら、どうにか(かわ)せたのですが――」 「今回だけは防げなかったと」 「はい。まさかお父様まで一緒になって私を追い出そうとするなんて……あはは、遂にしてやられちゃいました」  私は肩を竦めながら、自虐的に笑った。  ヴィクター様が私の代わりに、悲しそうな表情をしてくれるのが救いだった。  ――あぁ、本当にヴィクター様と出逢えてよかった。  こうして対面でお話をしているだけでも、胸の中で鬱屈としていた気持ちがほどけていく。 「まぁ、それでもあの王子とは結婚せずに済みそうで良かったですわ。私の夢は叶いそうもありませんが、代わりに素敵な殿方と出逢えましたし」 「――夢、ですか?」 「えぇ。私はこの家で、素敵な男性と結婚して幸せな家庭を築きたかったのです。……でも、それはもう無理でしょう」  贅沢な暮らしじゃなくて良い。姫でも貴族でもなくていい。  ただ、愛する人と一緒にあたたかな日々を送ってみたかった。 「……ねぇ、ヴィクター様。もし私の夢が叶って、誰かと結婚できるとしたら……どんな相手が良いと思われますか?」  もう少し我が儘を……もう少しだけ、夢の話を。  欲が出た私に嫌な顔もせず。ヴィクター様は(あご)に手を当て、少しだけ考えてから口を開いた。 「結婚相手ですか。ニーナ様のように、芯のある強い男性なら良いかもしれませんね。加えて林檎のパイが好きな相手ならば最高でしょう」  それは貴方のことですか?……そんな言葉が浮かんだけれど、口には出さずに飲み込む。  察しの良い彼なら、とっくに私の恋心なんてお見通しのはず。 「……ふふ、それは良いですね。ヴィクター様は私のことをとても良く分かっていらっしゃいますわ」 「いえいえ、思ったことを言ったまでです」  ――あぁ、この人ともっと早く出逢えていたら。今とは違う、幸せな未来があったのかしら。 「……さて、お喋りはこの辺にしておきましょう。依頼はこの家で済ませますか?」  優しいヴィクター様なら、ひと思いにやってくれるだろう。  そう思って切り出してみると、なぜか彼は口ごもってしまった。 「いや、実は――」 「……? 実は?」 「あー……えっとですね。今回の依頼ですが、破棄することにしました。……分かりやすく言うと、私は貴方を救いたい」 「え……?」  それはあまりにも予想外のセリフだった。  “救う”という言葉の意味が分からず、私は口を開けたまま固まってしまう。 「そ、それはどうして……」 「それは……」 「だって! 私を助けたところで、ヴィクター様には何の得もないではありませんか!!」  誰からも必要とされていない私と違って、ヴィクター様は王国から必要とされている人間だ。  侯爵家の当主として生まれ、国のために生きる。生きる価値もない私を気に掛ける必要なんてないはずなのに。 「……貴方は、私の大切な友人だからです」 「~っ!? そんな理由だけで!!」 「それに貴方は、今までずっと一人で戦ってきたのでしょう? もう孤独に耐える必要なんてない。辛くて苦しい時こそ、友人である私を頼るべきです!」  彼は立ち上がって私の目の前に来ると、震える私の手を両手でギュッと握った。  その手はとても大きく、温かかった。 「それに俺が先代から受け継いだのは、殺す技術だけじゃない。この国の未来を思う心、民を護るための力だ。俺がこの家業をしているのは、断じてクソな野郎どもの欲望を満たすためなんかじゃない!!」 「で、ですが……王家に背いたりなんかすれば、シードル家が……」 「悪党の犬に成り下がるぐらいならいっそ、侯爵家は私の代で無くなった方が良い」  確固たる意思を瞳に宿らせながら、ヴィクター様は力強い語気でそう断言した。  これが彼の本心……というより、これまで続けてきたことへのプライドなのかもしれない。 「それでも……私には、母との思い出だけしかありません。生きる理由も、私の価値も……」 「ニーナ様。過去の美しい記憶を大切にすることは良いことだと思います。ですが、思い出というのはいつか色褪せるものです。それよりも、これから新たに思い出を作ることも大事なのではないでしょうか?」 「新たに思い出を……作る……」  それは未来に一切の希望を持てなかった私には、想像もできないような発想だった。  だけど、目の前の彼はそれがあると言う。 「私と一緒に、楽しい思い出を作って欲しい。私はこの国で、貴方と歩む未来を作りたい」  えっと、つまりそれって……。 「私が貴方の夢を叶えましょう。そして貴方のことは、私が必ず守りきってみせる」 「ヴィクター様……」  突然、私の口が塞がれた。  優しい、甘い林檎の香りが直に漂ってくる。  私が逃げようとすれば、彼は手を添えて追ってきた。  そうしてしばらくの間、私は無言の説得をされ続けていた。  ――もうだめ。わたしの、負けだ。 「……ヴィクター様」 「何ですか?」 「私を……助けてくださいますか?」 「……えぇ、喜んで」  潤んだ瞳で見上げると、彼は私を力強く抱きしめた。  生まれて初めて、誰かに手を差し出してもらえた。  お母様とは違った、安心感のある男性の大きな背中。  ずっと張り詰め続けてきた感情が、緊張が、我慢がすべてはじけ飛ぶ。 「あぁ……ああぁぁぁぁぁぁ!!!!!」  私はヴィクター様の腕の中で、年甲斐もなく声を上げて泣いた。  ◇  次の日、モンドール王国に訃報が流れた。  王城の外れにある小屋が不審火により延焼し、そこに住んでいた第二王女が亡くなった、と。  速やかに、王城にて小さな葬儀が執り行われた。  数人の参列者が見送る中。  ゆっくりと棺桶が運び出され、王家の墓場へと向かっていく。  その列に、王と王妃の姿は無かった。二人ともどういうわけか、揃って体調がすぐれないらしい。  いつかのようにメイド服姿となっていた私は、王城の廊下にある窓からその葬儀を静かに眺めていた。 「大丈夫かい、ニーナ」 「ヴィクター様……」  後処理を終えたヴィクター様が、私の肩を後ろから優しく抱き寄せた。私は彼の肩に頭を乗せて寄り掛かる。  彼はお母様との思い出が残るあの家を灰にしたことを心配してくれているのだろう。  だけど私が死んだと偽装させるために……そしてあの場所から私が巣立ちをするためには、どうしても必要だった。 「大丈夫です。私には、ヴィクター様がいますから」  そう言って視線を上げると、そこには耳まで真っ赤になったヴィクター様の顔があった。  彼は嬉し恥ずかしそうに自分の頭をワシャワシャと掻くと、空いているもう片方の手で私の手を握ってくれた。 「さぁ、私たちの家に帰ろうか。シードル家はアップルパイが作り放題だからね。ニーナも気に入ってくれるはずだよ」 「うふふ。幸せ太りには気を付けないといけませんね?」  彼の林檎のような優しい甘い香りを間近で楽しみながら、私たちは王城の廊下を後にした。  その後、国王陛下は早々に退位。  シードル家は新しくアップルパイを売る商売を始め、王都で大変な人気を(はく)したという。
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