Ⅰ.帰る家

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 イオはその日、朝一番に家を出て今は街の外れに居を構える恩師の元を尋ねていた。  恩師の住居はイオが暮らすような集合住宅ではない、白い壁の一軒家である。イオは手入れされた植木の間の小路を進み、扉にぶら下がる叩き金でノックした。 「――ふぅ……」  久々の訪問で緊張しないわけではない。白む吐息が緊張と相まって寒さを強く感じさせる。イオは自分の顔を揉んで緊張を解し、一歩扉の前から引いて待った。やがて少しの間を置いて家主が顔を覗かせる。 「おはようございます、イオ」 恩師の顔を見ると共にイオは頭を下げる。 「お久しぶりです、エウゲニオス先生」 「寒かったでしょう。中へお入りなさい」 くすみがかった明るいカーキ色の癖毛に柔和な表情、口髭を蓄えた細面の紳士がイオを自宅へと招き入れていった。 「お元気そうで何よりです先生」 「ええ、今年は酷く体調を崩すこともなくやってこれました。君が教えてくれた新しい薬が、身体に合っていたようです」  玄関から続く廊下はひんやりと寒いが、居間へと進めば暖炉に既に火が赤々と燃えており、温かい空気にほっとする。 「良かったです。先生にはまだお元気で居て貰わないとですからぁ」 「いつまでも教え子に頼ってもらえて、嬉しい限りですよ。どうぞ、イオ」  教え子とは言え気安い調子で会話しながら、勧められた椅子へ腰を下ろす。エウゲニオスは茶を淹れたカップを二つ並べ向かいの席へと腰を下ろした。 「今は……騎士団と研究の掛け持ちを続けているんだったね」 「はい、当分抜けられそうに無いですよぉ」 「それは……」  笑うイオとは対照的に恩師はなんとも言い難い表情とともにティーカップを手に小さく溜息をついた。エウゲニオスはイオの恩師であるが、彼の行先にどんな欲をもった人種が潜んでいるのかを知りながら送り出した。 「先生、何度も言いましたけど、僕は教会に身をおいた事を後悔なんてしてないんですよ? まぁ……それも昨日までの話なんですけれどぉ」  教え子は熱い茶を吐息で冷まして一口。外気で冷やされた体が内側から温められる心地よさに目を瞑る。 「……すこし厄介なことに首を突っ込んでしまいました、先生」  目を瞑ったまま呟くイオにエウゲニオスが首を傾げ、テーブルの上で指を組む。 「どうしましたか」 「……瘴気の森へ、行ってきました」  何時になく沈んだ声に聞こえるイオの台詞。てっきり恩師は、彼が研究に行き詰まったのかと考えた。 「そうですか。我々学者としても、君のような知識がある人が実際に現場に行ってくれるのは、とてもその……ああ、期待が持てるとでも言いましょうか」 エウゲニオスは穏やかに続けるが、教え子の表情が翳りを帯びたままであることに眉を顰めた。 「――別に、必ずなにか新しいものが見付けられるとは限らない。それは失敗や時間の無駄では……」 「いえ」  慰めの言葉を口にしようとしたエウゲニオスを遮り、イオは数秒間息を止め、ゆっくりと深呼吸した。 「……先生は、ノロワレという言葉に心当たりはありますか。錯乱して、死ぬような……そんな意味だと思うんですが」  イオは何処から何処まで話すべきか迷って、まず研究者として森の中での体験から持ち帰った未知について師に問いかけた。  エウゲニオスはイオの投げた問に顎を撫でて考えた後に、静かに話し出す。 「錯乱して死に至るというと、瘴気に中てられ続けた重度の症状が思い浮かびますが」  ――確かに、とイオは目を瞬かせた。言葉に気を取られて身近な現象を見落としていた。 「瘴気の森に無防備に入ってしまうと、そのような症状が出ます。光の魔法を使って防ぐか、炎の魔法で瘴気を焼き払い続ける必要があります」 「教会が騎士に授ける加護の祈りは、光の魔法の応用でしたよねぇ」  イオは今一度自分があの森で見たもの、耳にしたものを思い返す。どうしても真っ先に蘇るのは、班員たちの変わり果てたあの猟奇的な場面なのだが。 「そうですね、イオ。――君が首を突っ込んだと言うのは……教会の内情と、瘴気の森に関係することですか」  沈黙する教え子に師がそっと案じる声をかける。  イオは眼鏡越しに師の双眸を見上げ、こくりと頷いた。 「ああ……」  師は教え子の声なき返答に思わず声を漏らした。  教え子もまた、師にこれから示す自身の胸中がどれほど彼を煩わせるのだろうかと不安でならない。故に、町に戻ってからここを訪ねるまで、随分日にちが開いてしまった。 「先生は――教会に、本当に瘴気の森や、そこに居る魔王を倒して神を目覚めさせ、ティオスヒュイ(この国)を安定させる気があると思いますか」 「イオ……」 「……少なくとも現場や末端の人達はそれを信じているんでしょうけれど。瘴気の森がある意味安定している今、教会は逆にアレをなにかに利用しているのではないでしょうか」  話が飛躍した、と内心自分の失策を恥じる。けれど恩師は声を荒げることもなく、しかし真剣な表情を教え子へ向けた。 「確かに教会の一部は清廉潔白とはいい難い。それは私も知っています。しかしイオ、それは軽々と口にしていい言葉ではありませんよ」 「承知です。でも」  ――でも?  イオは自分でも思っていなかった言葉が続いたことに自分で驚いていた。 「イオ? どうしましたか」  言葉に詰まった教え子の様子にエウゲニオスは目を瞬かせる。 「あ……あの」  眼鏡を外し、目元を手で覆い隠しながら言葉を詰まらせがちに呟いた。 「メ…メロス、を……それに…巻き込んだのが、それどころか……メロスが命を狙われているような…気がして……それが、僕は」  これは羞恥だろうか、恋慕だろうか。  春に結婚を控えた幼馴染の命が、おそらく偶然を装って脅かされた。それに対するこの胸を締め付ける感情が、今の自分の最も大きな動機だと自覚した瞬間だった。 「……イオ。顔を上げなさい」  エウゲニオスは立ち上がり、今にも涙を零しそうに顔を歪ませたイオの隣へと周り、肩を抱き寄せた。 「落ち着いて。……そう、大丈夫」  恩師に宥められ動揺を沈める教え子の僅かな震えを感じながら、この喪失多き青年に憐れみと、何処かで違う道へと導けなかった自身の不甲斐なさにエウゲニオスも胸に痛みをおぼえていた。 「話せますかイオ。瘴気の森で何が有ったのか、教会と何があったのか」 「――はい…すいません…先生」  落ち着いたイオの肩をもう一度撫で、エウゲニオスは紙とインク壺、ペンを机に広げて話を聞き始める。 「ふむ……イオ、君は他の班員全員がその生き返った青年に暴行をしたと考えている様だが……直接見たわけでは無いのだろう」 「いえ、僕とメロスが到着したときには班長が……」 「ああ、班長が手を出したのは目撃した。しかしそれ以外は状況証拠ですよイオ。現に君とメロスは手を出す前に向こうから魔物を装い、攻撃されたのではありませんか?」 「そんな、あの時は……」  イオは師の指摘に言葉をつまらせた。背後に魔物が現れ問答無用に臨戦態勢を取ったことを思い出す。 「とは言え、教会がいきなり諮問会という名目で君を尋問したのも紛れもない事実ですね。誰が何のためにどんな嘘をついているか、彼等が魔王と呼ばれる存在そのものの可能性も……」 手元の紙から視線を上げたエウゲニオスは、教え子の強張った表情を見た。そして、一度ペンをそっと置いて努めて柔らかな声で語り掛ける。 「いえ、まずはこれを先に言うべきでしたね」  師が改まった話を切り出そうとするのを察し、イオは身構えていた。しかし。 「よく無事で帰ってきました、イオ。おかえりなさい」  師の言葉にイオは青葉色の瞳を丸くして、何度も瞬かせた。 「――え、あ……」  イオの父は既に亡くなっており、母とは久しく顔を合わせていない。 「おかえりなさい、イオギオス。よく帰ってきてくれました」  その彼の無事の帰宅を喜ぶ言葉を繰り返す師に、教え子は徐々に表情を緩めてふにゃりと笑った。 「……はい…先生」 「私は、君が出来るだけ危険でない人生を送って欲しい。しかし其れは私の傲慢でもあります」  エウゲニオスは立ち上がり、暖炉で再び湯を沸かし始める。 「結局私が出来ることは、君を迷わせるだけになるかもしれません」 「先生は……僕とメロスが出会った彼等が、悪意を持っているとお考えですか」 「率直に言えばそうです。ヴラド卿がすんなり君の話を受け入れたのは、彼にはまだ何か君に話していない情報が有るのかもしれません」  イオは頷いた。 「そもそも僕に今回の遠征の目的地を教えて物資を融通してくれた先生、元を辿れはヴラド卿の手配で動いていたみたいで……」  エウゲニオスが二杯目の茶を淹れる。イオは冷めた茶を飲み干して二杯目を受け取るべくカップを差し出した。 「暫くはヴラド卿の指示通りにするしか無いでしょう。彼の信頼を得て、君も彼が持つ情報を手に入れる。森の中の彼等と接触する時は、注意を払って。それから――」 「はい」  エウゲニオスの瞳が、正面からイオを捉えた。 「メロスときちんと話しなさい」 「……う」  イオの反応に二杯目の茶を飲みながら、エウゲニオスはふふふと笑みを零した。 「君はメロスから逃げるクセがある。かわらないね」 「それは……自分ではそんなつもりは」 「メロスをお客様のように扱っている内は、君も未熟者だ」 「お客様、ですか」 「自覚がないのかな、イオ」 「はい……あ…いや。すこし……考えます」  エウゲニオスが微笑みながら立ち上がり、窓の木戸を開く。冬の空を一羽の鳥が東へと横切っていった。  イオが師の家を後にし、見送ったエウゲニオスは彼の横顔に父の面影を見ていた。顔立ちは母に似ている彼に何故そんな想いを抱いたのかと、ふと玄関先で立ち尽くし考える。  其処へヒュウウッと強い北風が吹き込み、エウゲニオスは目を細め顔を背けながら不意に思い出した。  そうだ、イオの眼鏡は、あれは彼の父が掛けていた眼鏡(もの)と同じではなかったか――。 「……ヨル。君達夫婦だけじゃなく、遺されたイオまであの森に未来を奪わせてはいけない」  コホ、コホと乾いた咳と共に胸に刺さる痛みに背を丸めながら、エウゲニオスはまた家の中へと戻っていった。
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