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「そんなに荷物を持ってどうするんですか」
迎えに行った彼女は、いつにも増して大荷物だった。
彼女の家のドアの前で一度、インターフォンを鳴らしても返事がなく。まあ、僕は合鍵を持っているのでわざわざ呼び鈴を鳴らさなくてもドアは開けられるし、暫く待っても彼女が出てこないので、やっぱり鍵を使って勝手にドアを開けたんだけど。そしたら、せっせとリュックに物を詰め込んでいる彼女の背中が室内に居たのだ。
だいたい、女性は男と比べると持ち物は多い傾向にあるけど。可愛いハンカチ、メイクポーチ、折り畳みのくしや鏡。おまけに彼女は手帳やボールペン、そのとき読んでる本なんかも持ち歩くし。それでも、彼女はいつも、頑張って頑張って、小さな肩掛け鞄の中にそのたくさんの荷物をまとめようと、パズルのようにぎゅうぎゅうに詰め込んでいた。でも今日は、いつもの小さな鞄じゃなくて、紺色の大きなリュックに物を詰めている。
リュックの荷物に一生懸命の彼女は、こちらを振り返らない。だから、僕は暫く、その小さな背中を、ただぼんやりと見つめるしかなかった。
数分が経ち。
僕が部屋に来たことに、気がついてはいるのだろうか……?
とうとう口を開いて声を掛けようとしたとき、
「君は今日も身軽だね」
振り返りながら、何事も無いように彼女は笑った。
「……ああ、そうだね」
彼女の第一声に、曖昧な返事を返しながら、僕は少し俯いて自分の姿を視界に入れた。
確かに、今の僕の姿は、彼女には身軽そうに見えるだろう。荷物は全部コートのポケットの中。それもスマホとお財布くらいで、手には何も持ってない。
「久しぶりに遠出するのにさあ。そんなんで大丈夫?」
「……もう、行こう」
僕はくるりと体の向きを変え、玄関のドアの方に向かおうとした。でも、
「待ってよ」
すぐに背後から彼女に呼び止められた。
「なに」
「リュックが、重いの」
「……え?」
彼女の言葉に振り返ると、リュックを背負った彼女は、眉毛を下げて何かを訴えかけるように、こちらを見上げていた。彼女は、具体的に僕にどうしてほしいかは言わなかったけれど。でも、可愛らしく首を傾げて見つめる姿に、僕が逆らうことなんてできるはずもない。
僕は、黙って彼女の肩からパンパンに膨れたリュックを回収する。そのままそれを僕が背負うと、彼女はふふっ、と小さく微笑んだ。
「ありがと」
笑いながら彼女が腕に絡みついてくる。僕は背中に加わった重さに耐えるために、ぐっと背筋を伸ばした。
「じゃあ、もう、行くよ」
「……うん」
彼女は、少し視線を逸らして頷いた。
靴を履いて玄関のドアを開ける。目に飛び込んできた外の景色は明るかった。今日は天気が良い。春が近づく青い空は、薄く伸びる雲を纏って淡く霞んでいる。僕に続いて外に出た彼女は、空を見上げて眩しそうに目を細めた。
鍵を閉めて、並んで歩き出す。アスファルトに影が落ちて、僕の足元について回るのをぼんやり眺めながら進んでいると、彼女がそっと手を繋いだ。僕も手のひらに力を込めて、握りしめた。隣からまた、ふふっ、と小さく微笑む音が聞こえた。
駅について、切符を買って、電車を待つ。田舎の小さな駅には、人は数えるほどしかいなかった。それにみんな、他人に興味なんてなくて。耳にイヤホンを突っ込んでスマホをつついていたり、黙って線路を見ていたり。小規模な他人の群れは、会話どころか音も生まない。僕もその群れの中でじっとホームに立っていると、柔らかい風が伸び始めていた前髪を揺らして、視界をちらちら遮った。少し顔をしかめていると、彼女が握っていた手をぐいっと引っ張る。
「なに?」
静かな駅の空気を、僕の声が少しだけ震わせる。すると、
「ねえ、大好きだよ」
彼女は急にそんなことを言って、悪戯っぽくふわりと笑うのだった。
ガタンゴトン。ガタン、ゴトン……。
ぼんやり待って数分後。電車がホームに滑り込んで、停車した。
乗り込んで、空いている席に並んで腰かける。座るときに、僕は背中からリュックを下ろさなければならなかったので、彼女より少しもたついた。彼女はそんな僕のことも、面白そうに、笑って見ていた、気がする。
車内には、駅と同様、乗客はあまりいなかった。静かな車内に、シュー、と扉が閉まる音が響き、再び電車は動き始める。古い車体は、ゆっくりゆっくり、のどかな街並みと陽だまりの中を走った。ふと隣を見ると、彼女は少し眠そうな目元で、窓の外を見ていた。僕の視線も、釣られるように外へ向く。
――移り変わる景色を眺めながら、座席が伝える緩やかな揺れに身を任せていると、過去のいろんなことを思い出す。
出会ったときのこととか、彼女に恋した日のこと。その想いを打ち明けたときの緊張感。彼女の返事と照れたような視線。緩む頬。
初めて手を繋いだときのぎこちなさと気恥ずかしさと嬉しさと。一緒に食べたケーキの甘さや、楽しそうに頬張る口元についていたクリーム。
撮った写真、撮られた写真。
唇の柔らかさだとか、リボンが解けるような表情だとか。
隣を歩く速度と笑い方。
指先で拭った涙の温度……。
思い出すすべてが、まるで別の次元の出来事みたいに、遠く霞んで見えた。
――いつの間にか僕は眠っていたらしい。
「もうすぐだね」
彼女がポツンと呟いた気がして、顔を上げる。頭がふわふわした。
膝の上に抱えていた彼女のリュックが、ずしっとその重みを僕の肉や骨に伝えている。気づけば、電車は僕たちを目的地まで近づけていた。
たどり着いた駅で電車を降りる。風の雰囲気が、乗車した駅とは全く違っていた。きっと、海が近いからだろう。背負いなおしたリュックとともに、潮風に押されるまま、歩みを進める。波の音が耳に迫ってきた。
徐々に見えてきた海は、群青だった。日の光を反射する水面が、きらきらと輝いて目の中に残る。綺麗だな、とぼんやり思った。でも、春が近いとはいえ、まだまだ寒い今の季節に海に人なんているはずもなく。こんなに綺麗な景色でも、見渡す海岸はやはり静かだ。僕だけが、吸い付くように、コンクリートの固い道から白く柔い砂浜へ足を踏み出していた。
リュックの重みを肩に食い込ませ、スニーカーを砂に埋めるように一歩一歩。ああ、肩が痛い。
「歩きにくそうだね」
身軽そうな隣の彼女は、そんな僕を茶化す。全く、誰のおかげでこんなことになってると思ってるんだ。
「君のせいだよ」
言ってみたけど、彼女には全く響いていないようだった。まだにやにやと笑っている。僕はこれ以上何を言っても無駄だと、口を閉ざしてずんずん進む。
ずんずん、ずんずん、ずんずん。
ずんずん、ずんずん。
――ぱしゃ。
「そのリュック、中身何が入ってると思う?」
つま先が青い海水に触れたとき、背後から彼女がクイズを出した。じゅん、と、水分がスニーカーを浸して冷たさが膝まで昇る。
「さあね」
ぱしゃ。
振り返らずに僕はもう一歩、海に足を入れた。
「ねえ、何だと思う?」
でも、しつこい彼女は、もう一度問いかける。それにも答えないでいると、「ねえ、ねえ」と、彼女は僕の腕を引っ張った。僕はぐっとつばを飲み込んだ。
ぱしゃ、ぱしゃ、ばしゃ。
押し寄せる冷たい波を割りながら、黙って海水に両足を浸してゆく。
ばしゃ、ばしゃん、ばしゃっ。
「……答えてよ!」
最後に聞こえてきたのは、悲鳴に近かった。だから思わず振り返ってしまった。でも、そこには、誰もいなかった。白い砂と青い水だけだった。彼女の声も匂いも体温も、もうどこにもいない。いや、僕の隣には最初から誰もいなかったはずだった。
彼女が死んだ日から、僕はずっと一人のはずだった。
ずしん、と、背中のリュックが僕に重くのしかかる。頭が痛かった。普段から姿勢は良くないけど、いつも以上に肩が丸くなる。俯いて、押しては戻す波を見つめた。しぶきが頬に跳ね返って流れる。
「君のせい、全部、君のせいだよ」
誰に届くはずもない八つ当たりは、割れるような波音がかき消した。
約束したじゃないか。ずっと一緒に居ようって。言ってくれたじゃないか。君は本気じゃなかったかもしれないけど、でも僕は、確かに君のその言葉を聞いて、嬉しかったんだ。それなのに。
守れない約束はしないでよ。
期待させるだけさせといていなくなるなんて、だったら最初っから、
「君になんて出会わなければよかった」
口に出してみて、つくづく自分はクズだと思った。出会わなければなんて、嘘だ。一緒に居た時間も、約束も、僕にとっては今でも宝物なのに。
でも、だからこそ、辛くて仕方がないんだ。
僕の中で彼女の存在だけが光で、光源で、それを失ったら世界は暗闇だった。
毎日、毎日、胸のあたりが苦しかった。
こぼれないように、壊れないように、耐えていたけど限界が来てしまった。
足元から力が抜けてゆく。
背負っていたリュックを体の前に持ってきて、抱き締めるように抱えた。
この中に入っているもの。
それは、君との思い出だった。
お揃いのハンカチとか、君がくれたプレゼントとか、デートの時にふざけて買ったよくわからないキャラクターのぬいぐるみとか、たくさんの手紙とか。
重たくて一人じゃとても抱えきれないよ。
足がつかないところまで歩いて、それでも歩いて、視界が青に染まって。
「ごめんね」
実際に、声に出せたかはわからない。でも、そう呟いた。
息が吸えない。肺に、水が入る。
たくさんの、キラキラした重たい幸せとともに、僕の身体は海に沈んだ。
泡となって、融けてゆく。
彼女に愛されていた、僕の身体――。
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