06

1/1
前へ
/7ページ
次へ

06

「……璃宇様?!」  堂を出て、廊下を歩いているうちにここが三番目の兄の居住だと分かってきた。兄が引っ越しをした際に案内をしてもらった場所の一つだったのだ。  今しがた出てきた堂の中には立ち入った覚えがなかったが、璃宇の顔を知っている女官にも会えた。しかし、女官が璃宇を見る目は驚愕に満ちていて、さすがに璃宇も居心地の悪さを覚える。慌てて駆け付けてきた兄の侍従によって、璃宇は兄が待っているという部屋へと連れて行かれた。 「兄上。先日は宴の席を設けていただき――」 「璃宇……其方、どうやってここに戻ってきた。私の従者以外には会っていないだろうな?」  三番目の兄が切羽詰まった顔で、挨拶の途中だった璃宇の言葉を遮った。そう問われて璃宇は「会ってはおりませんが」と短く返しつつも、ようやく警戒を始める。璃宇が『どこか』へ行っていたことを、兄は知っているのだ。 「その衣も、我が国のものではない。お前、本当に璃宇なのか? ……いや、我が弟であるはずがないな。四凶を祀った霊廟で葬った者は、二度とこちらにはその遺体ごと戻っては来られぬ。しかと、私の願いが叶うまで――今度こそ冥府で務めを果たしてくれ」  殺せ、と明確に下された命令。  兄の周囲にいた衛兵たちが一気に動いた。しかし、実戦の経験などないのだろう、及び腰になっているのが見て取れる。一番近くにいた者から早々に剣を奪うと、璃宇は周囲にいた兄の衛兵たちを打ち倒しながら再び廊下へと出た。 (饕餮……?)  ぺた、と璃宇の頭に張り付いたのは小さな蝙蝠だ。饕餮、と渾沌たちには呼ばれていた。よじよじと璃宇の手許まで降りてくると、また璃宇の袖を引っ張ろうとする。饕餮が示しているのは、先ほど出てきた小さな霊廟だ。 「そちらへ行けと、饕餮は言うのだな。……信じる」  いくら兄の衛兵たちが弱くても、三番目の兄は都の警邏たちをも動かす権限を与えられている。警邏たちまで入り込んで来たら、どう足掻いても璃宇が逃れられる可能性は潰える。  せめて、饕餮は元の場所に戻してやらなければ、という義務感に駆られて璃宇は霊廟へと駆け戻った。衛兵の姿はどんどんと増え、敷地内だというのに矢まで放たれ始める。最後に、渾沌たちに挨拶ができたら良かったのだが――ふと目が合った饕餮の小さな黒目に、璃宇は笑いかけた。 「饕餮。俺は恐らく、ここで死ぬのだろう……いや、どうやら兄の口ぶりだと、本来はとっくに死んでいたようだ。世話をしてくれた狐面の子に、水菓子が美味かったと伝えてほしい。窮奇と渾沌たちにも、世話になったと……喧嘩はほどほどにせよと伝えてくれないか。其方ともまた、一緒に水菓子を食べたかったが……」  そう言ったきり、璃宇は己の懐に、小さな蝙蝠を隠した。大勢の足音に追いかけられながらもやっとの思いで霊廟の前までたどり着き、扉を開こうとした腕に灼ける痛みが走る。もう一本命中しそうになった矢じりを剣で叩き落とすと、少し開いた扉の隙間に饕餮を押し込もうとして――思ったよりも大きく開いた扉から、現れたのは二頭の大きな獣たちだった。 『待てって言ったのに!!』 『ここが潰れたら、璃宇を連れて帰るのに支障が出そうだった。出入口を繋ぐまでは其方も留め置くつもりだったのだが……それにしても、窮奇よ。貴様は肝心な時に本当に役に立たぬ』  役に立たぬのはそちらだと、白銀の虎が牙を剥く。よじよじと這い上って来た蝙蝠が矢のささったままの璃宇の肩あたりに来たかと思うと、突き刺さったものが抜けて痛みが和らぐのを感じた。 「……ば、化け物……が」 『ああ、あの者だ。璃宇がつけていた死者の装具からしていたものと、同じ臭いがする』  渾沌が長い鼻先を向けた、その先で。衛兵たちに守られつつも意気込んで現れた三番目の兄が、璃宇たちを見て大きく口を開き、いつになく間の抜けた顔になった。伸ばしかけの髭は濃く立派なのだが背は小さく、どんぐり眼をしている。そういう表情をすると、顎を外して驚く滑稽な兵士の人形によく似ている。そんな風に兄の顔を思えるくらい、両脇に二頭が来てくれたことが心強く感じる。  そうして。  「あれは四凶ではないか?」と誰かが口にするのが璃宇にも聞こえた。 『よくこの出で立ちだけで分かったな。さすが、わざわざ我らを祀る堂を建てただけある』  楽し気に、朗々とした声を上げたのは窮奇だ。しかし、気のせいか長い尾は不機嫌そうな動きをしている。 「し、四凶――では、私の願いを叶えて下さるために……!」  あたふたと三番目の兄が跪き、渾沌たちへと深く頭を下げた。窮奇は虎の姿のまま、軽い足取りで兄へと近づいていく。「おお」と周囲が期待で盛り上がる気配を見せている間に、渾沌がさりげなく璃宇を己の身体に抱き込み、地に伏せた。人々の歓喜は、すぐに悲鳴へと変わっていく。窮奇が、兄の頭をその大きな前足で地面へと押さえつけたのだ。 『なるほど。貴様は皇太子の廃嫡を願ったのだな。そして、己より皇帝に可愛がられている璃宇を願いの代償として我らに差し出した……人選だけは悪くなかったぞ。だが、肝心の璃宇がその願いとやらを覚えていなかったのでな、貴様の願いとやらは無効だ』  そんな馬鹿な、と立ち上がろうとした兄だったが、大きな神虎に押さえつけられていることを思い出したのだろう。震えているのが璃宇からも見える。璃宇のことを抱え込んで伏せている渾沌の黒灰の毛並みを撫でてから、「願いか……」と璃宇は小さく呟いていた。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

154人が本棚に入れています
本棚に追加