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01
(なにか、いるのか……?)
苦しい。
息をすることも難しく、身体はあまりにも重くて。
そんな彼の指先に、幻覚かもしれないが、小さな動物がいるのか温かな感触がする。もう大丈夫だよ、とでも言いたげに必死に指先を舐めてくれるのが、こんな状況なのにくすぐったくて、ほっとするものを覚えた。
(……ありがとう)
何に苦しんでいたのかすら、忘れられる気がする。
――そうして。
彼は、ゆっくりと意識を閉ざした。
***
「ここは、いったい」
日が落ちても人の気配はなく、静寂が満ちる中庭。低木や苔むした岩にその間を流れる小川など、意匠を凝らした庭を月だけが照らし出している。
つい先ほど。
まだ残照が曖昧な色に空を染めていた時分に、青年はこちらの邸の前で目を覚まし、この美しい庭を臨む部屋へと連れてこられた。青年をここまで連れてきてくれたのは、変てこな格好の子どもだ。狐のものによく似ている大きな耳を模した飾りに狐の面と、これまた狐のものによく似せた尻尾状の飾り。獣そのものに見える精巧な面をつけていては表情もよく分からなかったが、子どもはとても丁寧な所作で青年――璃宇をここまで案内してくれた。
「ようこそいらっしゃいました。魂の欠損なくここまで辿りつけたのは、貴方様の今生の行いが素晴らしかったからですね」
幼い声音なのに、滑らかな喋り。
中庭を臨む廊下を渡り、綺麗な名前のついた部屋の中へと通された。
土にまみれ汚れた長衣を脱がされ、清拭されてから豪奢な衣装を着つけられる。金糸と銀糸がふんだんに使われていて、第四皇子である璃宇が普段着ている衣装よりも余程立派なものだ。
冗談のつもりで「これ、婚儀の衣装みたいだな」と狐面の子どもに話しかけてはみたものの、「よくお似合いですよ」と見当違いな答えが返ってくるだけだった。
衣装と髪を整えてもらう。
涼やかな音を立てる装飾品を耳や首、手足に付けて最後に玉佩を垂らしたところで、水菓子が出てきた。
冷たく甘い水菓子は、喉が渇き始めた璃宇の体内に心地よく染み渡っていく。ここはどこなのだろう、という疑問はすっかりと消え失せていた。
表情が緩んでしまうのを自覚しながら食べていると、狐面の子どもの尻尾飾りがゆったりと揺れるのが視界に映る。それから「貴方様の願いが無事に叶いますように」とだけ子どもは最後に笑い、下がってしまったのだが――。
(面をつけているのに、口元が笑って見えたな)
器用に動いていた手も、柔らかそうなふわふわとした毛に覆われていて、人というよりは獣そのものだった。首を傾げたついでに、狐面の子どもが最後に口にした言葉を思い返してみる。
(さて。俺の願いとは、なんのことだ?)
今まであまり親しく話したこともなかったし、むしろ邪険にされていると思っていた三番目の兄から、誕生祝いだと宴席を設けてもらったところまでは覚えている。
兄との会話が思いがけず弾み、嬉しかったということも。
宴が終わった後も兄の私室に呼ばれて、酒杯を酌み交わしながら楽しく会話をしていたはずが――その途中から泥酔してしまったのか、目が覚めたら見知らぬ誰かの邸宅の前で、土埃にまみれたひどいあり様で転がっていた。
「ここで寛げと言われても……いや、確かに居心地は悪くないのだが」
独りごちても、答えてくれる者はいない。暇つぶしのために用意しておいてくれたのか、卓の上に積み上げられている巻物に手を伸ばして――もふっとするものを、璃宇は掴んでいた。
「毛の生えた巻物……の、訳がないな。これは蝙蝠か?」
しかも、まだ生きている。今まで見たことがないくらいに可愛らしい顔をした蝙蝠に笑いかけると、蝙蝠はじたばたと暴れ始めた。
「すまぬ、苦しかったか」
慌てて手を開くと、飛んで逃げていくと思われた蝙蝠は、ちょこんと璃宇の片方の手首に留まりなおした。そのまま、ちょいちょいと小さな鉤爪で璃宇の衣装を引っ張る。
「これは借り物なのだぞ。傷をつけてはならぬ。……もしかして、腹が空いているのか?」
狐面の子どもはご自由にと、水菓子が盛られた皿を置いていってくれた。
そこから小さな蝙蝠でも食べられそうな大きさのものを選んで蝙蝠に見せると、蝙蝠は翼の先についている鉤爪で器用に受け取った。もぐもぐと食べ終えた蝙蝠にペロリと自身の指先を舐められて、記憶のどこかがその感触を知っているぞと反応する――が。
璃宇には、蝙蝠の知り合いなどいない。
「もっと食べるか?」
そう思って別な水菓子も差し出したが、蝙蝠は違うと言いたげに首を左右に振ると、また璃宇の衣を引っ張り始めた。「だから、やめよ」と困りながら蝙蝠に声をかけても、蝙蝠は引っ張るのをやめてくれない。
璃宇が立ち上がる素振りを見せると、蝙蝠は小さな頭を持ち上げ、長い耳を動かして見せた。どうやら、どこかへと案内したいらしい。
そう確信した璃宇の手首から羽ばたくと、蝙蝠はあまり璃宇から離れずに低く飛びながら、部屋の外へと出た。今までいた部屋から出るためにすっかりと立ち上がってから、璃宇は己が着せられている衣装の立派さに改めて驚いた。
(着つけられていた時にはそこまでと思わなかったが……我が国のものとはまた違う趣きがある)
皇族というのもほとんど名ばかりで、璃宇は軍を総括する者として「将らしくない」と言われながらも、常に鎧を纏い馬と部下たちと共に駆けまわってきた。
鎧を重いと感じたことはないのに、こんなにも立派で重い衣装を璃宇は持っていない。しかも、ずるずると長いので歩くのにも一苦労だ。蝙蝠を追いつつ中庭を臨む廊下の途中まで歩き進めたところで、鈴の音が近づいてくるのが聞こえてきた。
「灯りと、大きな傘?」
向こうから、中庭にかかる橋を通ってこちら側へと一行が近づいてきた。
貴人がいるのか、日も沈んでしまったというのに大きな傘で姿を覆い隠している。
鈴の音は、貴人の訪いを告げる先触れであったらしい。その鈴の音にひかれて、足が勝手に中庭へと向かっていた。そんな璃宇を止める声もまた、ない。
階段を下りて美しい庭に入り込むと花々の良い香りがして、緊張が解けていく。
それから、演習に向かう時に似た高揚感すら覚えた。
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