02

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 僅かな足音と、衣擦れの音と。  己の前を通り過ぎていくと思えた華やかな一行は、ぴたりと璃宇の前で止まった。鈴は三度続けて鳴り、そして止む。大きな傘が璃宇のことも覆ってきた。そしてすぐさま、先ほどの狐面の子どもと同様に様々な動物の面をつけた者たちが俊敏に動き、璃宇のいる辺りに毛足が長く厚みのある絨毯を敷いた。 「男の『花嫁』殿とは、めずらしい」  低い、男の声が間近でした。  今まで大きな傘で隠れていた貴人の顔が、ようやく顕わになる。  獣面は付けておらず、精悍な顔つきをした背の高い男がそこにいた。他の従者たちと同様に、頭には狼を思わせる黒灰色の大きく尖った耳と、その色に合わせた尻尾にそっくりな飾りがついている。もしかしたら、この屋敷ではそういう格好をするのが習わしなのかもしれない。  そうあっさりと自分を納得させている間に、璃宇の間近まで男は迫っていた。 「初めてお目にかかる。自分は硝〈しょう〉国の玻睿〈はえい〉、字を璃宇と申す者。貴殿がこの家の(あるじ)殿であろうか? 立派な衣装まで貸していただき、申し訳なく――」 「其方。私の、この見た目が恐ろしくはないのか?」  なるべく丁寧な挨拶をと頑張った璃宇に、男は素っ気なく言い返してきた。見た目はどうだと問われれば、確かに耳と尾に似た飾りは珍しいと思うが、それが彼らの伝統なら璃宇は気にしない。  他国に赴けば、自国とは違う出で立ちになるのは当たり前だと知っているからだ。 「別段、恐ろしくなどは。趣きある美しい庭の主に相応しい、端整な御方だとは思うが」 「良い面構えをしている」  鋭い爪を持った男の指が、璃宇の頬に触れてきた瞬間――ぞくっとするものを感じた。ほとんど戦とは無縁の自国だが、それでもたまに国境沿いで蛮族と争いになることくらいはあり、相手から剣を向けられれば戦うこともあった。  それなのに今、璃宇は男のされるがままになっている。 「其方から、良い香りがする」 「良い香り? それは、先ほど俺も思っていたところだ。きっとそれは、花の良い香りが」  男は、鼻梁の高い自身の鼻先を、璃宇の首元に押し付けてきた。男の接近と共に感じた寒気も霧散していく。それよりも、艶やかな男の黒髪や耳飾りが、璃宇の頬や耳元にあたってくすぐったい。まるで大きな犬がじゃれついてきたみたいで、「くすぐったいな」と璃宇が笑いながら男の肩に手を添えると、狼耳によく似た耳の飾りが大きく動いた。本物の――生きている狼の、耳のように。 「その飾り、まるで本物みたいだ」 「飾り?」  男が頭に付けている獣の耳に似た飾りが、ふるりとまた動いた。男にしっかりと手首を掴まれてから、璃宇は無意識に男の頭に触れていたことに気づいた。笑うことなく真っすぐにこちらを見てくる眼差しは、めずらしい琥珀色をしている。男は強い力を込めている風にも思えなかったのに、あっさりと璃宇は地面に仰向けとなっていた。男に押し倒されたのだ。 「其方はもしや、私のことを人だと思っていたのか?」 「ええと……もしかして飾りではないのかもと、今は思っている」  ふふ、と男以外の誰かが笑う気配がした。  璃宇もやっと、自分が根本的な勘違いをしていたことに気づき、鈍感な自分が恥ずかしくてつい照れ笑いを浮かべてしまう。  浮世離れした美しい場所と美しい主だとは思っていたが。どうやら、神仙の住まいに迷い込んでしまったらしい。  男自身も綺麗に笑うと一度だけ首を軽く横に振り、姿を変えた。それこそ狼同然の姿形をした、大きなけものへと。 『これではどうだ? 其方の手。剣を持つ者なのだろう。異形の私を切り捨てようとは思わないのか?』 「貴殿を? そんな、まさか! 泥酔でもして道端に落ちていたのだろう俺を、家に招き入れてくれたのに。恩人に剣先を向けるほど、俺は野蛮ではないつもりだ。それに、実は幼い頃は神仙の世界に憧れてもいた。正直に言うと今、興奮している。その……貴殿の美しい毛並みに触れても良いだろうか」  獣の姿でも話すことができる大狼の琥珀色の目が、大きく瞬いた。璃宇の言ったことが意外だとばかりに。子どもじみたことを言ってしまった自覚はあるのだが、幼い頃から人よりも動物たちと触れあうことの方が多かった璃宇にとって、大狼の美しい佇まいは目を奪われるものだ。  さすがに失礼だったかと、言い繕おうとした璃宇の口は言葉を発する前に、温かなもので塞がれていた。 「……ん、っ」  男の、端整な顔が間近にある。先ほどと同じ、人と似た姿を取ったのだ。驚きのあまり男から逃れたくても、両の手首を掴まれてしまって動けない。口腔内で蠢くのは、男の舌だ。抗おうすればする程、絡めとられて歯列をなぞられて――今まで味わったことのない感触に、段々と陶酔してしまう。  何とか押し戻そうとした最後の抵抗すらも更に舌を絡み合わせられるだけに終わり、抗う気持ちまで奪われてしまった。  息継ぎの仕方も分からなくなり、苦しくて呻いたところでようやく男の顔が離れた。 「あ、……主殿! 俺も、貴殿と同じ男なのだが……なぜ、口づけなど」 「男であろうと何であろうと、差し出された『花嫁』を喰らうかどうかは我らの自由。野太く醜い悲鳴を上げて逃げ惑うなら、さっさと八つ裂きにしてやろうかとも思ったが……可愛らしいことを紡ぐその口が、どういう声を上げるのか興味を持った」  武人の端くれのつもりであり、貧弱でもない璃宇の力をもっても、男の力を跳ねのけることができない。  自身の置かれている状況を考えているうちに、璃宇の視界は大きな傘――天蓋によって、男と二人だけになっていた。時折ふわりと触れてくる狼尾の感触が、たまらない。 「差し出されたもの……俺を喰らうということか。狐面の少年が運んでくれた水菓子の方が余程美味いだろうに。自分でも残念に思うが、恐らく俺は肉も硬いし不味いと思う。主殿が腹を壊さないと良いが」 「喰われると分かって、心配するところはそこなのか?」  男は呆れたのか、それとも笑ったのか。
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