ホームレスの恩返し

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「あの~、ちょっといいですか?」 「はい?」 「私、南央パラジソ語科の学生です。パラジソ語勉強しているのかなと思って前から気になって」 「ああ、ええ、このテキスト拾ったんですけど、英語のアルファベットとはまるで違っていて面白いなと思って」 「そうですか、文法は複雑ですけど、でも、それも暗号解読に似てて面白いですよ」 「そうですか……あの私に何か用ですか?」 「あ! あの、これ良かったら読んでください。私が高校生の時のだから少し古いけど、でも、まだキレイだし、書き込みしたかったら、マーカーペンとシャーペンもあげますから、勉強してください」 「いや、貰えない、そんなことしてもらう訳には……」 「いんです! 私、3か月毎日見てました。すごく熱心にパラジソ語読んでて感心したんですよ。だってこんなに難しくて、しょっちゅうやめたくなるんですけど、小父さんが頑張ってるからって思うと私もやめるわけにいかないなって」 「そうですか……小父さんはちょっとショックだけど、嬉しいです」 「あ、ごめんなさい。お幾つなんですか?」 「私は、29歳です」 「え!!50歳くらいに見える」 「正直ですね。ええ、ホームレス生活は過酷だから……」 「あの、なにかできますか?」 「いや、こうなったのは自業自得もあるんです。施しを受ける気はないですから」 「……」 「でも、パラジソ語のテキストとペンは有難いな。ありがとう!お嬢さんも学業は頑張ってください」 「はい」  麻子は心がじわーっと温かくなった。ホームレスのお兄さんと競争でパラジソ語の習得に励もうと思った。  それから、ホームレスのお兄さんは、20冊渡したテキストを次々と攻略していった。麻子は夕方たまに、帰宅途中に声をかけることがあった。ホームレスのお兄さんは、文法のことで質問することがあったからだ。 「どうですか? 進んでますか?」 「ええ、学ぶって本当に楽しいことだね」 「分からないところは?」 「うん、この形容詞の硬変化と軟変化というところだけど、どうしてこれだけ、規則と違うの?」 「ええ、これは特定の文字の後にはこっちの母音に入れ替える正字法っていうルールなんです」 「そうなのか!」 「ええ、規則さえ知れば難しくないでしょ」 「ありがとう、疑問が払拭したよ」  ホームレスと話す年若い女は通行人にはとても奇異に見えていた。信吾が追いかけてきて麻子の腕を引っ張ってホームレスから引き離した。 「田島! ホームレスと関わるなって言っただろ」 「卓也先輩! 理解してください、学ぶ権利は誰にでも平等でしょ?」 「皆、変な目で見てるって!」 「でも!」  ホームレスのお兄さんは、その様子を遠目に悲しそうに見つめていた。無理やり卓也に引っ張られて聖子はその場を後にした。  翌日、ホームレスのお兄さんの姿は、定位置になかった。  麻子は、卓也を詰っった。 「信吾先輩、前に言ったでしょ! 人の心模様をカテゴライズして分析する私を青いって!」 「ああ、言ったさ。だがな、それはあくまで、心模様のことだ。自堕落な暮らしでホームレスになったという事実と、あの男性の心模様は別の話だろ?」 「でも! ホームレスになったのは自堕落だったとばかりは言えないじゃないですか!」 「田島! やめろ! 関わるな。それともお前は、ホームレス全員を救い出せるとでも思いあがったんじゃないだろうな?」 「違いますけど……でも、パラジソ語を勉強していたんです、あの人」 「パラジソ語やっている人に悪人はいないとでも言いたいか?」 「いえ……」 「分かれよ、俺は、お前に危険が及ぶのが心配だったんだ」 「分かりました」    信吾は、憧れの存在だった。何を話しても、その理屈の見事さを、麻子は論破することができず、いつも悔しい思いをした。だからこそ、憧れ、密かに慕っていた。  しかし、このホームレスのお兄さんの一件には、信吾の偏見が強く、麻子を近づかせまいとする強い意志があった。論理の綻びには気づいたが、麻子は、自分を案じる信吾に負けてしまった。
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