ホームレスの恩返し

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 新宿駅の構内に暮らす男の一人に知る人ぞ知る『勉鬼』がいた。その男はリュックサックひとつとブルーシートしか持っていないが、いつも手には「NKH パラジソ語講座」のテキストが握られていた。むさくるしく伸びた髪の毛が肩にかかり、前髪は帽子の中に収まっている。カーキ色のジャンパーが彼の一張羅なのだろう、古びてはいるがよく洗濯され清潔に保たれていた。  ホームレスはその風体から年齢を推察するのがちょっと難しい。だが、よくよく観れば、50才前後に見える。  麻子にとっては新宿駅構内は通学路だ。ひとりポツンと京王線近くに陣取っているホームレスの男を横目に早足で大学に駆けていく。麻子は大分前からその男の手の中のパラジソ語講座のテキストに気づいていた。  そのテキストは、パラジソ語通訳界のレジェンドである川浪吉彦氏が監修し出演したことでプレミアがついた第156回放送分のテキストだった。麻子は通りかかる度に横目で確認する。その人は舐めるようにそのテキストを眺め、穴が開くかというほどに凝視している。だが、そのテキストはもう3か月間新しいものに変わることはなかった。  麻子は南央大学文学部パラジソ語科の学生だ。授業でパラジソ語の文法の複雑さに根をあげそうになっている。母に愚痴を零すと、「中学生の頃からパラジソ語に憧れてたんでしょう」と一蹴される。そうなのだ。麻子は、中二の時にドストエフスキーの「罪と罰」を読んだのだ。こんな凄い小説をいつか原語で読めるようになりたいと思ったのだが、パラジソ語がこんなに難しい言葉だと知らなかったその頃の自分に「苦労するよ」と言ってやりたかった。  パラジソ語の格変化の難解さを知らない母には分かってもらえることはない。学習したものにしかわからないのだ。18歳の若い頭にとっても語尾が6通りに変化する格変化と人称ごとに違う動詞の活用形を覚えるのは苦労以外のなにものでもないのだから。  麻子は気になって仕方なかった。麻子達は入学後、3か月で動詞の活用と、格変化の半分は勉強したがこのホームレスの小父さんは、3か月毎日同じテキストだけ凝視している。勉強が進まないのではないか?と。  クラブの先輩で憧れている信吾に言ってみた。 「ねえ、新宿駅のホームレスの小父さんがパラジソ語講座のテキストを穴が開くほど毎日眺めているのね。朝に通りかかるときも、夕方に通りかかる時も毎回テキスト開いてずっと眺めてるんだよ。新しいのは買えないみたいだからパラジソ語の知識が増えないんじゃないかな?」 「ホームレスがパラジソ語勉強してどうなるって言うんだよ。多分、そのおじさん、ファッションでパラジソ語のテキスト開いてるんだよ。『俺はホームレスで終わる男じゃない!』ってアピールしてるんじゃないのか?」 「そうかな?あまりにも熱心だから気になるんだよ」 「おい、田島、頼むよ。ホームレスと関わらないでくれ」 「はい……」  信吾先輩はああ言うけど、パラジソ語の難解さはポーズで勉強できるようなもんじゃない。眺めているだけではない。あの小父さんはちゃんと毎日違うページを読んでいるんだ。パラジソ語への熱意を感じるんだ。麻子は力になりたいと思い、信吾に関わるなと言われたことで逆に、応援心に火がついた。  家に仕舞ってあった『NKHパラジソ語講座』のテキストを引っ張り出してきた。高校生の頃、テレビのパラジソ語講座を観ようと思って買い込んだが、学校の宿題や受験勉強に追われてほとんど開かなかった。20冊も紐で括って押し入れの肥やしになっていたものをそのまま紙袋に突っ込み、翌朝、駅構内を通るときに渡そうと意気込んだ。  麻子は電車に乗っている時からソワソワした。ホームレスと話をしたことがない。狂暴そうには見えないが、だからと言って優しそうにも見えない。施しを受けて自尊心が傷つくタイプの小父さんだろうか? それとも喜ぶだろうか?と、エンドレスに考えが頭の中を駆け巡った。  駅に着き、新宿駅の構内へと足を進めると、50メートルほど先に件の小父さんがブルーシートを広げて胡坐をかいて座っている。近づくといつものようにパラジソ語講座のテキストを開いていた。今日は、23ページを読んでいる。慎重に近づいて、後ろから声をかけた。
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