序 章  政  変

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序 章  政  変

   王都の迎賓館に用意された客間に入ると、大切な詩譜を詰めた荷物を下ろす。それから顔を覆う面布と、腰の剣を外した。  観音開きの窓を押し開けた。部屋は三階、大陸一の人口を誇る新央国の都に夏の暑さを飛ばす高原の涼風が吹き抜ける。 「いい風……本当に久しぶり」  金の髪がそよぎ、頬をなでる。ずっと素顔を隠して旅してきた。やっと、この風を顔で感じることができる。  胸いっぱいに吸った乾いた空気の向こうに、旅で通ってきた緑の山脈が見えた。手前に広がるのは、東西南北に整然と道路が組まれた石造りの巨大な街。  都の中心部を十字に貫く大街道は、荷物を引く使役の天使がひっきりなしに右往左来する。  市場には大陸中から集まった商人の売り声がこだまし、広場では麻を藍で格子模様に染めた祝祭服の市民が踊りの輪を作っていた。犬の頭骨を被った犬族、鹿の頭骨を被った鹿族の人間も酒杯を授かり、宴を楽しんでいる。  商店の軒先には無数の新央国国旗と、祝賀の旗。  国王陛下のご成婚四十年の祝典が、あす王宮で開かれる。街は祭りムード一色だ。  迎賓館左にある黒寿杉の重厚な建物は王宮だ。三年前と何一つ変わらない。館とは季節の花で彩られた中庭を隔てて、小道でつながっている。  その時。  右手の公園の一角から、大きな悲鳴が聞こえた。  声の方向に首を伸ばす。若い女性が座り込み、震えているのが見えた。 「子どもがっ……私の子どもがっ!」  理由はすぐに知れた。芝の上で天使がうなり声を上げている。  炎興(えんこう)国の炎天使だ。虎より二回り大きく、八本の太い脚と鋭い爪、全身に赤銅色の逆毛。顔は天使の特徴である人面、詩を集める長い耳。その脚元に五歳くらいの人間の女の子がいた。  反射的に体が動いた。面布を巻き直し、素顔を隠してから部屋を飛び出す。  黒檀の廊下を一息で走り抜け、絨毯敷きのらせん階段を跳ねるように駆け下りた。レンガの玄関と鉄門を抜けると、公園に槍を握った兵士と市民が二十人ほど集まっていた。野次馬の間をすり抜ける。母親は半狂乱になっていた。 「早く天使を殺して。私の娘を助けてっ!」 「少し待ってください」  突き出されようとしていた槍の穂先の前に割入った。天使が食らいつく速さは槍の一突きを上回る。 「女、危ないっ、下がれ!」 「私は黒狼(こくろう)国の詩縫(うたぬ)いです。この炎天使はまだ子どもです。私に任せてください」 「黒狼の詩縫い師? しかし炎天使は炎興の……?」  兵士は、目をぱちくりとする。  炎天使が私に「グルルルウ……」と威嚇ののど笛を慣らす。前脚で頭をつかまれた女の子は、火がついたように泣き出した。天使の一握りで柘榴のように弾けるだろう。炎天使の深遠の瞳を見つめ、呼吸を合わせる。  それから唇を開いて口蓋を膨らませ、声帯を震わせて詩を吟じた。
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