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1話
「津村くん、どうしよう」
不意に声をかけられて、僕は机から視線を上げ、斜め前の席に座っている高森さんを窺った。彼女が深刻な表情でディスプレイを見据えているので、そちらに尋ねる。
「パソコンのトラブルですか?」
「ううん、そうじゃなくて」
高森さんはこちらへ向かって、真剣な顔で言った。
「急に、フライドチキンが食べたくなった」
「……はぁ、そうですか」
「いったんそう思うと、胃が『それ以外は受け付けない』って主張してくる」
「そんな極端な。まぁ気持ちは分かります、今日はクリスマスイヴですもんね」
「そーだよ。人も街も浮足立つこの日に、なんで私たちは黙々と残業してるのかなぁ」
「ここに片付けないといけない仕事があるからです」
「まったくもって正論をありがとう」
彼女は恨めしげな視線を向けてから、机に突っ伏した。
「ああっ、今日中にフライドチキンを食べなければ、私は死ぬかもしれない!」
「ほんとうに死にそうな人は、『かもしれない』なんて悠長なことは言いません」
「津村くんが冷たい」
「そりゃ、なんの予定もない淋しい身ですけど、嬉々として残業してるわけじゃないんで、早く帰りたいんです」
すると高森さんは体を起こして、首を傾げた。
「ごもっとも。して、首尾はいかが?」
「進捗状況ですか? あと十五分といったところです」
「こっちはあと十分だよ。勝った」
「べつに勝負してません」
彼女はくすくす笑った。そして、こちらをじっと見つめる。
「お礼するから、仕事のあと、ちょっとだけ寄り道に付き合ってくれない?」
「はぁ、構いませんけどなんです?」
「津村くんは私の命の恩人だ」
「大げさな……」
呆れる僕に対し、相手は子どもみたいにちょろっと舌を出した。
残業から解放されたあと、高森さんに連れて行かれたのは、最寄り駅のフライドチキンの店だった。彼女は目的のものが買えればよかったらしいが、テイクアウトの客は長蛇の列をなし、逆に店内には空席がいくつかあったので、そちらで飲食することにした。
高森さんは念願のチキンをゲットできるとあり、非常にご機嫌で、注文時にはカウンターで「好きなだけ頼んでいいよ」と言ってくれた。僕はついてきただけだが、ここで遠慮するのもな、とサイドメニューやドリンクをつけて、奢ってもらった。
商品を乗せたトレイを手に、壁際の二人席に着く。思えば一対一で食事をするのは初めてだ。けれど年齢がひとつ違いでもあり、社食で数人が集まってテーブルを囲むこともある。課の飲み会もしょっちゅう行われているので、とくに改まった感じはなかった。ここがファーストフード店ということもあるだろう。
高森さんはさっそくチキンを一口食べて、幻の料理に出会えたみたいな、幸せいっぱいの笑みを浮かべた。コーラで喉を潤した僕は、つられて笑う。
「どんだけ食べたかったんですか。生き返った顔してますよ」
「自分でもおかしいと思うよ。昼過ぎまでクリスマスなんて他人事で、これっぽっちも関心なかったのに。唐突にスイッチ入っちゃった」
「まぁ、こうして季節ものを楽しむのは悪くないですね」
すると相手が申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんね、付き合わせちゃって。早く帰りたいって言ってたのに」
「いえ。一緒に来ただけでこんなに奢ってもらって得しました」
仮にテイクアウトし、家に帰って一人で食べるのも、それはそれでわびしい。普段は独り身が苦にならないけれど、こういった家族や恋人のイベントの時期は、すきま風が身に沁みる。高森さんは気の置けない相手だから、さっさと帰宅したいとは思わなかった。
僕もチキンを口にする。
「美味いですね。今日これを食べるのは、いつもより」
「だよね! よかったー、津村くんをただ犠牲にしたんじゃなくて」
「ほんとに嫌ならついてきませんって」
「さすがに今日は一人では来づらかったから、同行してくれて助かったよ。ありがとう。ほらほら、たーんと食べなさい。足りなかったら追加もオッケーだよ」
「いやいや、これで充分ですよ」
明るく会話しながら口に運べば、サイドメニューやサラダだって美味しい。テーブルの向こうに誰かがいるっていう状況は特別なんだな、と感じた。
店を出ると、高森さんは嬉しそうにため息をついた。
「はぁ、満足満足~」
「ごちそうさまでした」
「どういたしまして。それじゃ、津村くんを解放してあげよう。といっても、改札を抜けるまでは同じ道か」
僕は思わず彼女を見つめる。すると相手が「うん?」と不思議そうな顔をした。僕はわずかに視線を逸らす。
「……いえ、なんでも」
並んで駅の構内を歩いていく。高森さんがよその名物課長の笑えるエピソードを話してくれる。僕はそれに対して無難な相槌を打った。
階段を上ってしばらく進んだところで、彼女が「あっ」と声を上げた。そして行き交う人とぶつからないよう、離れていく。あとを追うと、立ち止まった相手の視線の先にケーキ屋があった。
僕は歩み寄って声をかける。
「またスイッチ入っちゃいました?」
「こんな時間なのに、今日はさすがに品ぞろえがいいねぇ。どれも美味しそうで選べない~」
「せっかくですから、いくつか買ったらいいんじゃないですか?」
「魅惑的な悪魔のささやきだなぁ」
そわそわとショーケースの端から端まで眺めていた高森さんが、こちらの腕をぽんぽんと軽く叩いた。
「津村くん、あれ! ブッシュ・ド・ノエルにサンタさんと雪だるまが乗っかってる、かわいい~!」
「これは食べるのがもったいないですね」
「でも憧れ。死ぬまでに一度でいいから食べたい」
「いやいや、手の届かない値段でもないんですし、自分へのご褒美にすればどうです?」
「うーん、そうしたいのはやまやまだけど」
彼女がしゅんとした。
「さすがにおっきくて厳しい」
言われてみれば、ホールケーキ並みのボリュームだ。甘いもの好きでも、平らげるのはきついだろう。そういう意味では、一人用のケーキにすべきかもしれない。でも諦めにくそうにブッシュ・ド・ノエルを眺める横顔を見ると、『この場は正論が融通を利かせろ』と思った。
「じゃあ、これを買ってシェアしませんか? 僕は飾りにこだわりませんから、サンタも雪だるまも差し上げますよ。というか、ここは奢らせてください。僕はこのままだとケーキを食べないと思うんです。けど高森さんにお裾分けしてもらえるなら、またひとつクリスマスっぽいことができます」
すると、彼女がびっくりした顔を向けた。
「えっ、えぇと……」
「いつもがんばってるんだから、今日は自分の望みを叶えてあげたらいかがですか? チキンとケーキぐらいなら問題ないでしょう。したいことをするのは大事ですよ」
高森さんが見開いた目でまばたきする。僕は苦笑しながら頭をかいた。
「偉そうでした、すみません」
「う、ううん」
彼女はちょっと考えてから、くすっと笑いかけた。
「たしかに私、やたらとブレーキかけちゃうところある。このことで誰かを不幸にするわけでもないのにね。『やらない理由』ばかり並べたててたら、チャンスを逃したままお墓に入ることになるかも。津村くんが背中を押してくれるんだ、思いきったことしちゃおうか?」
「ええ。チキンを食べてるとき、すごくニコニコしてましたから、今日はそんな高森さんでいてください」
「ありがとう」
素直に喜ぶ姿を見られて恥ずかしかったのか、彼女は頬を染めた。
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