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 特別な準備など必要ないという天行の言葉に従い、柴本はそのまま目的地へと向かった。  柴本とわたしが暮らす家から車でだいたい20分あまり。河都市弓取区岩降町(こうとし・ゆどりく・いわふりちょう)にある鉄筋コンクリート3階建ての集合住宅。  40年以上昔に建てられたと思しきその建物は、外壁は汚れたまま放置され、窓という窓には木の板が打ち付けてあった。 「ささ、こちらで御座いますン♡」  僧形の男に案内されるまま、伸び放題の雑草を踏み越えながら敷地内を進んでゆく。 「では、どうぞ♡」  102号室と記されたドアを開け、入るように促された柴本は 「あ、おれから入るんですね」 「ええ♡ 危険手当も含めた額ですので♡ あ、中は汚れているので靴は脱がなくて結構ですン♡」  報酬について言及されれば何も言えず、観念してドアの中へと入った。  窓という窓に板きれが打ち付けられた室内は真っ暗だった。血や肉、あるいは何やら汚物の類が混じり、それらが腐ったような()えた臭いが鼻をついた。  残暑厳しい8月末である。莫大な報酬に目が眩んだことを心底から悔いた柴本だったが、既に手遅れだった。 「うぇっ、何だこれ」  鼻を押さえて入ってくる量を調整しながら、臭いを嗅ぎ分けるよう試みる。  吐き気を催すような悪臭に混じって、微かに感情が動く匂い――憎しみや怒りに似ていた――を捉えた。  それが何なのかを考えようとしたとき、後ろでカチャリと音がした。 「なんだ?」  振り向くと、ドアが閉まっていた。 「おいおい、冗談キツいぜ」  開けようとしたところで、ドアノブそのものがないことに気がついた。  内側から開けられないように取り外され、鍵もまた中から開けられないように細工が施されている。 「ウッフッフッフッフッフッフッフ♡」  ドアの向こうからは、心底嬉しそうな依頼人の笑い声。 「なぁおい、ヘンな冗談はよして、開けてくれよ」 「ご心配なく♡ 儀式が完了したら開けます故♡ ではまたウッフッフッフッフ♡」 「待ちやがれテメェっ! くそっ!」  遠ざかってゆく雪駄履きの足音に、柴本は歯がみした。
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