また会えたね

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「また会えたね。」 そう言って微笑んだ目の前の女の人が誰なのかまったく分からず、眉間に力が集まるのが分かった。無視はいけないと思い、かろうじて「はあ。」とため息にも聞こえるものが薄く開いた口から漏れた。 「もしかして、わたしのこと覚えてないの?」 女の人が首を傾げる。艶たっぷりのツインテールが傾いた。 「はあ。」 また息を漏らすと、彼女は苦笑した。「ええ、ショック~。」と全然ショックではなさそうな明るい声も出てくる。 視線を時計に向けて、私は「すみません、仕事があるので。」と呟く。そのまま駅へ歩き出す。突然女の人が前に立ち止まり、また会えたねなんて言うから足を止めてしまったけれど、私は今仕事中なのだ。一時間後には会議がある。急いで会社に戻らないといけない。 「洋子ちゃん。」 けれど、聞き覚えのない甘い声がまた聞こえて、私は懲りずに足を止めた。振り返る。変わらず、さっきの女の人が笑っている。 黒髪のツインテール、甘さをたっぷりと加えたメイクと声色、身長は私よりも低いから多分百六十はない。真っ白なワンピース。日傘にはカラフルなリボンがついている。 記憶にない。こんな人、知らないし見たことない。どう見ても普通の社会人には見えないから、一緒に仕事をしたことがある人でもないだろう。じゃあ、学生時代の同級生なのか。いや、こんなに癖の強い人と過ごした覚えはない。じゃあ、もっと前に関わった人なのか。そもそも、この人は私と同年代なのだろうか。触り心地のよさそうなピンクの頬、ぷるんと光るピンクの唇、手はレースがついた白い手袋に覆われている。 こんな人、知らない。どれだけ記憶を遡っても、この人と重なる姿はない。なのに、どうしてこの人は私の名前を知っているんだろう。 恐怖が心を蝕み始めている。顔が歪みそうになった時、電車の発車音がけたたましく鳴り響いた。 見上げてみれば、私が乗る予定だった電車が線路の上を走って進んでいく。 この人のせいで、予定が狂わされている。 恐怖の黒と怒りの赤が心の中でせめぎ合う。 けれど、私は三十歳だ。社会人であり、一人の普通の大人である。ネガティブな感情を表に出さない方法は熟知している。 「どちら様でしょうか?」 発し慣れているはずの外向きの声が少しだけ上ずった。 そして思い出す、これは間違った敬語だったと。先日後輩に誤用を指摘したばかりなのに。 ああ、思った以上に私は混乱してしまっているらしい。けれど、外向きの表情を崩さずに対応する。そんな私を、見知らぬ彼女は笑った。 「どちら様って、やっぱり覚えてないんだね。中学の時に洋子ちゃんが仲良くしてくれてた、川上真緒だよ。クラスは一回も同じにならなかったけど、美術部は三年間ずっと一緒だった、川上真緒。」 ふふ、と彼女はなんだか誇らしげに笑った。 かわかみまお。川上真緒。その名前を記憶のクローゼットの中で一生懸命探す、こともなく、すぐに思い当たる人がいた。けれど、記憶の中の彼女と、今目の前で笑う彼女はどうしても重ならない。 だって、あまりにも違いすぎるのだ。 小中学生の頃、私はファッションが大好きだった。素敵な服を着て、胸を張って街中を歩く。そんなことをしている人が特に好きだった。隠し切れない自信と、やっぱり素敵なたくさんのアイテム。惹かれないわけがなかった。次第に、私の興味はファッションデザインに向くようになる。思いつけばすぐにスケッチブックを開いて、いろんな洋服を描いた。それを本物にすることはできなかったけれど、とても楽しかった。描いては誰かに見せていた記憶がある。それが、川上真緒、真緒ちゃんだった。 真緒ちゃんはあまりにも自信がない子だった。けれど、私と同じくファッションが大好きな子だった。ピシッと伸びた背筋に似合わない自信のなさ。そのチグハグがなんだか面白かった。 私が好んだのはシンプルな色味だけれど形が奇抜なもの。街で見かけたら、その独創性に二度見をしてしまうようなアイテムが好きだった。反対に、真緒ちゃんが好んだのはガーリッシュなもの。リボンやフリルがふんだんに使われている、女の子の憧れが詰まったようなアイテムだった。分厚い眼鏡に垢抜けない真緒ちゃんが好きなものは甘く可愛いもの。そのギャップに私はまたはまっていたと思う。私達は好むジャンルが違えど、デザイン画を描いては見せ、意見を言い合った。私達がいた美術部は廃部寸前の小さな部活で、しっかりとした活動はほとんどなかった。だから好きなものを好きなだけ描いて、私達はお互いに披露することができた。とても楽しい時間だったと記憶している。 真緒ちゃんと会うのは中学卒業以来だ。高校は別のところへ進んだし、連絡先を交換することもしなかった。約十五年間。真緒ちゃんは全く違う女の人になっていた。 水分を失っていない白い肌を見て、私は自分の肌すべてを隠したくなった。時間をかけて保湿なんてする余裕はなく、切り傷ができても絆創膏すら貼らなかった。そんな私の肌は私が思う以上に荒れているのだろう。 「思い出した?」 頬を見ていると、真緒ちゃんの甘い声が降ってくる。声質も変わっていると思いながら、私は無言で頷いた。 「そっか、よかった。わたし、ずっと洋子ちゃんに会いたかったの。わたし達、ずっとファッションに携わる仕事がしたいって言っていたでしょう?わたしは今、ブランドのデザイナーをさせてもらってるんだけど。洋子ちゃんはどんなお仕事してるの?昔みたいにデザイン画の見せ合いっこしたいなあ。居酒屋とかでそういうことするのってロマンがあると思わない?わたし、今夜空いてるんだけど、洋子ちゃんはどう?お酒でも飲みながら、話そうよ。話したいことも聞きたいこともいっぱいあるから。ずっと会いたかったんだよ。だって、洋子ちゃん、同窓会にも一度も参加していないでしょ?あ、そうだ。連絡先交換しようよ。また昔みたいにいろんな話しよう。」 思いついたことそのままを口に出しているからか、話の順序がめちゃくちゃだった。これが後輩なら、すぐに指摘できるのに。真緒ちゃんの思いの大きさに、私は後ずさりをした。 中学生の私は、そっか、ファッション業界に就きたかったのか。残念、今は全然違う仕事をして、後輩にお局候補だよ、なんて揶揄されている。楽しそうな今の真緒ちゃんと、きっと目を輝かせていたのだろう昔の私が重なって、私は俯いた。 真緒ちゃんは夢を叶えたんだ。私は、高校も大学も普通のことを学んだ。デザイン画なんていつからか描かなくなって、ファッション雑誌を買うことも少なくなった。今ではもう、何がトレンドなのか知らない。仕事中はスーツ一択、家ではずっとジャージで過ごしている。 それを今の真緒ちゃんには、言えそうになかった。私が自分と同じくファッション業界に携わっていると信じてやまない彼女の瞳が、あまりにもきらきらしすぎていて、自分が惨めになる。 垢抜けなかった彼女が、昔の私が憧れていた人達と同じように、自信を持って街中を歩いている。 それに対して、私は。 呼吸が少しずつ荒くなる。そんな私に気付かず、真緒ちゃんは鼻歌を歌っている。 「ねえ、洋子ちゃ―――」 「ごめん、仕事あるから。」 彼女の弾む声を遮って、私は踵を返す。最後に盗み見た彼女の輝く瞳に映る私は、あまりにも醜かった。 洋子ちゃん、と呼びかける声が何度も背中に届く。 洋子ちゃん、見て、新しいの描いたよ。今と同じように弾む昔の彼女の声が脳内に響いた。 いつだって彼女は、ファッションを愛している。そして、周りも自分と同じだと信じ続けている。 開いてしまった記憶のクローゼットを閉じて、鍵をかけた。
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