子きつねコン太と加奈子の一週間

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 とある草原で、うさぎが草を食べるのに夢中になっていました。そこに忍び寄る影。異状に気付いて駆け出したうさぎの後を、しなやかな動きで追い掛ける一匹のきつねがいました。  ぴょんぴょんと逃げ回るうさぎの正面に、突然姿を現した子きつねがいました。うさぎを挟み撃ちにしようと、草むらに身を潜めていたのでした。子きつねは飛び跳ねて、うさぎへと駆けていきました。 「あっ!」  子きつねは深い草むらに足を取られて、勢い余って転んでしまいました。うさぎはそのまま子きつねの脇を通り過ぎていきました。  子きつねの後方に控えていた、もっと幼い子きつねが二匹いました。子きつね二匹は、突進してくるうさぎに恐れおののいて、とっさに草むらに身を伏せました。  うさぎは子きつね二匹の頭上を、ジャンプして飛び越えていきました。うさぎを追い掛けていたきつねは、あまりのショックに泣き出した子きつね二匹の前で止まりました。 「怪我はないかい? もう怖がらなくていいから、泣くのはお止め」  きつねは子きつね二匹の体に触れ合ってあやしました。先程転んでしまった子きつねが、とぼとぼと歩いてきました。子きつねは両耳を垂らしてうつむいていました。 「今日は仕方なかったのさ」きつねが子きつねにいいました。「あんまり慌てないことだね」  きつねは子きつね二匹の顔をそれぞれ一舐めしてから、子きつねに近づきました。子きつねは黙っていましたが、目には涙を溜めていました。 「いつまでもくよくよするんじゃないよ。それよりこの子達を連れて、我が家で留守番しておくれ。私はこれから出掛けてくるから」  きつねは子きつねの顔も舐めました。子きつねはされるがままいました。 「じゃあ、私は行くよ。家では変化の練習をするんだよ」  きつねはそういって、草原を去っていきました。  残された子きつねは、コン太といいます。その弟妹の子きつね二匹は、空と花子といいます。子きつねの姉は、サチといいます。 「帰ろうか」  コン太は子きつね二匹を連れて、草原脇の林の中に消えていきました。林の先には、小高い山がありました。山の中腹にある大きな樹木の裏手に、きつねの巣穴があります。山の傾斜に生えた茂みに覆われて、小さな巣穴の入り口は隠されていました。穴の奥はやや高めに掘られており、中に入ると広い空間がありました。  子きつね二匹は巣穴に戻ると、早速じゃれ合いました。コン太はその隣でお座りをして、目を閉じました。変化の練習を始めたのでした。  コン太は変化したい物をイメージしようと、意識を集中させました。しかし、それはあやふやな、漠然とした形にしかなりませんでした。コン太は変化したい物を、はるか遠くから見たことがあるだけでした。  コン太の腹の虫が鳴き、お腹が空いているのを感じました。コン太は目を開けました。 「僕も出掛けてくるから、お前達はおとなしくここで待っているんだよ。勝手に外に出てはいけないよ」  コン太は子きつね二匹にいいました。 「はーい」  子きつね二匹はコン太の言いつけを聞いて、頷きました。コン太はすくっと立ち上がって、巣穴の外へ出ていきました。見送った子きつね二匹は、再びじゃれ合いました。  コン太は食べ物を探しに行きました。 「今日は、あそこに行ってみよう」  コン太は山頂を目指して、けもの道をひたすら登っていきました。時折、人間が通る登山道と交差する場所に出ますが、聞き耳を立てて駆け抜けていきました。山頂に近づくと、コン太は足音を立てないように、茂みに触れないようにしました。  コン太は茂みの影から、山頂の平坦な広場を眺めました。小高い山頂では、ハイキングで訪れた人間達がシートを敷いて、その上でお菓子を食べていたり、遅い昼食を取っていました。  コン太は茂みのそばで食事をしている人間の背後へ、体をなるべく低くしてこっそりと進んでいきました。人間は会話に夢中になっていました。  コン太はシートの端まで行くことができました。目の前には、コン太が見たことのない料理が並べられていました。コン太は生つばを飲み込んで、シートの上に足を乗せました。 “カサッ”  シートから音がしました。コン太が足を止めて見上げると、ちょうど真正面に座っていた人間と目が合いました。人間はびっくりした表情をしましたが、顔を緩ませながら弾んだ声でいいました。 「まあ、なんて可愛いきつねさん」  コン太はすばやく回れ右をして逃げ出しました。 “ヒュウー”  コン太の耳元で、風を切る音がしました。先程までコン太がいた場所に、タカかワシと思われる鳥が横切っていきました。鳥は上空からコン太を狙って、急降下していたのでした。  コン太は茂みの中に飛び込みました。擦り傷を作りながらも、必死になって山を下っていきました。地面から突き出た木の根っこに足をすくわれて、盛大に転げました。  地面に伏せたまま、コン太は動きませんでした。走り疲れてしまったのでしょうか、ただ荒い呼吸だけが聞こえていました。やがて、コン太の体が震え出しました。山頂の広場で起きた、間一髪で鳥から逃れられた奇跡を思い出したのでした。  コン太はやっとのことで起き上がり、ふらつく足で巣穴へと戻りました。巣穴にたどり着くと、既にサチが帰っていました。子きつね二匹は、サチが吐き出した物を食べていました。 「この子達を置いて、どこに行っていたんだい?」  コン太に気付いたサチがいいました。コン太は黙っていました。サチがコン太に歩みました。 「外は危険が一杯だから、気を付けるんだよ」  サチはコン太の前足を舐めました。転んで擦りむいた傷ができていたのでした。サチはコン太の顔を舐めました。泥まみれになり、泣きじゃくった顔があったのでした。  コン太の腹の虫が悲鳴を上げました。 「あはは、空腹なんだね」サチは巣穴の奥に行って、何やらくわえて戻ってきました。「さあ、あんたもこれを食べな」  コン太の前に食べ物が置かれました。コン太は夢中になってそれを食べました。サチは巣穴の寝床に横になって、目を細めてコン太を眺めました。食事を終えた子きつね二匹は、サチのそばで重なるようにして眠ってしまいました。  コン太はお腹一杯になると、サチ達から離れた所で休みました。 「こっちに来るかい?」  サチが誘いましたが、コン太は首を振って独りで寝ることにしました。やがて、巣穴の中で寝息が聞こえるようになりました。  次の日、サチはコン太を連れて、狩りに出掛けました。子きつね二匹は巣穴でお留守番です。いつものように、コン太は草むらに身を潜めて、獲物が来るのを待ちました。 “カサカサ”  何かが草むらをかき分ける音を聞きました。コン太は飛び出す姿勢を取りました。 “サー”  草原に潜んでいたサチが駆け出しました。殺気を感じたうさぎが、音のした方向とは反対側に逃げました。サチはうさぎの後を追って、猛然と突進していきました。  うさぎは草むらに足を取られながらも、ピョンピョンと飛び跳ねていました。サチは一層早く走って、うさぎを追い立てました。 「わあっ!」  コン太がうさぎの前に姿を現しました。うさぎは一瞬驚いて、左右どちらに飛ぶのか迷いました。コン太はうさぎの右側に上体を移動させました。それを見たうさぎが左方向へと飛びました。  コン太は通り過ぎようとしている、うさぎに飛び掛かりました。うさぎの首根っこに牙を向けました。大きく開けた口は空を切りました。伸ばした前足が、かろうじてうさぎの腰あたりに届きました。うさぎはバランスを崩して、草むらに転びました。  コン太が向きを変えて、うさぎの行方を目で追いました。コン太の視線の先に、サチの姿がありました。うさぎの後を追っていたサチが、コン太の目前に立っていました。 “また、逃がしてしまった……”  コン太はそう思い、目を閉じてうな垂れました。 「よくやったよ」  サチがいいました。予想だにしなかった言葉に、コン太は目を開けてみました。サチの足元に伏しているうさぎがいました。サチに首根っこを噛まれていました。  コン太は瞳を輝かせながら、サチとうさぎを見つめました。 「お疲れ様、やったね」  サチがコン太にいいました。 「うん」  コン太がうれしそうに答えました。サチがうさぎをくわえて、巣穴に急ぎました。その後を軽やかな足取りで、コン太が走っていきました。 「ただいま」  コン太が先に巣穴に入って、サチがその後に続きました。 「おかえりなさーい」  子きつね二匹が声をそろえていいました。 「さあ、食べよう」  サチがうさぎを置いていいました。コン太は頷いて、うさぎを口にしました。  サチは噛み砕いた食べ物を口から出して、子きつね二匹に与えました。子きつね二匹は食べ終えると、欠伸をして奥の寝床に行きました。サチも連いていき、子きつね二匹の口元を舐めてきれいにしました。 「もう、食べないの?」  コン太がサチに聞きました。 「私はもういいよ。だから、あんたはお腹一杯食べな」  サチは子きつね二匹のそばで横になりました。 「うん」  コン太は久しぶりの大きな獲物を、夢中になって食べました。 「ごちそうさま」  コン太も寝床で寝転びました。目を閉じて、満腹感を味わいました。そして、いつの間にか寝入ってしまいました。  サチがふと目を開けました。子きつね達が眠っているのを見届けると、足音を立てないようにしながら巣穴の外に出ていきました。  サチが巣穴に戻ってきた時、コン太が変化の練習をしているところでした。コン太は目をつぶってなりたい物をイメージしますが、実体化するのに苦労していました。それでも、子きつね二匹が見ている前で、何とか形作ることが出来ました。  サチが巣穴の影からコン太の様子を眺めていましたが、いきなり血相を変えました。 「ちょっと何になろうとしているんだ、そんなの止めなさい」  サチが大声を出して、コン太に駆け寄りました。コン太は飛び上がらんばかりに驚いて、後ずさりしました。 「それは絶対駄目だって言ったでしょ。なってはいけないんだって、あれ程言っただろうに」  サチは叫びました。コン太は両耳を垂らして、尻尾を丸めて巣穴の隅に追いやられました。 「ごっ、ごめんなさい」コン太は涙目になりながら、ひたすらサチに謝りました。「本当にごめんなさい」 「もうこんな変化は、するんじゃないよ」  サチはそういって、コン太から離れました。そばでこの光景を見ていた子きつね二匹は、身が縮こまっていました。あんなに怒ったサチを見たのは、初めてだったからでした。 「何でもないよ、お前達も忘れなさい」  サチは子きつね二匹に優しくいいました。コン太は尻尾で顔を隠して、独り寝床で体を丸めました。サチは少し離れた所で体を横たえ、目をつぶりました。  その日みんなが寝静まった頃、コン太が目を開けました。しばらくの間聞き耳を立てて、寝床の様子をうかがっていましたが、静かに起き上がりました。目を凝らしながら、サチ達がいる方を眺めてから、忍び足で巣穴の外へ出ていきました。  寝ている筈のサチが、顔を上げました。コン太がいないのを見届けると、小さく溜息を付きました。  コン太は月明かりを頼りに、山の頂上に向かいました。風はなく周囲は静寂したものでしたが、時折発するふくろうの鳴き声に、コン太は怯えて動きを止めていました。茂みの中、身を隠しながら登っていきました。  途中で疲れたコン太は、樹木の根っこの穴に潜り込んで眠りました。  樹木の枝に止まった小鳥が、さえずりしていました。山頂へと続く登山道に、大きな声がありました。 「みんなー、頂上はもうすぐだから、がんばってねぇ」  コン太は外の騒がしさに、起こされる形となりました。コン太は何事かと思い、樹木の根っこの穴から這い出て、声がした方へ歩みました。茂みの影からその先をのぞいてみると、リュックサックを背負った集団を目にしました。  二十人もの小学生が二列に並んで、それぞれお喋りをしながら歩いていました。先程声援を送っていたのが、集団の先頭と後尾にいた先生でした。  コン太は息を潜めました。生徒達が目の前を通り過ぎると、コン太は左右を見回して、集団の後に連いていきました。  やがて、生徒達は山の頂上に到着しました。 「ここで昼食にするから、各自自由行動。一時間後に再びここに集合するように」  先生の指示を聞いた生徒達は、思い思いの場所に散らばっていきました。 「加奈ちゃん、こっちこっち」  手招きをする生徒がいました。加奈ちゃんと呼ばれた女の子が、木陰へ歩いていきました。加奈子は町の小学校に通う、小学四年生です。  加奈子を含めた三人が集まって、木陰の下に座り込みました。それぞれのリュックサックを肩から降ろして、中からお弁当を取り出しました。  夏子は運動が得意な、活発な女の子です。みゆは読書が好きな、おしとやかな女の子です。 「いただきまーす」  声を合わせていいました。楽しげに会話をしながら、昼食を味わいました。食事を終えると、加奈子達は夏子が持参したボールで遊びました。  コン太は茂みの中から、加奈子達を眺めていました。コン太は木陰に置かれたリュックサックに興味を持ち、そろりそろーりと茂みから出ていきました。今回は周囲に注意するのと、上空にも気を付けるようにしました。一歩一歩慎重に進んでいきました。  コン太が加奈子達がいた木陰に足を踏み入れたとたん、遠くで声がしました。 「うわぁー。ごめん、加奈ちゃん」  顔を上げたコン太に向かって、ボールが飛んできました。コン太はすべての毛を逆立てながら恐怖し、木の影にすばやく身を隠しました。 「大丈夫だよ」  加奈子がボールを追い掛けました。木陰を通り過ぎて、茂みの縁で止まったボールを拾いました。振り返った彼女の視線に、子きつねの姿が入りました。  コン太は目をつぶって唱えました。白い煙と共に、子きつねは変化したのでした。 “???”  加奈子は一瞬の出来事に、目を疑いました。たしか、加奈子達のリュックサックの近くに、何やら小動物がいたような、いなかったような感じを受けたのでした。でも、今は何も見当たりませんでした。 「加奈ちゃん、何しているの。早くおいでよ」  夏子がいいました。 「はーい」加奈子は元気にいいました。「いくよー」  加奈子はボールを投げて返しました。走り出して、木陰から離れていきました。友達の輪の中に入って、ボール遊びを楽しみました。  コン太は変化したまま、体が固まっていました。 “ピィー”  呼び笛の音が響きました。 「みんな、帰り支度をして集合」  先生が叫びました。 「時間があっという間に過ぎちゃうね」  みゆが加奈子にいいました。 「本当。でも、バスが来てしまうから、仕方ないよ」  加奈子は肩をすくめてみせました。ボール遊びを止めて、昼食を取った木陰に行きました。各自が広げていた荷物を、リュックサックに仕舞いました。 「あれっ」  加奈子が奇声を上げました。 「どうしたの?」  友達が一斉に彼女を見ました。そばにいたコン太は、体を縮こませました。加奈子はお弁当箱を手に持っていいました。 「食べ残した稲荷寿司が一つあった筈なのに、無くなっている」  二人がきょとんとした表情をしていましたが、いきなり笑い出しました。 「どうしたのよ~、みんなぁ」  加奈子は口を尖らせました。 「だって、稲荷寿司が無くなっているなんて、おかしくなっちゃうわよ」 「そうよ。そんなことで大声を上げないでよ」 「きっと、トンビでも飛んできて、持っていってしまったんじゃない」  めいめいが思い思いのことをいいました。 「そう……だよね」  加奈子は照れ笑いしながら、空になったお弁当箱をリュックサックに仕舞いました。 “ピィー”  集合の合図の笛が、高らかに鳴りました。 「さあ、行こう」  夏子が歩き出しました。加奈子もリュックサックを背負って、集合場所へ歩いていきました。加奈子のリュックサックの肩ひもには、きつねのマスコットがぶら下がっていました。加奈子が歩く都度、マスコットは揺れていました。  頂上からの帰り道、生徒達は軽やかな足取りで山を下っていきました。登山道口まで戻ると、一台のバスがやって来ました。バス停留所でバスが停まりました。先生と生徒はそのバスに乗り込み、小学校がある町へと向かいました。  小学校前のバス停留所で、全員がバスから降りました。学校の校庭にいったん移動した後、先生が生徒にいいました。 「それでは今日は、ここで解散。気を付けて帰るように」 「はーい」  加奈子達は先生にあいさつをして、自宅がある方角に散らばっていきました。 「加奈ちゃん、一緒に帰ろう」  みゆが声を掛けてきました。 「うん」  加奈子が真ん中の位置で、両脇に友達が並んでいました。 「これからどうする?」夏子がいいました。「途中の公園で、遊ぶ?」  時刻はまだ午後三時過ぎだったのでした。 「私、本屋さんに行きたいの」  みゆがいいました。 「私も用事があるから、真っ直ぐ家に帰るわ」  加奈子がいいました。 「その用事って、なーに?」  夏子が聞いてきました。加奈子は笑みを浮かべながらいいました。 「これからお母さんと一緒に、家でクッキーを作るの」 「そーなんだ、いいなぁ」一斉に言葉が発せられました。「私もやりたいなぁ」「私も食べたいなぁ」  加奈子は立ち止まっていいました。 「じゃあ、うちに来る?」 「はーい」  友達二人が手を上げました。みんなそろって、加奈子の家を目指しました。 「ただいま」  加奈子が玄関のドアを開けていいました。 「お帰りなさい、遠足はどうだった?」母が廊下の奥から姿を現しました。「あら、お友達と一緒なんだ」 「うん」  加奈子が頷きました。 「こんにちは」  友達が玄関前でいいました。 「みんな、クッキーを作りに来てくれたの」  加奈子がいいました。 「そうなの。ゆっくりしていってね」  母がにこやかにいいました。 「お邪魔しまーす」  加奈子は応接室に友達を招き入れました。 「荷物を置いてくるから、ここで待っててね」  加奈子は子供部屋がある二階へ行きました。部屋に入ると、正面奥にあるベッドの上に、背負っていたリュックサックを置きました。すぐに一階に下りていきました。  加奈子は友達を連れてキッチンに向かい、クッキーを作り始めました。和気あいあいとクッキー作りに励みました。  その頃、加奈子の部屋では、リュックサックが動めきました。肩ひもに付いていたきつねのマスコットから、突然白い煙が立ちました。白い煙が消え去った後には、きつねが姿を現しました。子きつねのコン太です。  コン太はベッドに敷いてあった毛布の上で伸びをすると、強張った体を左右に揺さぶりました。耳をそば立てながら、部屋の中を見回しました。  加奈子の子供部屋は六畳の間取りで、南向きのベランダへと続く窓の横にベッドがあり、その向かい側に勉強机がありました。部屋の入り口の両脇には、洋服タンスと本棚がありました。コン太にとって、見たことが無い物だらけでしたが、身の危険がないと感じました。  コン太はベッドの中央で、体を横たえて疲れをいやしました。ふんわかな毛布が、コン太を深い眠りに誘いました。  キッチンから応接室に移動した加奈子達は、出来たてのクッキーと入れたての紅茶で、おやつの時間を過ごしました。他愛もない話で笑いました。 「それじゃあ、また月曜日にね」  加奈子が玄関口でいいました。 「バイバイ」「ごちそう様でした」  夏子とみゆは、加奈子と母にいいました。 「また、遊びにきてね」  母が手を振っていいました。 「はい」  友達はお辞儀をして、玄関を出ていきました。   加奈子は友達が帰っていくと、余ったクッキーを持って二階へ上がっていきました。子供部屋に入り、勉強机に収まっていた椅子に座りました。机の隅にクッキーのお皿を置いて、宿題をやり始めました。 「加奈ちゃん、夕飯の買い物に行くけど、一緒に行く? それともお家で留守番している?」  一時間ばかり経った後、母の声が子供部屋のドアの外からしました。 「私も行くから、下で待っていて」  加奈子は返事をして、椅子から立ち上がりました。 「外は少し冷えるから、何か上に羽織ってきてね」 「うん、分かった」  加奈子はドアの横にある洋服タンスを開けて、中に掛けてあったカーディガンを手にしました。カーディガンを肩に掛けて、子供部屋から出ていきました。  下の階で物音がしていましたが、玄関のドアを開閉する音がして、足音が二つ遠ざかっていきました。  子供部屋のベッドの下で、様子をうかがっていた物がいました。耳を左右に動かしながら、そーっと外に出てきました。コン太は部屋の中央で、周囲を見回しました。鼻をくんくんさせて、勉強机へ歩いていきました。  机からはみ出した椅子にぴょんと飛び乗り、両前足を机につきました。お皿にあったクッキーを一口食べました。思い起こせば、昨日から丸一日何も食べていませんでした。コン太は残りのクッキーを無心に食べました。  幾分お腹が満たされたのか、コン太は欠伸をしました。ジャンプをして、いったんジュータンに着地し、その勢いでベッドに飛び乗りました。コン太は毛布に体を埋めて、寝に入りました。  加奈子達は夕飯の買い物が済むと、早速二人で夕飯の準備に取り掛かりました。終始、加奈子は遠足での出来事を母に話していました。夕飯が出来上がり、母娘そろって食卓を囲みました。  加奈子の父は単身赴任で遠くの街に行っており、月に二回我が家に帰ってくる程度でした。ですから、家のことは、母が全てみていました。  食後、加奈子はテレビを見て過ごし、早めにお風呂に入ることにしました。二階に上がって、暗がりの子供部屋に行きました。明かりを点けて、洋服タンスの引き出しから、パジャマを取り出しました。明かりを消して、一階に下りていきました。  ベッドに掛けられた毛布で寝転がっていた、コン太がむくっと起きました。体を大きく伸ばしてから、ジュータンに降りました。ベランダがある窓に近づいて、前足で窓サッシをかりかりしました。しかし、窓は開きませんでした。  コン太は飛び上がって一回転しました。白い煙がコン太の体を覆いました。白い煙が消えた後には、窓に人影がありました。小学生くらいの背丈の人影は、窓を開けてベランダに出ていきました。  暗がりの子供部屋に戻ったコン太は、何もすることがないのでおとなしくしていました。 「遠足で疲れているんだから、今日は早く休みなさいね」  一階で声がしました。階段を上る音がしました。ドアが開いて、パジャマ姿の加奈子が子供部屋に入ってきました。すがすがしいそよ風が、彼女のほほを撫でていきました。  加奈子は不思議に思って、窓の方に目をやりました。窓はわずかに開いていました。加奈子は部屋の明かりを点けて、窓を閉めました。  ふと横を見た加奈子は、素っ頓狂な声を発しました。机の隅に置いたお皿の中身が、空っぽだったからです。食べ残していたクッキーが、無くなっていたのでした。 「勉強に集中していたから、いつの間にか全部食べてしまっていたのかな?」  気を取り直した加奈子は、ドア横にあるスイッチを切って、部屋の明かりを消しました。掛けていた毛布を持ち上げて、ベッドに潜り込みました。遠足の疲れで、彼女はすぐに眠ってしまいました。  真夜中、ベッドの隅にいたコン太が、起き出して枕元まで歩いていきました。わずかに開いた毛布の隙間から、体を潜り込ませました。暖かな温もりを感じつつ、夢の中へ旅立ちました。 XX月XX日 日曜日  加奈子は夢見のところ、目覚まし時計によって起こされました。毛布から手を出しては、棚に置かれた目覚まし時計の頭を叩いて、アラームを止めました。  加奈子は寝返りを打って、体を横向きにしました。首元まで掛かっていた毛布がずれました。毛布をたぐり寄せようとして、手を動かしました。すると、ごわごわとした物に触れたような気がしました。  加奈子はうつろな目を開けました。毛布からはみ出した物に気付きました。 「なっ、何?」  加奈子はぱっと飛び起きました。毛布が腰までずれ落ちました。ベッドに寝そべっている毛皮を見つけました。コン太は突然の寒気に体を震わせ、目を覚ましました。 「コーン」  コン太は高く飛んで、体を一回転させました。加奈子の目前に白い煙が立って、子きつねの姿がぱっと消えました。後には、きつねのマスコットが一つ、ベッドに転がっていました。  加奈子はきつねにつままれた思いがしました。加奈子はベッドの上で正座して、自分のほほをつまみました。 「痛いかな」  これは夢ではなく、実際に起きている現実なのを確認した加奈子は、きつねのマスコットを凝視しました。好奇心が先立ってはそっと手を伸ばして、指先できつねのほほをつんつんしました。それから、付いていたひもを持って、マスコットをしげしげと眺めました。 「くしゅん」  加奈子はくしゃみをしました。マスコットに化けていたコン太は、これに驚いて元の姿に戻ってしまいました。 「わっ!」  加奈子もびっくりしてしまいました。コン太は姿を隠すために、ベッドから飛び降りました。加奈子が見ている前で、コン太は部屋中を駆けずり回りました。 「加奈ちゃん、どうかしたの?」  部屋の外、ドアの方から母の声がしました。加奈子は取り乱してしまいました。 「悲鳴が聞こえたもんだから、来てみたの。どうしたの? 何かあったの? ねえ、起きている?」 「お母さん、何でもないの。ただ、怖い夢を見ていたから、大声を上げたんだと思う。だから、大丈夫だよ」  加奈子は慌てながらいいました。 「そう、それならいいけど。もう、起きてくる?」 「うん」 「じゃあ、朝食の準備をするから、下りてきてちょうだい」  階段を下りる母の足音を聞いて、加奈子は安堵の溜息を付きました。コン太はまだ走り回っていました。加奈子はさっと立ち上がって、部屋の中央で両手を腰に当てました。 「ストップ!」  加奈子が鋭い声を出しました。コン太はびくっとして動くのを止めました。しゃがみ込んだ加奈子は両手を伸ばして、子きつねを捕まえました。両前足の下を持たれたコン太は、後足をばたばたさせました。彼女の手から逃れようとして、体をくねらせました。  加奈子は子きつねを目線まで持ち上げました。 「貴方は本物のきつねさん?」加奈子は聞きました。「どうして、貴方はここにいるの? いつからいるの? どこからやって来たの?」  コン太はおとなしくなって、目をそらしました。加奈子は子きつねをしばらく眺めてから、ジュータンに降ろしました。コン太は耳を垂らしたまま、上目使いで彼女を見ました。  加奈子は子きつねに手を伸ばしました。コン太は姿勢を低くして身構えました。加奈子は子きつねの頭を軽く触りました。 「ごめんね、次々と質問しちゃって。でも、答えられないよね……あと、ちょっと待っててね」  加奈子は子供部屋から出ていきました。残されたコン太は首を傾げました。加奈子は一階に下りると、キッチンに入っていきました。 「お母さん、おはよう」 「おはよう」  母がいいました。食卓の上には、トースターで焼いた食パン、ハムエッグとサラダがお皿に盛られており、温められた牛乳がカップに注がれていました。 「顔を洗ってらっしゃい。それから朝食を頂きましょう」 「はーい」  加奈子は洗面脱衣室に向かいました。顔を洗った彼女は、洗面台の鏡に映った自分の髪型を整えました。 「いただきます」  加奈子は食卓についていいました。食パンを手に取って、マーガリンとジャムを塗りたくりました。牛乳を飲んでから、食パンを口にしました。ハムエッグを箸で切り分けていきました。食卓にのっていたティッシュを取って、口を拭きました。ついでにもう四、五枚取っては、膝の上に広げました。 「今日デパートに行くけど、買いたい物とかある?」  フライパンを洗っていた、母が聞いてきました。加奈子はびくっとして、母に目をやりました。食パン、ハムとサラダを、ティッシュに包んでいたのを止めました。母は彼女を見ていました。 「えーと、考えておく」  加奈子は微笑みながらいいました。 「そう」  母は何かいいたそうでしたが、口を閉じました。加奈子は残りの物を、急いで食べました。膝の上に乗せていたティッシュを丸めて、カップの隣に置きました。加奈子は席を立ち、お皿と箸をキッチンに運びました。 「ごちそうさま」  加奈子は母にいいました。 「ありがとう」  母が加奈子から洗い物を受け取りました。加奈子は食卓に戻って、母の様子をうかがいました。母はお皿を洗っている最中でした。加奈子は丸めたティッシュとカップを持って、部屋を出ていきました。  加奈子は階段を駆け上がって、自分の部屋に入っていきました。後ろ手でドアを閉めると、小さく息を吐きました。 “お母さんにばれずに済んだかなぁ”  加奈子はそう思いました。ベッドにいたコン太が、加奈子の足元に来ました。加奈子は部屋の中央に進んで、ジュータンの上にティッシュとカップを置きました。 「お腹空いていたでしょ、待たせちゃってごめんね」  加奈子はティッシュを広げました。すぐさま、コン太は包まれていた物を、がつがつと食べ始めました。 「ゆっくり食べていいんだよ。それと、ミルクもあるからね」  加奈子は子きつねをうかがい見てから、パジャマを脱ぎ出しました。洋服タンスを開けて、外出するための着替えをしました。その間、コン太は朝食を食べていました。 「こんな感じでいいかなぁ」  加奈子は洋服タンスの扉の裏側に付けられた、鏡に映った自分の姿を眺めました。 “カサカサ”  加奈子の背中の方で、何やら音がしました。加奈子は振り返って見ました。子きつねが窓を開けようとして、前足をサッシに当てているところでした。 「どうしたの? 外に出たいの?」  加奈子は窓を開けてあげました。コン太はベランダに出て、片隅へと向かいました。周囲の匂いを嗅いでいましたが、動くのを止めました。 “何をするのかなぁ?”  加奈子は興味深そうに眺めていました。コン太はベランダの隅で気張りました。 「あっ!」  加奈子が子きつねのそばに行った時には、うんちをし終わっていました。コン太は何食わぬ顔で、部屋の中に入っていきました。 「んっ、もう。困っちゃうよ」  加奈子はつぶやきました。いったん部屋に戻っては、ティッシュ箱と小さなビニール袋を持ってベランダに出ました。ティッシュを数枚取り出し、恐る恐るティッシュ越しに、子きつねのうんちをすくい取りました。ビニール袋の中に入れて、きつくしばりました。 「後で片付けよう」  加奈子は部屋のゴミ箱にビニール袋を放り投げました。ベッドの前で立ち止まって、腕組みをしました。 「こらっ!」  加奈子はベッドで横になっている子きつねに怒りました。コン太は気にする素振りも見せませんでした。 「加奈ちゃん、仕度はできたの?」  下の階から、母の声がしました。 「今行くから」  加奈子は大声でいいました。そして、子きつねに伝えました。 「私はこれから出掛けるけど、貴方はここで留守番ね。わかった?」  コン太は目を閉じていましたが、耳をぴんと立てていました。加奈子はショルダーバッグを手にして、ドアに向かいました。ドアノブを回したところで、コン太は目を開けました。ぱっと飛び起きて、加奈子の元に駆けていきました。 「コーン」  コン太が小さく鳴きました。加奈子は子きつねの前でしゃがみ込んでいいました。 「私が帰ってくるまで、おとなしく待っていてね。後で散歩に連れていってあげるから」  加奈子が立ち上がると、コン太は目でそれを追いました。後ろ足で立ち上がって、前足を加奈子の太ももに当てました。 「どうしちゃったの?」加奈子は聞きました。「もしかして、一緒に行きたいの?」  コン太はぴょんと飛び上がり、きつねのマスコットに化けました。加奈子はジュータンに転がったマスコットを手に取りました。 「じっとしているんだよ」  加奈子はマスコットの頭に、手を添えていいました。 「加奈ちゃん」  母の声が遠くでしました。 「はーい」  加奈子はショルダーバッグの肩ひもにマスコットを結ぶと、やっと部屋を出ていきました。玄関口で待っている母と合流して、玄関を出ました。ドアの鍵を掛けて、玄関前に駐車した車に乗り込みました。 「それでは、出発」  母が明るい声でいい、車を走らせました。助手席に座った加奈子は、ショルダーバッグを膝の上に置きました。ショルダーバッグの上には、きつねのマスコットを置きました。  マスコットに扮したコン太は、窓ガラスに映る街並みを眺めました。街路樹の先にある、いろいろな形をした家々やビルを初めて見ました。  デパートの平面駐車場に車を停めて、母娘は店内へ向かいました。加奈子はショルダーバッグを肩に掛けていました。肩ひもにくくり付けられたマスコットは、ふわりふわりと揺れていました。  店内入ってすぐのエスカレーターに乗って、二階に行きました。洋服や靴、バッグなどが展示されていました。加奈子はハンガーに掛けられた服や、マネキンが着ている服を眺めました。コン太は大勢の人達がいることに驚いていました。  やがて、歩き疲れた母娘は、一階へと降りていきました。加奈子達が次に行った所は、ペットショップでした。一方が透明なケースに入れられた、生後二、三ケ月の犬猫がいました。 「この子、見て。可愛いわねぇ」  加奈子は小犬のぬいぐるみと戯れている子犬を見つけると、ケースに手を付いて見入りました。子犬は小さな口を大きく開けて、ぬいぐるみを噛んでいました。ふと、子犬の動きが止まって、鼻をくんくんとさせては周囲を見回し始めました。 「どうしたのかな? 何か探しているような」  加奈子はつぶやきました。子犬は再びぬいぐるみと遊びました。加奈子はショルダーバッグに付けたマスコットに目をやりました。子きつねの顔は蒼白になっていました。 「あっ、ごめん」  加奈子はそういって、ケースから離れました。遠巻きに子犬達を見て回ることにしました。 「そろそろ、ご飯にしましょう」  母がいいました。母はペットショップにあった、ベンチに座って休んでいました。 「はーい」  加奈子はうれしそうにしました。  二人はデパートの最上階に上がって、レストランで昼食を取りました。時折、加奈子の膝辺りから“グルル……グルル”と空腹な音がしていましたが、その都度彼女は咳払いをしました。加奈子は昼食の途中で席を立ち、トイレに駆け込みました。  コン太は変化を解いて、子きつねの姿になりました。加奈子は昼食で隠し持ったサンドイッチを、子きつねにあげました。がつがつと食べる子きつねを見て、加奈子が独りつぶやきました。 「きつねって、いつも何を食べているのだろう。これから一緒に過ごすのであれば、調べておかないといけないよねぇ」  コン太はそんな加奈子の心配を、知る由もありませんでした。コン太は軽い食事を終えると、マスコットに化けました。加奈子はレストランへ戻りました。 「遅かったけど、大丈夫?」  母が聞いてきました。 「うん、外で友達に会ったから、立ち話してしまったの。だから、何でもないよ」  加奈子はとっさに嘘をつきました。 “お母さん、ごめんなさい”  加奈子は心の中で謝りました。食事を終えた母娘は最後に食料品を買って、デパートを出ました。車に乗った加奈子は思い付きました。 「お母さん、途中で図書館に寄ってくれる?」 「それはいいけど、どうして?」  ハンドルを握っていた母が聞いてきました。 「借りたい本があったのを、思い出したの。だから、図書館で降ろしてちょうだい。帰りは歩いて帰るから」  図書館から加奈子の家までは、歩いて十五分程度でした。 「夕方には帰ってきてね」  母が図書館へと車を走らせました。 「はーい」  加奈子は答えました。やがて、車は図書館の前で停まりました。 「じゃあ、気を付けて」  母が車を降りる加奈子にいいました。 「うん」  加奈子は頷いて、開けたドアを閉めました。遠ざかる車に手を振りました。 「さてと」  加奈子は一声掛けてから、図書館の入口に向かいました。夏休みの自由研究などで、図書館は利用したことがありました。  図書館に入ってはパソコンを探し、その前にちょこんと座りました。本の検索画面から“きつね”を入力して、エンターキーを押しました。 「思ったより、少ないのね」  加奈子はつぶやきました。検索件数は六件でした。加奈子は検索結果が表示された画面を見つめて、きつねの生態がわかるような題名を探しました。最後に一枚の紙をプリントアウトしました。  加奈子は動物コーナーへ進みました。いろいろな動物の本が並べられている中で、お目当ての本を見つけました。大きめな図鑑を手にして、窓際の長椅子に腰を下ろしました。 「まずは、食べ物。いったい何をあげればいいの?」加奈子は図鑑を開いて、きつねのページを見ました。「きつねはイヌ科なのね。食べ物は鳥、ウサギ、昆虫、果実、人間の残飯などなど。私が食べている物でいいのかなぁ?」  加奈子は首を傾げました。 「昨日のクッキーを食べたのは、このきつねさん?」  加奈子はマスコットに化けた子きつねを、しげしげと眺めました。その後も、哺乳類動物の本を手に取って、きつねのことが書かれた箇所を探しました。 「まあ、結局のところイヌ科なんだから、犬と同じように飼えばいいのかなぁ?」加奈子は自分なりの解釈をしました。「あと、きつねにも感染病があるのね。気を付けなくっちゃ」  加奈子は読み終えた幾冊もの本を、元の棚の位置に戻しました。加奈子は図書館を出ると、頭を左右に振って肩のこりをほぐしました。  図書館の裏には、公園がありました。噴水を中央にして、三方に遊歩道が広がり、その遊歩道沿いには桜の木とつつじが植えられていました。つつじの茂みを越えると、広葉樹林が広がっていました。  加奈子は図書館脇を迂回して、公園へと歩いていきました。遊歩道に置かれたベンチには目もくれず、どんどん奥へ進んでいきました。つつじの茂みの隙間から、広葉樹林に入っていきました。人目がないのを確かめると、ショルダーバッグからマスコットのひもを外しました。 「元の姿に戻っていいよ」  加奈子はマスコットを地面に置きました。コン太は変化を解いて、元の大きさになりました。身震いをしてから、大きく伸びをしました。木陰に消えて、おしっこをしました。  加奈子は立ったまま、周囲に目を走らせていました。子きつねは鼻を地面につけて、加奈子の周りを歩き回りました。急に茂みの中に頭を突っ込んで、昆虫を口にくわえて出てきました。 「きゃっ!」  加奈子は思わず顔を背けました。子きつねが昆虫を処分している間、加奈子は遠くの方を見ていました。加奈子の足にまとわり付く物がありました。加奈子が下を見ると、そこには子きつねが毛づくろいをしていました。 「気分転換はできた? もう家に帰ってもいいかな?」  加奈子は子きつねに話し掛けました。コン太は大きくジャンプをし、マスコットのきつねに変わりました。 「それじゃあ、家に帰るよ」  加奈子はマスコットをショルダーバッグの肩ひもにくくり付け、つつじの茂みから出てきました。図書館の前に出ると、道路脇の歩道をてくてくと歩きました。歩道沿いには、住宅が並んでいました。  加奈子が家に帰る道をたどっていると、小型犬を連れた人がやって来ました。加奈子はマスコットにささやきました。 「大丈夫だよ、うちの近所にいる犬だから」  加奈子は歩道の端に寄りました。散歩をする犬とは反対側に、きつねのマスコットを動かしました。小型犬は飼い主の横を、さっそうと歩いていました。 「こんにちは」  加奈子は飼い主にいいました。 「こんにちは」  あいさつが返ってきました。加奈子と飼い主、そして犬が歩道ですれ違いました。 「ワンッ!」  突然、小型犬がほえました。加奈子は反射的に体を縮こまらせました。 「キャアー」  加奈子は悲鳴を上げました。リードが引っ張られ、小型犬が彼女に飛び掛かろうとしたのでした。 「ごめんなさい」  飼い主が持っていたリードを引いて、犬を加奈子から離しました。間一髪で犬から逃れた加奈子は、ショルダーバッグの肩ひもをきつく握り締めていました。 「ごめんなさい、怪我はなかった? 大丈夫?」  瞳をランランと輝かせている犬を、加奈子は見つめました。 「だっ、大丈夫です」  加奈子は震えた声でいいました。 「普段はおとなしい犬なんだけど、本当ごめんなさいね」  飼い主はそう謝って、小型犬を連れて去っていきました。 「怖かったねぇ、大丈夫だった?」  加奈子はマスコットを見てみました。すると、子きつねは微動だせずに気絶していました。  子きつねが目を覚ました時は、加奈子のベッドの上でした。いつの間にか、元の姿に戻っていました。コン太が弱々しく鳴きました。勉強をしていた加奈子が、気付いて振り返りました。 「やっと目が覚めたようね。このまま起きてこないんじゃないかと、大変心配したんだけど」  コン太は激しく身震いしました。襲い掛かってきた小型犬の形相を、思い出したのでしょう。  加奈子は椅子から立ち上がって、ベッドに腰を下ろしました。子きつねは彼女に体を擦り付けました。 「どうしちゃったの?」  加奈子が子きつねの体に触れました。毛並みがごわごわするようでしたが、温かみを感じました。子きつねが加奈子を見つめました。 「んっ、何?」  コン太はぴょんとベッドから飛び降りて、ジュータンから加奈子を見上げました。 「コーン」  加奈子は首を傾げて、子きつねを見ました。再度、コン太が鳴きました。 「あー、わかった」加奈子は手を合わせました。「お腹が空いたのね、そうでしょ。今、ご飯を持ってくるから、待っててね」  コン太は子供部屋の中央でお座りをしました。加奈子はドアに手を掛けて、ちらっと子きつねを見て部屋を出ました。  加奈子はパン、ソーセージとサラダをお皿に盛って、部屋に戻ってきました。コン太はうれしさのあまり、くるくると部屋中回りました。 「そんなに回っていると、目も回ってしまうよ」  加奈子は笑顔をみせながら、ジュータンにお皿を置きました。コン太はお皿に顔を押し当てて、慌しく食べ始めました。 「ゆっくりと食べるんだよ」  加奈子はベッドに乗っかり、子きつねを眺めました。加奈子が持ってきた食べ物は、あっという間に無くなりました。コン太はベッドに飛び乗ると、大きな欠伸をしました。伏せをした状態で前足を舌で舐めては、口の周りをぬぐいました。 「一息付いたかな? しばらく休んでいてね。私は予習を済ませちゃうから」  加奈子は子きつねにいいました。コン太は彼女を見てから体を丸めました。しばらくして、加奈子が椅子に背をもたれ掛けて、後ろに仰け反りそうな伸びをしました。 「やっと、終わった」  加奈子は子きつねに目をやりました。子きつねは前足の上にあごを乗せて、彼女を見つめていました。加奈子はふっと息を吐いて、勉強の後片付けをしました。明日学校に持っていく教科書、ノートと筆箱等をランドセルに詰め込みました。すくっと立ち上がって、ベッドに近づきました。 「さあて、眠りましょうか?」  コン太は待ってましたとばかりに、起き上がりました。加奈子の脇に飛び降りて、すたすたと窓の方へ歩いていきました。 「おしっこ? それともうんち?」  加奈子は子きつねに聞きました。コン太は閉まった窓の前で、足を止めました。加奈子は子きつねの横に立って、窓を開けてやリました。  コン太はベランダに出て、片隅でおしっこをしました。加奈子は用意しておいたペットボトルを持って、ベランダに出ました。子きつねが見守る中、子きつねがおしっこした床に水を注ぎ、おしっこを流しました。 「においが残ると困るでしょ。貴方が居ることがばれてしまうからね」  加奈子は子きつねに微笑み掛けました。加奈子と子きつねは、部屋に戻って窓を閉めました。 「それじゃあ、明かりを消すね」  加奈子はドア横にあるスイッチを切って、部屋を暗くしました。ベッドに潜り込むと、子きつねにいいました。 「さあ、こっちにいらっしゃい。一緒に寝ようよ」  加奈子は毛布をとんとんと叩きました。しかし、子きつねは椅子に敷いてあった座布団にちょこんと乗り、体を丸めて寝る姿勢を取りました。 「今日はそこでいいのね。では、お休みなさい」  加奈子は毛布の中で、体を横たえて目を閉じました。コン太も目を閉じて、おとなしくしました。加奈子は今日一日子きつねの世話をしたこともあって、すぐに深い眠りに入っていきました。 XX月XX日 月曜日  朝、加奈子が目を覚ますと、彼女の隣に子きつねがいました。加奈子は笑みを浮かべて、子きつねを見入っていました。コン太が目を覚ましました。 「おはよう、コンちゃん」  加奈子がいいました。コン太はきょとんとしました。 「名前で呼んだ方がいいでしょ。だから、貴方はコンちゃん。私が考えたの」加奈子がにこやかにいいました。「さあ、コンちゃん。起きよう」  加奈子はベッドから起き上がりました。コン太もジュータンに飛び降りて、大きく身震いしました。 「コーン」  コン太は可愛く鳴きました。 「朝ご飯が欲しいのね。ちょっと待っていてね」  加奈子は部屋から出ていきました。一階に下りた加奈子は、キッチンに向かいました。 「おはよう」「おはよう」  朝食の準備をしていた母に、加奈子があいさつをしました。 「顔を洗ってくるね」  加奈子は洗面脱衣室で、顔を洗いました。キッチンに戻ると、食卓にはいつもの朝食が並べられていました。加奈子は椅子に座っていいました。 「いただきます」 「はーい」  母が答えました。加奈子は朝食を口に運びました。加奈子は母の目を気にしながら、子きつねの食べ物をティッシュに取っていきました。 “今日学校に行くけど、コンちゃんをどうしよう……”  加奈子はパンをかじりながら考えました。加奈子は子きつねがお腹を空かさない様に、多めに食べ物を取りました。 「ごちそうさま」  加奈子は食器を持って、キッチンに行きました。 「ありがとう」  母が食器を受け取りました。加奈子はすぐに二階に上がりました。子供部屋に入って、隠し持ったティッシュをジュータンの上に広げました。コン太はがつがつと朝食を食べました。  加奈子が子きつねの前で屈み込んでいいました。 「コンちゃんは、今日この家で留守番していてね。独りで寂しいかもしれないけど我慢して」  コン太は彼女の言葉に耳を傾けていましたが、意味を理解することができませんでした。 「部屋のドアは閉めちゃうけど窓は開けておくから、トイレに行きたい時は自分でベランダに出てね」  加奈子はそういうと、登校する準備をしました。その間、コン太はベッドの上で丸くなっていました。  加奈子は服を着替えてから、いったん一階に下りていきました。洗面脱衣室でハミガキをしてから二階に上がりました。 「それじゃあ、学校に行ってくるね。なるべく早く帰ってくるから、それまでおとなしく待っているんだよ」  加奈子はランドセルを背負いながらいいました。ベッドの脇を通って、部屋のドアを開けました。寝ていた子きつねが慌てたように、ドアまで駆け寄ってきました。 「学校にコンちゃんは連れていけないの。だから、ここで待っててね」  加奈子は優しくいいました。コン太は戸惑いの眼差しで、彼女を見つめました。加奈子は部屋の外に出て、子きつねの前でドアを閉めました。  加奈子がドアの外で立っていると、部屋の中から“カリカリ”と、ドアに爪を立てる音がしました。子きつねがドアを開けようとしているのでしょうか。 「静かにしていないと、駄目だからね」  加奈子は後ろ髪を引かれる思いにかられながらも、その場を去ることにしました。  小学校で、授業中、休憩時間、昼休みの間、加奈子は子きつねのことで、頭が一杯でした。友達の夏子やみゆとおしゃべりをしている時も、彼女だけが上の空でした。  放課後になって、加奈子が友達にいいました。 「私、今日用事があるから、先に帰るね」  加奈子はランドセルを両手に抱えて、そそくさと教室を出ていきました。夏子とみゆは、手を振って見送ってくれました。加奈子は廊下を急ぎ足で歩き、ランドセルをやっと背負いました。  階段を転げ落ちるように下り、下駄箱に入れた靴に履き替えて、駆け足で校庭に出ました。ランドセルが激しく上下し、肩が痛くなりました。両手で肩ひもを前に突き出して、なるべくランドセルが動かないようにしました。  途中、信号待ちをしている時だけ、荒い呼吸を整えました。家までの道のりが、遠く感じられました。 「ただいまー」  加奈子は玄関のドアを開けるなり、二階に上がっていきました。子供部屋のドアを勢いよく開けました。 「ただいま」  部屋中をすばやく見回して、子きつねを探しました。どこにも、子きつねの姿はありませんでした。 「あれっ?」  加奈子はランドセルを勉強机の上に置きました。窓を開けて、ベランダへと出ました。ここにも、子きつねはいませんでした。がっくりと肩を落とした加奈子は、とぼとぼとベッドに腰を下ろしました。 「どこに行っちゃたんだろう……お家に帰っちゃたのかなぁ」  加奈子は両膝の上に肘を付いて、手のひらの上にあごを乗せました。朝お皿に注いでいった水は、そのまま残っていました。 「一日中、この部屋に独りぼっちでいたから、寂しくなっちゃたのかなぁ。それで、お家に帰ってしまったとか。ちゃんとお家に帰れたんだろうか? 心配だなぁ」  加奈子は背を後ろに倒して、ベッドに仰向けとなりました。小学校から駆け足で帰ってきたので、どっと疲れがきた様な感じを味わいました。  加奈子はそっと目を閉じました。子供部屋はしーんと静まり返っていました。彼方で、サイレンの音が聞こえていました。 “ペロペロ”  加奈子のほほに当たる物がありました。それは、ざらざらとした肌触りでした。加奈子はゆっくりと目を開けました。彼女のほほを舐める、子きつねがいました。加奈子は手を動かして、子きつねの頭をそっと撫でました。 「コンちゃん、ただいま」加奈子はすねていいました。「もうお家に帰っちゃたんだと思ったじゃない」 「コーン」  コン太は甘えたように鳴きました。加奈子は起き上がって、子きつねの真向かいに正座しました。 「ねぇ、今までどこにいたの? 部屋中を探してみても、コンちゃんいなかったじゃない。それとも、何かに化けていたの?」  コン太はすたっとベッドから飛び降りました。加奈子が見守る中、コン太はベッドの下に潜り込みました。加奈子はベッドの端に両手を突いて、ベッドの下をのぞき込みました。子きつねは前足を前に突き出して、後ろ足でジュータンを蹴って、ほふく前進していきました。 「そんな所にいたの」  加奈子は目を丸くしました。子きつねが向きを変えて、何やらくわえて外に出てきました。 「何なの、それっ!――あっ、私の枕カバー」  コン太は枕カバーを口から離して、加奈子を見上げました。加奈子は枕カバーとして使っていたタオルを持って、枕の方を見ました。当然、枕にタオルは掛かっていませんでした。 「独りにさせちゃってごめんね。寂しかったんだ」  加奈子は子きつねを抱きかかえて、ぎゅっとしました。子きつねの尻尾がぱたぱたと揺れました。 「あはっ」  加奈子は自然と笑みがあふれてきました。加奈子は子きつねをジュータンに置いていいました。 「そうだ、コンちゃん。遊ぼうか」   加奈子はタオルの端っこを握って、子きつねのそばでタオルを振りました。コン太は左右に動くタオルを目で追っていました。  加奈子はタオルを上げて、子きつねの体に乗せました。コン太は口を開けて、タオルを捕らえようとしました。加奈子はさっとタオルを横に振りました。  猫じゃらしを操るように、加奈子はタオルをジュータンの上にはわせました。コン太がタオルを見つめました。コン太の体が跳躍して、タオルを追い掛けました。 「コンちゃん、がんばれ。もっとすばやく動いて」  加奈子はタオルを大きく回しました。それに合わせて、コン太も加奈子の周りを駆け回りました。コン太は疲れ果てて、加奈子の前で体を伏せてしまいました。 「夢中になってごめん、コンちゃん。今度は手加減するからね」  加奈子はタオルを子きつねの正面に落としました。コン太は荒い息を整えていました。そして、コン太が前足を上げては、後ろ足でジュータンを蹴って、タオルに向かっていきました。うごめくタオルを前足で踏みつけました。鋭い牙で、タオルをくわえました。 「やったね」  加奈子は喜びながら、タオルを引っ張りました。コン太も低い姿勢を取って、踏ん張りました。加奈子と子きつねのタオルの綱引きが始まりました。コン太は頭を激しく振って、タオルを取ろうとしました。 「えいっ」  加奈子は持っていたタオルを子きつねの頭に放りました。加奈子がいきなりタオルを手放したので、コン太は後ろに仰け反ってしまいました。体を震わせて、被さったタオルを払いのけました。  コン太は舌を出して、加奈子を見ました。加奈子はにこやかに微笑んでいました。 「あーあ、楽しかったね」加奈子がいいました。「今日はこれでおしまい」  加奈子はタオルを枕に戻して、ジュータンの上に座りました。 「明日からは、一緒に学校に行こうか。ねぇ」  加奈子は子きつねに提案しました。 XX月XX日 火曜日 「行ってきまーす」  加奈子は元気一杯で玄関を出ていきました。背負ったランドセルの肩ひもには、きつねのマスコットが揺れていました。道路に出ると、すたすたと歩道を歩きました。 「これから、いつも私が通っている小学校に行くけど、友達と一緒に登校するから、そのつもりでいてね」  加奈子は息を弾ませながらいいました。マスコットに化けたコン太は、彼女とのお出掛けを楽しんでいました。 「おはよう」「おはよう」  近くの公園前で待ち合わせしていた、夏子とみゆにあいさつをしました。加奈子は友達と並んで、小学校に向かいました。  教室にたどり着くと、加奈子はマスコットをランドセルの肩ひもから外して、机の片隅に置きました。 「今日はおとなしくしているんだよ」  加奈子はマスコットの頭に手を添えました。マスコットの頭がわずかに上下に動きました。授業中、コン太は静かに寝入っていました。  四時限目には、学校の廊下に給食用コンテナが並べられました。食欲をそそる香りがして、眠っているコン太の鼻をぴくぴくさせました。午前中の授業は、事なげに終了しました。 「うーん、終わった」加奈子は机に前屈みになって、マスコットにささやきました。「もう少し、我慢していてね。昼食はすぐにあげるから」  生徒達が自分の机を動かして、四つずつ対面に並べました。加奈子もマスコットを机の中へ隠して、机を移動しました。生徒全員が給食当番から給食を受け取りました。 「いただきます」  日直の生徒の声がして、生徒全員で昼食を取り始めました。加奈子は机上の品々を眺めました。加奈子は子きつねが食べられる物を選んでいました。 「どうしたの、加奈ちゃん。食べ物を見つめたままで」  向かい合っていた友達が聞いてきました。 「何でもないよ」加奈子は首を振って、笑顔で答えました。「さあ頂きましょう」  加奈子は自分が食べるのと、子きつねにあげるのを分けながら、給食を食べました。 「給食を残すけど、気にしないでね」  加奈子は友達にそういって、食事を終わりにしました。ランドセルを開いて、家から持ってきたタッパを取り出しました。食べ残した物を、タッパに入れていきました。それを見ていた友達が、好奇心の眼差しで眺めていました。 「そのまま捨てるのも、勿体無いしね」  加奈子は恥ずかしそうにしました。  食事を終えた生徒達が、食器を給食用コンテナに戻していきました。加奈子も席を立って、食器を戻しました。机を元通りの場所に移動すると、加奈子は周囲をきょろきょろと見回して、机の中に仕舞ったきつねのマスコットをつかみました。  タッパとマスコットを抱えて、教室を出ていきました。廊下をうつむきながら歩いて、下駄箱で靴に履き替えました。  校舎の外に出た加奈子は、目前の校庭を見てから校舎の裏手に向かいました。木々が植えられた散策道を歩いていきました。ちょっとした茂みの影に身を隠しました。 「元の姿に戻っても、大丈夫だよ」  加奈子がそういうと、子きつねは姿を変えました。地面に降り立つと大きく身震いをして、強張った体をほぐしました。加奈子はタッパのふたを開けて、子きつねの前に置きました。 「さあ、召し上がれ」  コン太は一度タッパに顔を近づけましたが、茂みの奥に走っていきました。 「どうしたの? コンちゃん」  加奈子は不思議に思い、子きつねが消えた方を見つめました。しばらくしてから、コン太が姿を現しました。 「おしっこでもしてきたの?」  加奈子は子きつねに聞きました。コン太は小さく鳴くと、タッパに入った食べ物を口にしました。加奈子はしゃがみ込んで、その光景を眺めました。 「こんな所にいたんだぁ」「可愛いきつねさんねぇ」  加奈子の頭上から、突然声がしました。コン太はとっさに加奈子の胸元に飛び込みました。加奈子は子きつねを抱えたまま振り返りました。加奈子の背後、茂み越しに友達の顔がありました。白い歯を見せて笑っている夏子と、瞳を大きく見開いているみゆでした。 「あー、びっくりした。どうしたのよ、みんな」  加奈子はほっと溜息を付きました。友達は茂みの脇を通って、加奈子のそばに来ました。 「加奈ちゃんが昼食後、何か怪しそうな行動をしたから、こっそりと後をつけて来たのよ」  夏子が腕組みをしていいました。 「加奈ちゃんはどうしてきつねさんと一緒にいるの? お家で飼っているの? どうやって学校に連れてきたの? 授業中どこにいたの?」  みゆが矢継ぎ早に聞いてきました。加奈子は怯える子きつねの背中に手を当てました。 「後で説明するから、そんなに一度に聞いてこないで。それに、この子が怖がっているから、静かにして」  加奈子が苦笑いしました。みゆがやっと口をつぐみました。加奈子は咳払いをしてから、子きつねの出会いからの経緯を話し始めました。夏子とみゆは興味津々な眼差しで、これを聞いていました。  コン太は落ち着きを取り戻しては加奈子から離れて、再びご飯を食べ出しました。 「すごいねえ」「気が付かなかったわ」  話を聞き終えた友達が一斉に声を上げました。友達は子きつねを取り囲んで見つめました。コン太は食事が終わると、毛繕いを始めました。 「午後の授業中、コンちゃんはどうしているの?」  みゆが聞いてきました。加奈子は自慢げな顔つきで、子きつねにいいました。 「コンちゃん、マスコットに化けて」  コン太は加奈子に目をやると、一鳴きしてからジャンプしました。白い煙と共にくるりと一回転して、きつねのマスコットに変化しました。加奈子は両手のひらを合わせて、マスコットをキャッチしました。 「わぁ~」「すごーい」  次の瞬間、拍手喝さいが起きました。加奈子は自分のことのように照れました。 “キンコーン、カンコーン”  昼休みの終わりを告げる、予鈴の鐘が鳴りました。 「もうこんな時間、教室に戻らなくっちゃ」  加奈子が小さく叫びました。 「私、タッパを持っていくね」  みゆが空になったタッパを手にしました。加奈子達は茂みから出て、校舎の下駄箱へと急ぎました。 「放課後、一緒に帰ろうね」  加奈子の横を駆けていた夏子がいいました。 「うん」  加奈子はマスコットを大事そうに運びながらいいました。  加奈子はきつねのマスコットを机の端に置いて、午後の授業を受けました。放課後、通学路の途中にある公園の中で、子きつねを自由に放しました。  加奈子とその友達はベンチに腰を下ろして、子きつねを遠くから眺めていました。コン太は公園の草むらに鼻を当てて匂いを嗅いだり、茂みに顔を突っ込んだり、木の根元付近の地面を掘ったりしました。 「あまり遠くに行かないでね」  加奈子は両手をメガホンにして、子きつねにいいました。コン太は動くのを止めて、加奈子に顔を向けましたが、すぐに走り出しました。加奈子は目を細めて、子きつねの行動を見守りました。 「楽しそうにしているわねぇ」 「うん」 「学校ではおとなしくしていたねぇ」 「うん」 「なついているわねぇ」 「うん」  加奈子は返事をしていました。 「加奈ちゃんは、お家でコンちゃんをずーっと飼うの?」  みゆが聞いてきました。 「うん、そのつもりだよ」  加奈子が大きく頷きました。 「お母さんは、このことを知ってるの?」 「ううん、知らない」 「加奈ちゃんが独りで育てていくの?」 「うん」 「犬とは違ってきつねなんだから、世話をするのは大変だと思うなぁ。だって野生動物なんだもの、食べ物も違うし、散歩も犬のようにはいかないでしょ。放し飼いにしておくのも心配だし、ひもでくくり付けるのも、何か変な気もするし」夏子が足を前後に動かしながらいいました。「だからって、加奈ちゃんがきつねの面倒がみれないと思っているわけではないよ。ただ、きつねがこの町で暮らしていくには、いろいろなハードルがあるかなって」  加奈子はうつむきながら、黙って話を聞いていました。みゆが加奈子の顔色をうかがいました。 「……うん、これからいろいろ考えるよ」  加奈子は弱々しく答えました。コン太が加奈子達のそばに戻ってきました。子きつねは自分の体を加奈子の足に擦り寄せました。 「こんな愛くるしい仕草をされると、ずーっと一緒に居たくなってしまうね」  夏子が気さくにいいました。 「うん」  暗かった加奈子の表情が柔らかくなりました。 “私が貴方の面倒をみるからね”  加奈子はそう思いました。加奈子はベンチから立ち上がって、子きつねの前でしゃがみ込んでは子きつねの背中を触りました。 「そろそろ帰ろうか」  加奈子は友達にいいました。ベンチ脇に置いたランドセルを背負って、公園の出入り口に行きました。 「バイバイ」  加奈子が手を振りました。 「コンちゃん、また明日ね」「学校で会おうね」  夏子とみゆがコン太に別れのあいさつをしました。二人はそれぞれの家路へ去っていきました。  コン太はマスコットに化けて、加奈子の手のひらに乗りました。加奈子はしっかりとした足取りで歩き始めました。コン太は好奇心旺盛な眼差しで、周囲の風景を眺めていました。  自宅にたどり着いた加奈子は、家の前で立ち止まりました。コン太は彼女の顔を見ました。 「ここが貴方のお家だからね。何かあったら……例えば私とはぐれてしまったり、道に迷ったとかした場合、ここにちゃんと帰ってきてね。だから、ここがわかるようにいろんな所にマーキングしておいて」  コン太は黙って、彼女の話を聞いていました。 「じゃあ、中に入ろうか」加奈子は玄関のドアを開けました。「ただいま」 「お帰りなさい」  奥の方から、母の声が返ってきました。 XX月XX日 水曜日 「行ってきまーす」  加奈子は玄関口で大声を上げて、ランドセルを背負って外に出ました。 「行ってらっしゃい」  キッチンから母の声がしました。今日も晴れやかな青空が広がっていました。  加奈子を学校に送り出した母は、朝食の後片付けをしました。その後洗面脱衣室へ向かって、脱いだ服などを洗濯機に掛けました。庭先に出て、花壇に植えてある花に水をやりました。 「こんなにいい天気だもの、洗濯物がすぐ乾くわねぇ」  母は秋空を眺めていいました。すたすたと家の中へ戻りました。二階へと続く階段を上がって、加奈子の部屋の前に立ちました。 「ついでに、お布団でも干しましょうか」  母は誰もいなくなった部屋のドアをノックし、子供部屋に入っていきました。ベッドに掛けていた毛布を持って、胸元に抱え込みました。ふと、母は毛布に顔を押し当てて、匂いを嗅ぎました。 「何かしら、この匂い?」  母は不思議に思いながらもベランダに出て、毛布を手すりに掛けました。次に布団も持ち出して、毛布と並べて干しました。そして、首を傾げました。ベランダの隅で、屈み込みました。 「何なんでしょう?」  ベランダの床に黄色いシミが出来ていて、シミはベランダの下の屋根かわらまで続いていました。そのシミから悪臭が漂っていました。  母はいそいそとベランダを歩いて、加奈子の部屋から出ていきました。一階で探し物をして、二階のベランダに再びやって来ました。手にはブラシと水を入れたバケツを持っていました。黄色いシミに水を掛けて、ブラシで擦り始めました。四、五回水を汲んできては、屋根かわらまで降りて、せっせとブラシで洗いました。  その日の夜、リビングでテレビを見ていた加奈子に、母がいいました。 「今日お天気がよくて、昼間暖かったでしょ」 「うん」 「それでね、洗濯物がすぐ乾いちゃったの」加奈子の隣で、母がにこやかにいいました。「加奈ちゃんの寝具も干しておいたから、今夜はふかふかな毛布で寝られるよ」 「ありがとう」  加奈子は母に目を向けました。 「それでね、気が付いてしまったんだけど」母は言葉を切りました。「加奈ちゃんが使っている毛布から、けものの匂いがしていたの。なんかこう、野生じみた感じの匂い」  加奈子はわずかに目を大きくしました。 「それは……みゆちゃん家の猫の匂いだよ、きっと」加奈子は慌てていいました。「昨日、みゆちゃん家に寄った際、飼っている猫を抱いたから」 「そうなの?」母がいいました。「猫も時々体を洗ってあげないと、匂いが他に移ってしまうのかしらねぇ」 「そうだね」  加奈子はうつむきました。 「ふーん」  母はおもむろに席を立って、リビングから出ていきました。加奈子は安堵の溜息を付きました。しばらくして、母がリビングに戻ってきました。 「加奈ちゃん、お風呂が沸いたから、そろそろ入ってね」 「はーい」  加奈子は壁掛け時計をちらっと見て、立ち上がりました。 「湯船に浸かって、疲れを取ってね。そして、ふかふかな毛布で休んで」  すれ違いに、母が加奈子にいいました。加奈子はこくりとして、二階に上がっていきました。子供部屋に入ると、周囲を見回しました。 「コンちゃん、どこにいるの? また、隠れているの?」  加奈子はベッドに敷かれた毛布をめくったり、ベランダに出たりしました。机の下や洋服ダンスの中ものぞいてみました。ベッドの下をのぞき込むと、壁際に子きつねが丸まっていました。 「コンちゃん、出ておいで」  加奈子は手招きしながら呼びました。コン太は目を開けると、ベッドの下から這い出てきました。加奈子は体を起こして、ベッドに腰を下ろしました。コン太は飛んで、ベッドの上に乗りました。 「動かないで、じっとしていてね」  加奈子は子きつねの背中に顔を近づけて、鼻をくんくんさせました。顔をしかめながらつぶやきました。 「体臭がきついわよ、けもの臭い。これじゃあ、みんなに嫌われてしまうかも……」  コン太は首をめぐらせて、加奈子を見つめました。 「今日は一緒にお風呂に入ろう、きれいにしてあげる」  加奈子は立ち上がって、洋服タンスの引き出しから着替えの服を取り出しました。 「えーと、どうしようかな?」  加奈子は考えました。子きつねをどうやって、風呂場まで連れていくかを。自分が先頭に立って行く先を確認したら、子きつねに来てもらうか、もしくはカゴか袋の中に入ってもらうか。 「コンちゃん、やっぱり小さくなって」  加奈子は子きつねにお願いをしました。コン太はマスコットになりました。加奈子はマスコットを着替えの服の上に置きました。 「じゃあ、行くよ」  加奈子はマスコットになった子きつねを連れて、部屋を出ました。階段を下りていき、リビングの前でいったん止まりました。 「お風呂に入るね」  加奈子は顔だけ出して、母にいいました。 「はーい、ごゆっくり」  母はテレビを見ながらいいました。加奈子は急ぎ足で洗面脱衣室に入って、後ろ手でドアを閉めました。 「元の姿に戻っていいわよ」  コン太はぴょんと飛んで、洗面脱衣室の床に飛び降りました。 「服を脱ぐまで、待っててね」  加奈子はそういってから、服を脱ぎ始めました。服は洗濯機の上に置かれたカゴの中に入れていきました。コン太は室内を見回して、洗濯機や体重計の匂いを嗅いでいました。 「おまたせ」  加奈子は子きつねを抱いて、風呂場へと移りました。加奈子は浴槽に被せてあったふたを片手でどけて、湯船に足を入れました。子きつねが不安な様子で、加奈子を見つめました。 「大丈夫だよ」  加奈子がささやきました。コン太は両前足を加奈子の首に回しました。 「やっぱり、お風呂に入るのは初めてだよね」  加奈子は片手を湯船の縁につけて、腰を下ろしていきました。コン太は足元がお風呂に浸かると、思わず暴れ出しました。 「じっとしていて」加奈子が子きつねを抱きしめました。「怖がらなくてもいいんだよ」  コン太は悲しく鳴きました。 「溺れない様にするから、おとなしくしていて」  加奈子は膝の上に子きつねを乗せました。コン太はぶるぶる震えていました。加奈子はお風呂に浸かって、子きつねの背中を優しくさすったり、お湯を掛けたりしました。 「よーし、温まったら、次はきれいきれいしてあげるね」  加奈子は子きつねを洗い場に置きました。自分も浴槽から出て、風呂椅子に座りました。子きつねは体を震わせて、水滴を飛ばしました。 「ところで、コンちゃんの体を洗うのに、ボディーソープを使った方がいいのかなぁ。それとも、シャンプーを使った方がいいのかなぁ」  加奈子はそこでまた考え込んでしまいました。 「毛むくじゃらなんだから、シャンプーでいいよね」  加奈子はシャンプーボトルの頭を一押しして、液体を手のひらに乗せました。両手を擦り合わせて、シャンプーを泡立てました。加奈子は子きつねの体に泡を当てました。 「すぐに終わらせるから、それまで我慢していてね」  加奈子は逃げ惑う子きつねを両手で押さえつけ、容赦なく体を洗い始めました。子きつねは泡をまとった容姿になりました。  加奈子はシャワーの温度を調整し、子きつねに温水を浴びせました。片手で子きつねの体を撫でて、十分にシャンプーの泡を洗い落としました。 「さあ、これで終わり。問題なかったでしょ」  加奈子は洗面脱衣室のドアを開けて、出ていたタオルを手にしました。子きつねの体をタオルで拭いていきました。 「外で待っててね、私もきれいになるから」  加奈子は子きつねを洗面脱衣室に残して、ドアを閉めました。コン太は閉められたドアを見つめました。コン太は遠慮がちに鳴きました。  加奈子は急いで髪と体を洗いました。コン太は先程のタオルに、体を擦り付けました。変化して、体に付いた水滴をタオルで拭き取りました。 「!?」  加奈子は人の気配を感じて、後ろを振り返って見ました。曇りガラスのドアの奥に、人影はありませんでした。 「お母さんだと思ったけど、気のせいよね。もしお母さんだったら、コンちゃんと鉢合わせだもんね」  加奈子はちょこっと洗面脱衣室のドアを開けました。子きつねはタオルの上で、休んでいました。加奈子はドアを閉めるとシャワーを浴びて、体に付いた泡を洗い落としました。  ザブンと湯船に浸かってすぐに出ました。加奈子は急いで体を拭いて、洗面脱衣室に入りました。バスタオルを体に巻いて、ドライヤーを取り出しました。 「体を乾かすから、じっとしていてね」  加奈子はドライヤーの電源を入れました。子きつねの毛を立てながら、温風を当てました。コン太は動かずにいました。加奈子はドライヤーを送風に変えて、子きつねの毛を冷やしました。 「これで、きれいになったわよ」加奈子は子きつねの頭を撫でました。「もう少しだけ、待っててね」  加奈子は自分の髪も乾かしました。加奈子は自然とハミングを口ずさんでいました。新しい下着とパジャマを着た加奈子は、子きつねに変化してもらうと洗面脱衣室を出ました。 「お風呂、出たよ」  加奈子は廊下で大声を上げて、さっさと二階に上がっていきました。子供部屋に戻って、ドアを閉めました。 「初めてのお風呂はどうだった? さっぱりした? 気持ちよかった?」  加奈子は子きつねに話し掛けました。コン太はベッドの上で、毛布に体を擦り付けていました。どうやら、シャンプーの匂いが気になっているようでした。  加奈子は浅い溜息を付いて、独りベランダに出ました。涼しい風に当たって、温まった体を冷やしました。今日は慌しくお風呂に入ったから、かえって疲労感がありました。しかし、さわやかな気持ちにもなりました。  加奈子が手すりに両手を付いて夜空を眺めていると、足元に擦り寄ってくる物がありました。そこには子きつねがいました。 「コンちゃんも、涼みたいの?」  コン太は加奈子を見てから、ベランダの隅に行きました。おしっこを済ませると、部屋の中へ戻っていきました。加奈子はすぐさま、おしっこの後始末をしました。  加奈子はしばらくの間輝く月を眺めていましたが、静かに部屋に戻りました。窓を閉めた彼女は、ベッドの上で丸くなっている子きつねを見つけました。  加奈子はにこりと微笑んで、部屋の明かりを消しました。毛布を被って横になっていると、子きつねが毛布の隙間から潜り込んできました。加奈子は子きつねの体に鼻を近づけて、匂いを嗅ぎました。 「うん、いい香り。けもの臭がしなくなったわ」加奈子は頷きました。「コンちゃん、おやすみ」  加奈子は満足したように、寝に入りました。 XX月XX日 木曜日  それは、午後の理科の授業前に、事件が起きました。  生徒達は休み時間中に、理科教室へと移動しました。実験道具が並べられた大机の前で、生徒達が丸椅子に座りました。ここでも、加奈子はマスコットとなった子きつねを連れていて、大机の上にちょこんと置いていました。 「どうしたの?」  加奈子が体を震わせている子きつねに気付いて、小声でいいました。コン太は教室の片隅、ある一点を見つめていました。加奈子はくすりと笑いました。 「あれは平気よ。大丈夫なの」  加奈子はそっとささやきました。コン太が凝視していた物は、二本足で立ち上がった白熊でした。白熊は目を大きく開いては牙をむき出しにして、両前足を大きく広げていました。 「コンちゃん、あれは熊の標本だよ。剥製にされて、もう動かないから」  コン太は鼻をひくひくさせて、瞳を泳がせていました。 「コンちゃん?」  加奈子は子きつねをうかがい見ました。 “ガタガタッ”  加奈子の背後で音がしました。加奈子は再度振り向きました。 「あっ!」  白熊の顔が真近に迫り、彼女に襲い掛かろうとしていました。加奈子は悲鳴を上げて、とっさに仰け反りました。座っていた椅子から転げ落ちて、床に倒れ込んでしまいました。  子きつねは変化を解いて、大机から飛び跳ねました。剥製の白熊を抱えて動いていた二人の男子生徒の顔に、コン太はぶち当たってしまいました。男子生徒は後ずさりし、床に尻餅をつきました。そして、白熊の標本の下敷きになってしまいました。  コン太は一心不乱に教室の床を駆けずり回ったり、物を蹴散らしながら大机を飛び移ったりしました。 「うわぁ」「きゃあ」  突然の子きつねの出現に、椅子から立ち上がって逃げ惑う生徒や、子きつね目掛けて物を投げつける生徒がいました。子きつねを捕まえようとして追い掛ける生徒までいました。もう、理科教室ははちゃめちゃな、パニック状態と化しました。  コン太はぴょんと飛び跳ねて、白い煙と共に小熊へ変化しました。突如現れた小熊に生徒達は一瞬ひるみましたが、あまりにも小さな小熊を捕まえようとしました。  加奈子は口をあんぐりと開けて、呆然とこの状況を眺めていました。 「その子を追い掛けるんじゃない。捕まえちゃ駄目だよ!」  夏子の叫び声が、教室中に響き渡りました。彼女は両手を左右に広げて、小熊を追い回す男子生徒の前に立ちはだかりました。 「加奈ちゃん」  みゆが加奈子の上体を揺すりました。加奈子は電気ショックを浴びたかのように身震いをし、やっと我に返りました。加奈子は周囲を見渡しては、教室の出入り口ドアに走っていきました。 「コンちゃん、こっちに来て」  加奈子はドアを開けて、外を示しました。コン太は大机の下に入って子きつねに戻ると、加奈子の元に向かいました。加奈子と子きつねは廊下に出ました。 「加奈ちゃん、そのまま逃げて」  みゆがドアを閉めて、行く先を塞ぎました。後を追っていた男子生徒達は、急ブレーキを掛けて止まりました。先頭にいた生徒は両手をドアに突いて、みゆの顔の正面でその動きを止めました。  後ろに続いていた生徒が勢い余って、前にいた生徒の背中に当たりました。みゆは男子生徒に押され、ドアに背中を打ち付ける羽目になりました。 「痛っ」  みゆは目に涙を浮かべました。  加奈子と子きつねは廊下をひたすら駆けました。途中、曲がり角で先生に遭遇しましたが、先生の脇をすり抜けていきました。 「廊下は走らないこと。それに授業が始まるよ、教室に戻りなさい」  先生が怒鳴りました。 「急用で帰ります」  加奈子は叫び返しました。加奈子を追い掛けていた生徒達が、先生に止められました。 「コンちゃん、行くよ」  加奈子は息を切らせながらも、下駄箱へ急ぎました。加奈子は靴を履き替えて、そのまま校庭に出ました。太陽が頭上を照りつける中、校舎を背にして走りました。加奈子達を追い掛けてくる者はいませんでした。 「あははは」  加奈子は笑い出してしまいました。加奈子と並走していた子きつねが、彼女を見上げました。加奈子は閉ざされた正門をよじ登りました。コン太は鉄格子の正門の隙間をすり抜けました。  加奈子と子きつねは、無事小学校を出ることができました。学校を取り囲むフェンスに沿って、歩道を駆けました。  隣接するマンションの影に入ると、加奈子は足を止めました。両膝に手を添えて、前傾姿勢で荒い呼吸を整えました。コン太も歩道に伏せて休みました。 「さあて、これからどうしようか」加奈子が子きつねを見ました。「授業は抜け出しちゃうし、教科書は教室に置いたままだし、このまま学校に戻っても捕まっちゃうだけだし、家に帰るには早い時間だしねぇ」 「コーン」  コン太が心配そうに鳴きました。 「仕方ないから、放課後になるまでどこかで時間を潰そう」  加奈子はとぽとぽと歩き始めました。子きつねはその後を連いていきました。たどり着いた所は、図書館の裏にある公園でした。以前来た事がある場所でしたので、コン太は早速公園の中に入っていきました。 「誰にも見つからないようにね」  加奈子がいいました。コン太は遊歩道脇の茂みに入って、奥へ進んでいきました。加奈子は赤ちゃんや幼い子供を連れた母親の姿を、公園内のベンチで見掛けました。加奈子は人の目を気にしながら、公園の奥に消えていきました。  茂みに隠れた加奈子は、大樹の根元に腰を下ろして背もたれました。コン太は木々の根っこの下で、地面に鼻を押し当てながら穴を掘ったり、茂みの中に突進したりしました。加奈子は子きつねの行方を耳で追っては、口元を緩ませていました。  やがて、コン太は遊びに飽きて、加奈子のそばにやって来ました。コン太は加奈子の横で寝転びました。加奈子は子きつねを優しく触りました。  遠くで、鐘の音が聞こえました。小学校の授業の終わりを告げる音でした。 「家に帰ろうか」  コン太は目を開けて、加奈子を見ました。 「家に帰って、休みましょう」加奈子は立ち上がりました。「コンちゃん、小さくなって」  コン太は大きくジャンプして、白煙と共にきつねのマスコットになりました。加奈子はそのマスコットを両手でつかみました。 「そのままでいてね」  加奈子は隠れていた茂みから出て、遊歩道を歩きました。公園を後にして、図書館の脇を通りました。 「そこのお嬢さん、お待ちなさい」  トーンの高い声が、加奈子の背後から聞こえました。加奈子はびくっとして、思わず立ち止まりました。背中越しに振り向くと、図書館から出てくる女性の姿がありました。女性は小走りに石段を下りて、こちらに近づいてきました。 「あっ!」  加奈子は慌てて駆け出しました。女性が付けている、“パトロール中”の腕章を目にしたのでした。 「待ちなさい、そこの子」女性は叫びました。「貴方、小学生でしょ、こんな早い時間に何していたの?」  加奈子は一生懸命に走って、曲がり角を幾度も曲がりました。一軒家が立ち並ぶ小道を駆けていると、灯篭が両脇に立てられ、石畳が敷かれた路地を見つけました。加奈子はそちらに逃げ込みました。小さな鳥居をくぐった先に、神社がひっそりと建っていました。 「こんな所に、神社があったんだ。あそこに隠れていよう」  加奈子は神社の裏手に回って、一段高くなっている建物の土台の下に潜り込みました。加奈子は女性から逃れるために、ここで時間を潰すことにしました。 「日が暮れちゃうね」加奈子はつぶやきました。「お母さん、心配しているかなぁ?」  暗がりが周囲を包む中、ぽつりぽつりと外灯が明かりを点してきました。加奈子達がいる神社も灯篭に明かりが点り、神秘な光景をかもし出しました。  加奈子は建物の影から顔を出して、表の方を眺めました。 「もう、大丈夫みたい。家に帰ってみようか」  加奈子は注意深く周囲を見回しながら、神社を出ていきました。歩道や道路は、行き交う人や車で一杯でした。加奈子は早足で帰りました。  家の玄関前に着くと、加奈子は深呼吸をしました。 「行くよ、コンちゃん」加奈子は勢いよく玄関のドアを開けました。「ただいまー」 「おかえりなさい」  奥の方から、母の明るい声が聞こえました。加奈子はほっとして、二階へと続く階段を上がっていこうとしました。 「加奈ちゃん、ちょっとこっちに来て」  加奈子は母の言葉に、動くのを止めました。頭の中で、“どうしようか”と迷いました。 「何? お母さん」  とりあえず、返事しました。 「いいからこっちに来て、夕飯の手伝いをしてちょうだい」 「一度、部屋に戻ってからでもいい?」  加奈子はいってみて、聞き耳を立てました。母は間を置いてからいいました。 「いいけど、早く下りてきてね」 「わかった」  加奈子は二階に上がっていきました。子供部屋に入って、後ろ手でドアを閉めました。コン太は加奈子の手から離れると、マスコットの姿から子きつねへ変わりました。大きく伸びをしてから、ベッドに乗りました。 「じゃあ、私は下りていくけど、コンちゃんはおとなしく待っていてね」  加奈子は子きつねに手を振って、部屋を出ようとしました。ふと窓の方に目をやり、思わず声を上げていました。窓の横にある勉強机の上に、赤いランドセルがありました。加奈子は恐る恐る勉強机に近づき、ランドセルを眺めました。中を開けて、自分のランドセルであることを確認しました。  加奈子は唇をきゅっと結んで、意を決したかのようにすたすたと歩き始めました。部屋を出て、階段を下りていきました。キッチンで待っている母の元に向かいました。キッチンでは、ご飯を炊く匂いがしていました。母が皮をむいたじゃがいも、ニンジン、玉ネギを切っていました。 「今日は、甘口のカレーよ」  母が手を動かしながらいいました。加奈子は母から離れた所に立ちました。 「お母さん、私は何を手伝えばいいの?」  加奈子がいってみました。 「そうねぇ……」母がゆっくりといいました。「まず始めに、夏ちゃんとみゆちゃんに電話をしてちょうだい。ランドセルを持ってきてくれたお礼と、心配掛けたお詫びをして」  加奈子は母の横顔をちらっと見てからうつむきました。 「話は二人から聞いているから、大体のことはわかっているわ。電話し終わったら、そのきつねさんに会わせてちょうだいね」 「うん」  加奈子はリビング脇にある電話を掛けに行きました。受話器を手に取って、ダイヤルボタンを押しました。二人はすぐに電話に出ました。たぶん、加奈子を心配して、ずーっと電話機の前で待っていた様子でした。 「ランドセルを届けてくれて、ありがとう――うん、また明日学校で」  加奈子は受話器を置くと、吐息を付きました。わずかに緊張した面持ちでした。振り返ってはキッチンに目をやって、リビングを出て二階へ上がっていきました。 「コンちゃん」加奈子は部屋のドアを開けました。「コンちゃん、起きてる? 今から一階に下りていくから、心の準備をして」  ベッドの毛布にくるまっていたコン太は、何事かと彼女を見ました。 「これから、私のお母さんに会ってもらうからね。ちゃんとおとなしく、男らしくりりしくしているのよ」  加奈子は子きつねを抱くと、部屋を後にしました。コン太は加奈子の胸の中でじっとしていました。母はキッチンには居らず、リビングのソファに座ってテレビを見ていました。  加奈子は母の隣に座って、二人の間に子きつねを置きました。母はしばらくの間、お座りしている子きつねを見ました。子きつねの前にそっと手を差し出しました。 「お手」  母がいいました。コン太は前屈みになって、母の手のひらに鼻をもっていきました。 「お手」  母が再びいいました。コン太はくんくんと匂いを嗅いでから、母の顔を眺めました。 「お母さん、子犬じゃないんだから、お手はできないのよ」  加奈子は苦笑いしました。 「そうなの?」  加奈子はこくりとしました。 「何ていう名前なの?」 「コンちゃん」 「いつから飼っているの?」 「この前、遠足に行った土曜日から」 「どこから来たの?」 「たぶん、遠足に行った山で拾ったんだと思う」 「そうなの? 加奈ちゃんが連れてきたの?」 「知らないうちに、家まで来てしまったんだと思う。私も後になって部屋で見つけたから」  母は子きつねをまじまじと見つめました。近づいた母の顔が、コン太の目前にありました。 「何て可愛いんでしょう」  母は子きつねに抱きつきました。コン太は一瞬放心し、彼女の腕から逃れようとしました。しかし、足が宙に浮いていたのでおとなしくなりました。母は自分のほほを子きつねのほほにくっつけて、すりすりしました。 「うわぁ、気持ちいい」  加奈子は母の行動に、唖然としました。母は赤ちゃんを抱くように子きつねの背中を両腕で支えて、面と向かう姿勢を取りました。コン太はされるがままの状態でいましたが、加奈子に視線を送りました。加奈子は戸惑いながら、母を見つめていました。 「以前からお母さん、小犬を飼いたいと思っていたんだ。加奈ちゃんはこの子をお家で飼いたいの?」  母が聞いてきました。 「うん」  加奈子は頷きました。 「そうなんだ」  母は口をつぐみました。加奈子は母の次の返答を待ちました。テレビの音だけが聞こえました。母は子きつねをソファの上に戻すと、軽く頭を触りました。 「さあて加奈ちゃん、夕食の手伝いをしてね」  母はソファから立ち上がりました。 「それじゃあ、お母さん。コンちゃんを家で飼っていいの?」  加奈子が気になっていることを聞きました。不安そうに見つめている加奈子に、母は目を向けました。 「そのことは、コンちゃんに聞いてみなさい。この人間が住んでいる町で、加奈ちゃんと一緒にいたいのか。それとも、生まれ育った山の家族と一緒にいたいのかを。勝手な言い方だけど、私達が決めることではないような気がするの」 「それは、そうだけど……」  加奈子はうつむいてしまいました。母が加奈子に手招きしました。 「今はそんなことで悩まなくていいから、一緒に私達とコンちゃんのご飯を作りましょう」 「コンちゃんはここで待っててね」  加奈子は首を左右に振って、母と共にキッチンに行きました。コン太はソファに寝転んで、母娘の会話に耳を傾けていました。 XX月XX日 金曜日 「行ってきまーす」  朝、加奈子が玄関口でいいました。 「行ってらっしゃい」  母が廊下で加奈子を見送りました。 「コンちゃんを、よろしくね」  加奈子が付け加えました。 「はいはい」「コーン」  コン太が母の足元でお座りをして、加奈子を見送っていました。今日は母が子きつねの世話をしてくれるのでした。 「じゃあ、また夕方」  加奈子は名残惜しそうにして、玄関のドアを閉めました。朝の慌しさから、我が家に静けさが戻りました。母が子きつねにいいました。 「コンちゃんは、お家で留守番だよ。今日は私と一緒に過ごすんだから、よろしくね」  コン太は母を見上げました。 「じゃあ、戻ろうか」  母が振り返って、リビングに戻ろうとしました。が、足を止めました。コン太が加奈子が消えていった玄関のドアを見つめていました。母は笑みを浮かべると、リビングへと続くドアは開けた状態で、奥に消えていきました。  母はキッチンで朝食の後片付けをしたり、洗面脱衣室で洗濯機を掛けました。掃除機で部屋中を掃除し、最後にリビングにやって来ました。 「?」  母が玄関の方を見ました。玄関先に、子きつねの姿を認めました。コン太は玄関マットの上で体を丸めていました。 「コンちゃん」  母が子きつねに歩み寄りました。コン太の耳がせわしく動きました。 「コンちゃん、加奈ちゃんの部屋で、あの娘が学校から帰ってくるのを待ってる?」  コン太は首をめぐらして、母を見つめました。次に、尻尾で顔を隠しました。母は肩をすくめると、奥のリビングに向かいました。  昼食の仕度をする時間になっても、子きつねは玄関マットの所にいました。母は昼食を食べ終えてから、ソファに横になってテレビを見ました。いつの間にか、母は規則正しい寝息を立て始めました。母は子きつねが起き出したのに気付きませんでした。  コン太はリビングに目をやりました。聞き耳を立てましたが、テレビと母の寝息の音がするだけでした。コン太は静かに歩き出しては、姿を消しました。 「んっ!」  母が目を覚ましました。体を起こして、ソファに座り直しました。 「うーん、寝ちゃった」  母がリビングの壁に掛けてある時計を見ました。午後三時過ぎでした。 「コンちゃんは?」  母は思い出したかのように立ち上がって、慌てて玄関口に行きました。居る筈の子きつねの姿は、そこにありませんでした。母は周囲を見回した後、階段に目をやりました。急いで階段を上がって、加奈子の部屋の前で足を止めました。  大きく深呼吸をして、息を整えました。ノブに手を掛けて、閉めてあるドアをゆっくりと開けました。わずかな隙間から、部屋の中をのぞき込みました。加奈子が寝るベッドの上で、子きつねを見つけることが出来ました。母は安堵の溜息を付きました。母は娘の部屋に入っていき、ベッドの隅に腰を下ろしました。  コン太がむくっと顔を上げて、母を見ました。母は手を伸ばして、子きつねの頭に触れました。コン太は目を閉じました。 「この毛布にはあの娘の匂いが付いているからね。コンちゃんは加奈ちゃんがいいのねぇ」  母は小さくつぶやきました。コン太は起き上がって、ぴょんぴょんと跳ねました。 「そうなんだ」母は立ち上がりました。「もうしばらくしたら、加奈ちゃんを迎えに行こうか?」  コン太がベッドから降りて、ドアの前に進みました。母は苦笑しました。 「コンちゃん、まだ早いわよ。まずは洗濯物をお家に入れて、お出掛けの準備をするから、それまで下で待っていてね」  母が部屋のドアを開けてやり、子きつねを外に出しました。コン太はすばやい動きで階段を下りて、玄関口で母を返り見ました。 「コーン」  コン太は一鳴きしました。母は階段を下りていき、玄関口で屈み込んでいいました。 「仕方ないわねぇ。まだ時間が早いけど、ぶらぶらしながら学校に行こうか。ついでに夕飯の買い物もしよう。お家に帰ってきてからでも、洗濯物を込むのはいいでしょう」  母はいったんキッチンに向かい、買い物袋を持ってきました。 「ところで、貴方をこのまま外に連れ出していいものかどうか? 困ったわねぇ」母はほほに手を当てて考え込みました。「この買い物袋の中にでも入る?」  母は買い物袋を廊下に置きました。買い物袋は、ちょうどスーパーのカゴがすっぽりと入る大きさでした。コン太は買い物袋に近づいて、中の匂いを嗅ぎました。大きくジャンプをして、白い煙と共に変化しました。空だった買い物袋に、スナック菓子の袋が入りました。 「まあ、すごい」  母は両手を叩いて大喜びしました。スナック菓子の袋がわずかに左右に揺れて、得意になっている感じがしました。母は買い物袋を持って、曲げた腕にぶら下げました。 「これから出掛けるとして、日除け傘を差していこう」  母は傘立てからUVカットの傘を選んで、玄関を出ました。家の戸締りをして、道路脇の歩道を歩きました。母は日差しが買い物袋に当たらないように、傘を斜めに差しました。  母が小学校の正門前に着いた時、放課後の鐘が鳴りました。 「加奈ちゃんがすぐに出てくるといいね」  母は正門の脇に植えられた桜の下で待つことにしました。校舎から事務員が出てきて、正門へ歩いてきました。正門の鉄格子を開けて、生徒達の下校に備えました。  ランドセルを背負った小学生が、どかどかと校舎から出てきました。ある生徒は広い校庭でサッカーやソフトボールを始めました。ある生徒はそのまま正門まで歩き、各自の家々へと去っていきました。  母は差している傘をくるくる回しながら、校舎の方に目を向けて時間を潰しました。母は女子の集団を見つけましたが、落胆の吐息を付きました。下校する学生がまばらになった頃、沈んでいた母の表情がぱっと明るくなりました。 「コンちゃん、コンちゃん。加奈ちゃんが来たよ」  母は買い物袋に目を落としました。いつの間にか、スナック菓子の袋はその姿を変えていました。コン太は両前足を買い物袋の縁に当てて、顔を外にのぞかせていました。加奈子は夏子とみゆと、横一列で歩いていました。  コン太はさっと飛び上がって、買い物袋から抜け出しました。母が止める間もなく、一直線に加奈子に駆け寄りました。 「コンちゃん」  子きつねに気付いた加奈子が、しゃがみ込みました。コン太はそのままジャンプして、加奈子の胸元に飛び込みました。コン太は加奈子の膝の上に乗って、彼女の顔をペロペロと舐めました。加奈子の両側にいた友達は、この光景を楽しそうに眺めました。 「コンちゃん、どうしたの? 独りで学校まで来たの?」  加奈子は子きつねの背中を撫でながら聞きました。コン太は小さく鳴きました。 「コンちゃんが寂しくしていたから」母が娘のそばに行きました。「加奈ちゃんを迎えに来たの」 「お母さん」  加奈子が母を見上げました。 「こんにちは」「こんにちは」  夏子とみゆが母にあいさつしました。 「はい、こんにちは」  母があいさつを返しました。加奈子の友達は彼女の周りに集まり、子きつねを思い思い触れました。 「加奈ちゃん。学校では何だから、外に出ましょう」  母が加奈子に耳打ちしました。加奈子は頷くと、子きつねを抱いて立ち上がりました。 「コンちゃん、化けてちょうだい」  加奈子が子きつねにいいました。コン太は白い煙と共に、マスコットへ変化しました。加奈子はマスコットを両手のひらの上に乗せて、みんなと一緒に学校を出ました。 「今日は日直だったから、帰りが遅くなっちゃったの。ごめんなさいね」  加奈子はマスコットにいいました。 「途中のスーパーで、夕飯のおかずを買って帰るから、その予定でいてね」  加奈子達の後ろを歩いていた母がいいました。 「うん、わかった」  加奈子達は歩道を横並びで歩いていました。みんな、学校での話をしていました。スーパーに着くと、加奈子と母は友達と別れました。加奈子は母が持っている買い物袋に、マスコットをくくり付けました。 「コンちゃんはおとなしくしていてね」加奈子が振り返っていいました。「今日のおかずはなーに? 何を買うの?」 「それは、今日の特売品を見てからのお楽しみ」母はカゴを手にして微笑みました。「お肉、お魚コーナーを見て回りましょう」 「私、ハンバーグが食べたいな」 「うーん、コンちゃんの食べ物も買って帰りましょう」 「はーい」  加奈子と母は店内を見て回りました。マスコットに化けたコン太は、瞳を輝かせながら店内を眺めていました。鼻をくんくんさせて、いろいろな匂いを嗅いでいました。  母が子きつねの食材を、カゴの中に入れました。 「お母さん、コンちゃんの食料はそれでいいの? きつねはイヌ科なんだよ」  加奈子が聞いてきました。母はいいました。 「きつねの食べ物をインターネットで調べてみると、主食としてはこれがいいんだって。何でもきつねに必要な栄養分が入っているんだって」 「ふーん、そうなんだ」  加奈子はとりあえず納得しました。カゴに入れた子きつねの食材は、キャットフードでした。 「ねえ、お母さん。食後のデザートも買っていい?」  レジに向かう途中で、加奈子がいいました。 「そうねえ、どうしようかなぁ?」  母は首を横に傾けました。 「ショートケーキ買って、帰ろうよ」  加奈子が母の袖を取りながらいいました。母は笑って答えました。 「仕方ないわね。レジ前で待っているから、好きな物を取ってきてちょうだい」 「やったー」  加奈子は喜び勇んで、スイーツコーナーへと足を運びました。 「困った娘だよねぇ、コンちゃん」  母は娘の後ろ姿を見つめながらささやきました。コン太は不安そうな表情で、加奈子を目で追っていました。母はレジの脇で、加奈子がやって来るのを待ちました。しかし、いくら待っても、彼女は来ませんでした。買い物カゴを持った人達が、次々に会計を済ませていきました。 「遅いわねぇ。コンちゃん、見て来ようか」  母は加奈子が去った方に歩き出しました。スイーツコーナーの前で立っている娘を見つけました。 「どうしたの? 加奈ちゃん」 「あっ、お母さん」加奈子がびっくりした口調でいいました。「どれにしようかと、迷っちゃって」 「大好きなショートケーキにしたら」 「んっ、でもね。ホイップがたくさん詰まった、シュークリームもいい感じがしていて。お年頃の乙女としては、カロリーも気になるわけだし」 「同じクリームでしょ、カロリーなんてそう変わらないわよ。それにお年頃といっても育ち盛りの娘なんだから、そんな細かいことまで気にしていては駄目よ」 「ん、もう……」  加奈子はほほを膨らませました。 「そんなに悩んでいるのなら、二つとも買ってしまえば。後で、私と半分こしようよ」 「うん、そうする。ショートケーキとシュークルームを半分ずつ」  加奈子はスイーツコーナーから二つ手に取って、カゴの中に入れました。コン太は黙って、親子のやり取りを見守っていました。  加奈子達はレジで会計を済ませると、スーパーを出ました。 「コンちゃん、途中で散歩する?」  加奈子が子きつねに声を掛けました。 「コーン」  マスコットに化けたコン太が、求めるような音を出しました。帰宅途中にある公園に立ち寄って、子きつねを遊ばせることにしました。見知った公園に着くと、早速コン太は元の姿に戻りました。 「あんまり遠くに行っちゃ駄目だよ」  加奈子は茂みの中に突進していく子きつねにいいました。母と加奈子はそばにあったベンチに座りました。加奈子は両足を前後に揺らしながら、茂みの奥を眺めていました。そよ風が加奈子のほほを撫でていきました。  コン太は茂みの中を駆けずり回ったり、土を掘り返しては昆虫を探していました。 「ねえ、加奈ちゃん」  母がいいました。 「なーに、お母さん」  加奈子は子きつねの行方を追って、視線を走らせていました。母はそんな娘を見つめました。 「何でもない」母は思いと違う言葉を口にしました。「お家に帰ったら、夕食の手伝いをしてくれる?」 「いいよ」加奈子は母を見て聞いてきました。「お母さん、今日のコンちゃん、家でおとなしくしていられた?」 「そうねぇ、おとなしくしていたわよ。加奈ちゃんが学校に出掛けた後、しばらく玄関口にいたわ。それから二階の加奈ちゃんの部屋に入って、ベッドで休んでいたみたい」 「……そうなんだ」 「何だか、加奈ちゃんの帰りを心待ちしていた様子だった。だから、私が買い物がてらコンちゃんを連れて、学校まで迎えに来たんだよ」 「それって、忠犬ハチ公みたい」  加奈子が微笑みました。 「コンちゃんが犬だったら、ほんと忠犬ハチ公なんだろうね」  母が考え深い表情でいいました。加奈子はそれに気付いていませんでした。 「そろそろお家に帰ろうか」  母がいいました。加奈子はベンチから立ち上がると叫びました。 「コンちゃん、戻ってきて」  コン太はすぐさま茂みから出てきました。 「じゃあ、行こうか」  母も立ち上がりました。加奈子は子きつねに変化するようにいって、マスコットになってもらいました。親子と子きつねは帰路を歩いていきました。 「先に手を洗いましょう」  家に着いた母が、加奈子にいいました。 「はーい」  加奈子はきつねのマスコットを、リビングのソファに乗せました。コン太は元の姿に戻りました。加奈子は洗面脱衣室に向かいました。  母は買い物袋をキッチンの上に置いて、中の物を取り出しました。今日の夕飯に使わない食材は、冷蔵庫の中に仕舞いました。加奈子がおねだりしたショートケーキとシュークリームも、冷蔵庫に入れました。 「さあて、ハンバーグを作りましょうか」  母はキッチンに来た加奈子にいいました。 「はーい」 「では、必要な道具を出しましょう」  母の指示の元で、加奈子はハンバーグ作りに必要な道具を用意していきました。 「今日学校でね、コンちゃんの話で持ち切りだったんだよ」 「そうなの? どんな話が出たの」  母娘がキッチンに並んで話し始めました。 「昨日の理科の授業前に、コンちゃんが変化を解いて、教室中駆けずり回ったの。男の子はコンちゃんを捕まえようとするし、女の子はコンちゃんから逃げ回るし、騒然となってしまったの」 「それで、どうなったの?」 「コンちゃんはきつねから小熊に化けて、男の子達をびっくりさせたの。私は教室のドアを開けて、コンちゃんを廊下に出して、そのまま二人して学校を抜け出したの」 「そんな騒動があったんだ。教室は大変だったでしょうに」  加奈子は笑っていいました。 「コンちゃんが小熊に化けたのは、生徒全員が幻覚を見ていたことになっているの。だって、小学校の教室に小熊が現れたなんて、現実ではあり得ないから」 「でも、きつねが教室にいたことは、わかっているんでしょ。それで、加奈ちゃんが飼っていることも、ばれてしまったの?」 「それは大丈夫みたい。近所で飼っているきつねが、たまたま教室に迷い込んだことになっているの。それを私が逃がしてあげたことにしているの」 「ふーん」 「だから、コンちゃんを連れて、これから学校に行けないの。みんなにばれちゃうと困るし、また学校で小熊などに化けるといけないから」  加奈子はハンバーグの具材を、ボールの中でこねくり回しながらいいました。コン太は耳をそば立てて、母娘の会話を聞いていました。リビングに置かれたテレビでは、動物ものの番組が放送されていました。  夕飯の準備が整って、食卓の上には手作りのおかずが並べられました。その食卓の下には、キャットフードが入ったお皿がありました。 「コンちゃん、お待ちどうさま。ご飯ですよ」  母がいいました。ソファの奥で、動く気配はありませんでした。 「ここには、いないのかなぁ?」  加奈子はソファに近づいていきました。背もたれ越しに、子きつねの姿がありました。前方に回り込んで、子きつねを正面から見ました。 「なーんだ、起きているじゃない。コンちゃん、さあご飯だよ」  加奈子は、目を開けている子きつねにいいました。コン太は視線をソファの背もたれにやって、ダンマリしていました。 「どこか、調子が悪いの? 動物病院にでも行ってみる?」 「どうしたの? 加奈ちゃん」  母が聞いてきました。 「何だかコンちゃんの様子が変なの、全然元気が無くて。帰りの途中で、おかしな物でも食べたのかなぁ?」 「それは、困ったものね」  母もソファに歩み寄って、加奈子の隣でしゃがみ込みました。 「コンちゃん、どうしちゃったの? 一緒に食事をしましょうよ」  コン太は母娘を見つめました。母は子きつねの背中を擦りました。母娘が子きつねを見守っていると、子きつねがゆっくりと立ち上がりました。コン太はソファから降りて、食卓の方へ歩いていきました。 「大丈夫……みたいね」  母がいいました。加奈子は心配そうに子きつねの後ろ姿を見つめました。二人は子きつねの後に続きました。コン太はお皿に盛られたキャットフードの匂いをかいで、一口食べました。 「私達も、夕飯を頂きましょう」  母は食卓につきました。加奈子も対面に座りました。 「いただきます」「いただきまーす」  母娘はそういって、箸を手に取りました。加奈子は早速ハンバーグに箸を入れました。肉汁があふれ出して、加奈子の食欲をそそりました。一口サイズに切ったハンバーグを、口に入れてほお張りました。 「おいしい」  加奈子は満面な笑みでいいました。母もにこりと微笑みました。加奈子はサラダにも手をつけて、おいしい夕食を取りました。ふと、加奈子は足元が騒がしいのに気付きました。彼女は上体を横に屈めて、食卓の下を見ました。 「コンちゃん、何しているの?」  加奈子は思わず叫びました。コン太はキャットフードを口にくわえては、天井に放り投げていました。それを何度も繰り返し、床に置いたお皿の周りは、キャットフードの粒が散乱していました。 「あら、まあ」  母も食卓の下をのぞき込んで、子きつねの行動を目にしました。加奈子は椅子から降りて、子きつねが散らかしたキャットフードをお皿に戻していきました。コン太は一歩離れた所でお座りをし、加奈子を見つめていました。 「今日のコンちゃん、おかしいね」  加奈子がつぶやきました。床に落ちていたキャットフードを全部拾ってから、子きつねの前にお皿を置きました。コン太はいったんお皿に鼻を近づけましたが、そっぽを向きました。 「やっぱり、体調が悪いのかなぁ?」  加奈子は手のひらにキャットフードを乗せて、子きつねの口元にもっていきました。コン太はちゅうちょしていましたが、一口それをくわえました。加奈子は再びキャットフードを与えました。コン太はお皿に顔を突っ込んで、自分からキャットフードを食べようとしませんが、加奈子からもらう物は食べました。 「どうしちゃたんだろう?」  加奈子は不思議に思いました。 「コンちゃんの面倒、代わろうか? 加奈ちゃんはおかずが冷めないうちに食べちゃって」  母がいいました。 「うん、そうする」  加奈子はすくっと立ち上がって、椅子に座りました。 「今度は、私がご飯をあげるからね」  母が子きつねのそばに行って、手のひらにキャットフードを乗せました。コン太はそれを口に入れました。時間を掛けて、コン太は夕飯を完食しました。 「はい、ごちそうさま」  母は子きつねの頭に触れて立ち上がりました。加奈子もちょうど夕飯を食べ終えたところでした。 「ごちそうさま」  加奈子がいいました。コン太は加奈子をちらっと見て、すたすたとソファへ歩いていきました。加奈子は母の手伝いで、夕飯の後片付けをしました。 「コンちゃんを病院に連れていったほうがいいかなぁ?」  使った食器を手渡しながら、加奈子がいいました。母がソファの方を見てからいいました。 「明日、まだ具合が悪かったら、病院に連れていこう」 「うん」  コン太は目をつぶったまま、ソファにうずくまっていました。  その日の夜、コン太は加奈子のベッドから離れた、子供部屋の片隅で丸くなっていました。加奈子がベッドに誘いましたが、子きつねはベッドに入ってきませんでした。  加奈子がすやすやと寝息を立てました。コン太はむくっと顔を上げて、加奈子に目を向けました。窓へと静かに歩いていきました。カーテンをくぐって見上げると、三日月が夜空に浮かび、幾つもの星が輝いていました。 「クーン、クーン」  コン太が夜鳴きをしました。加奈子と母のにこやかな光景を見て、住んでいた山のことや姉のサチ、弟妹のことを思いました。コン太はいわゆる、ホームシックに掛かったのでした。コン太はしばらくして窓から離れて、ベッドに飛び乗りました。加奈子が掛けている毛布に寄り添って、横になりました。  家の外では、忘れ去られた洗濯物が、いまだ干されたままでした。 XX月XX日 土曜日 「今日は、海にドライブしよう」  朝食の時に、母がいいました。キャットフードを食べていた、コン太が顔を上げました。 「どうしたの? お母さん」  加奈子が箸を動かすのを止めて、キッチンにいる母を見ました。 「コンちゃんの食欲が戻ったけど、気分転換も必要かなって。だから、お家の外に出て、開放的な場所に行ってみようと思ったの」  加奈子が足元に目をやって、子きつねがこちらを見つめているのを知りました。 「でも、どうして海なの? 山のほうがいいんじゃない?」 「コンちゃんに大きな海を見せたいのよ。たぶん、生まれて初めてじゃないかしら」  母はうれしそうに笑いました。 「初めてだと思うけど……コンちゃんにわかるかなぁ?」  加奈子は戸惑いました。 「それは、私達の気の持ちようよ。自己満足でもいいじゃない、コンちゃんに初めてを体験させるのって」 「わかったよ、海を見に行こう」  加奈子はそういって、箸を動かしました。コン太は食事を終えて、毛繕いをしていました。 「うみ~」  青い海を見た、加奈子の第一声でした。車から眺められる風景に、コン太も心が弾みました。子きつねは加奈子の膝の上に立って、大きな水溜りを眺めていました。母は海岸線沿いに、車を走らせていました。開け広げた窓から、潮の香りが入っていました。 「どう、気持ちいいでしょ」  母がいいました。 「うん、とってもいい。コンちゃん、これが海だよ。広くて大きな海だよ」  コン太は目を大きく見開いていました。加奈子達を乗せた車は、やがて海岸線側の駐車場で停まりました。 「加奈ちゃん、待って」  車から降りようとする彼女に、母がいいました。 「なに?」  ドアノブに手を掛けたまま、加奈子が聞いてきました。 「これをコンちゃんに付けてやって。首輪の代わり」  母は持ってきたバッグから、赤いスカーフを取り出しました。 「ありがとう」  加奈子はスカーフを手に取りました。 「コンちゃん、じっとしていてね」加奈子は子きつねの首にスカーフを巻きました。「はーい、出来上がり」 「可愛いね」母がにこりとしました。「じゃあ、行こうか」  母はバッグを持って、車から降りました。加奈子も子きつねを小脇に抱えて外に出ました。子きつねが暴れる中、加奈子は周囲をきょろきょろ見回しました。 「大丈夫、今降ろしてあげるから」  加奈子は危険な動物がいないとわかると、子きつねを下に降ろしました。母娘は駐車場を歩いて、砂浜へと続くブロックの階段を下っていきました。コン太は注意深くしながら、加奈子の後に連いていきました。 「これが砂浜で、その先が海だよ、コンちゃん」  加奈子が指先を前方に示して、子きつねにいいました。 「駆けっこしよう」  加奈子が走り出しました。コン太も砂に足をすくわれながらも、やっとこ歩いていきました。 「あはっ!」  加奈子が大きく手を広げて、空を仰ぎながら駆けました。この開放感が気持ちいいものでした。初めて砂浜を進むコン太は、しだいに走り慣れてきました。加奈子の周りを駆けずり回りました。  加奈子は海辺に立ちました。コン太もその横に並びました。寄せては引く波に、興味津々で眺めました。コン太は恐る恐る波際に近づいていきました。 「この水はしょっぱいんだよ。だから、飲んじゃ駄目だからね」  加奈子はいいました。波が往き来するタイミングで、コン太も前後に動きました。 「コンちゃん、お上手ね」  加奈子が笑っていいました。遠くでは、母がこれを見守っていました。  次に向かったのは、駐車場に隣接する臨海公園でした。加奈子達は海側に植えられた、防風林の方へ進んでいきました。防風林の脇には、遊歩道に沿ってつつじの茂みが並んでいました。遊歩道を歩いていくと、小屋みたいな休憩所がありました。  小屋の中にあったベンチに、加奈子と母が座りました。コン太は茂みの奥へ行きました。 「遠くの方へ行っては、いけないからね」  加奈子は子きつねにいいました。加奈子は聞き耳を立てて、子きつねが立てる茂みの音を聞いていました。母は持ってきたバッグから、お菓子を取り出しました。 「お腹空いていない? 何か食べる?」  クッキーとジュースがベンチに並べられていきました。 「うん」  加奈子はクッキーを食べて、ジュースを飲みました。母は温かい眼差しで、娘を眺めました。加奈子はベンチに深く腰掛けて、両足をぶらぶらさせていました。ハミングが自然と口から出ました。瞳と耳は、子きつねを追っていました。 「ちょっと、聞いていいかな?」  母がいいました。 「何?」  加奈子が母を見ていいました。母は一呼吸付いてから、口を開きました。 「加奈ちゃんは、コンちゃんをいつまでそばに置いておくつもり?」  加奈子はその言葉の意味を、すぐに理解することはできませんでした。 「コンちゃんの飼い主として、いいえ家族の一員として、ずーっと世話をしていくつもりなの?」 「ずーっと一緒にいるけど……お母さんも許しているでしょ」  加奈子は答えました。 「そうだけど、本当に野生のきつねをこの町で育てていくの? この一週間で大変さがわかったんじゃない?」 「この一週間で出来たことは、その先一週間も二週間も、ずーっとやれることでしょ」  加奈子は母を直視しました。 「昨日の真夜中、コンちゃんが鳴いていたの、加奈ちゃん知ってる?」 「何時ごろのこと」 「深夜の二時くらいだった。犬の遠吠えに似て、寂しくて悲しい音だった」母は加奈子に優しくいいました。「コンちゃん、もしかしてホームシックになったんじゃないかと思ったのよ」 「どうして、そう思うの?」 「昨夜、食欲がなかったじゃない。それに、何だか不機嫌そうで、かまって貰いたいオーラも発していたし」 「コンちゃんに、きつねの家族がいるっていうこと?」 「今はわからないけど、昔は両親もいたし、兄弟もいた筈よ」 「コンちゃんを元いた場所に戻す、野生に帰した方がいいと思うの?」  母はこくりとしました。 「もし、コンちゃんの家族がもういなかったら、どうするの? コンちゃんは独りぼっちになってしまうんだよ」加奈子はわずかな希望を託して抵抗しました。「山に帰って、過酷な環境でどうやって独りで生きていくっていうの? 食べ物に困ったり、狩りにあって死んでしまうかもしれないんだよ」  加奈子の顔がみるみる赤くなりました。加奈子は慌てて言い足しました。 「私は……悪気があって言った訳ではないの」  加奈子は握りこぶしを膝に置いて、口をきつくつぐみました。 「加奈ちゃんが一番コンちゃんのことを気に掛けていることはわかっているから」母は物静かにいいました。「でも、コンちゃんにはコンちゃんの生き方があるのよ、加奈ちゃん。これからの生活が、コンちゃんに出会う前の状態にただ戻るだけなのよ」  加奈子は目をつぶって、うつむきました。 「わかんない。何が一番いいのかってことが、わからないよ」  加奈子は立ち上がると、さっと駆け出してしまいました。母は娘の後ろ姿を見送ってから、吐息を付きました。加奈子は現実から逃げ出すように、がむしゃらに走りました。遊歩道を過ぎて、荒れ放題の草原の中に消えていきました。  加奈子の目から、涙があふれ出していました。加奈子は草むらに足をすくわれて、転んでしまいました。上体は起こしたものの、動く気にはなりませんでした。そうして、草むらに座り込んでいました。 「ぐうぅ……」  高いうなり声が、加奈子の耳に入りました。加奈子はゆっくりと首をめぐらして、振り返ってみました。加奈子の瞳に、犬の姿が映りました。生後一ヶ月程度の、小さな犬が二匹いました。加奈子は緊張した表情を解きました。 「こっちにおいで」  加奈子は口元を緩ませて、手招きしました。子犬は後ずさりしながら唸っていました。 「ぐるるぅ……」  加奈子の耳元で、低いうなり声が聞こえました。加奈子は音がした方に目をやり、体を硬直させました。大きな犬が真近にいました。加奈子は瞳を見開いて怯えました。わずかでも動くと、野犬が襲い掛かってくる状態だったのです。野犬は低い体勢で、牙をむき出しにしていました。 「やっ、やだよぅ」  加奈子の声は震えていました。子犬は野犬の後ろに下がりました。野犬は身構えてから、加奈子に飛び掛かっていきました。 「キャアー」  加奈子は目をつぶって、顔を背けました。加奈子の顔の前で、二つの塊が横切りました。一つは、加奈子の隣で草むらに転がりました。もう一つは、草むらに難なく着地しました。加奈子は草むらに伏せて、身体を縮こまらせました。  加奈子の隣で立ち上がった物は、両手を高く上げて小さな牙をさらしました。仁王立ちする白い小熊でした。それに対する形で、野犬も飛び掛かる姿勢を取っていました。小熊は野犬を凝視するも、そのそばに近づいた子犬に気付きました。 「ぐわっ!」  小熊は子犬の方に一歩踏み出しました。野犬は小熊に飛び掛かっていきました。小熊は一瞬にして、体形が消えてなくなりました。ジャンプした野犬の牙は空を切って、草むらに着地しました。  次に野犬の前に姿を現したのは、百獣のライオンでした。ライオンは野犬の脇をすり抜けて、子犬へ駆けていきました。野犬はすぐさまライオンの後を追いました。  野犬が後ろからライオンを襲おうとした瞬間、白い煙が目前を覆いました。野犬が白い煙を抜けると、そこにいる筈のライオンの姿はありませんでした。その代わり、加奈子がいた空間に、大きな雲の塊が出現していました。  野犬は周囲をするどく見回した後、雲の塊に近づいて匂いを嗅ぎました。首を傾げては、子犬の元へと歩いていきました。野犬は子犬の無事を確かめると、子犬を引き連れてどこかへ去っていきました。荒れ放題の草原は、静けさを取り戻しました。  加奈子は恐る恐る目を開けました。自分を取り巻く、白くて大きな塊がありました。雲の塊みたいなそれはとても軽くて、加奈子に覆い被さっていても、ちっとも重く感じられませんでした。加奈子はうつ伏せていた上体を起こそうとしました。 “パンッ”  弾けた音と共に、加奈子に被さっていた雲の塊が白い煙を吐きました。彼女の目前に、何かが落下してきました。加奈子はびっくりして、その場から逃げようとしました。視線の片隅に、赤い色がかすめました。 “???”  加奈子は動きを止めて、草むらに見え隠れする赤い色の物をのぞき見ました。見覚えのある、赤いスカーフでした。 「コンちゃん」  加奈子は慌てて子きつねを胸元に抱きました。コン太は頭を垂れて、だらんと体を横たえました。子きつねは小便をもらしていました。 「うわぁ~」  加奈子は込み上げてくる感情を抑えきれずに、大声で号泣しました。草むらに座ったまま、しばらく肩を震わせていました。 「コンちゃん……」  加奈子はふらふらと立ち上がりました。ぼんやりとした意識の中で、歩き出しました。子きつねを抱えて、臨海公園の防風林を目指しました。 「加奈ちゃん、加奈ちゃーん」  母の声が遠くで聞こえました。加奈子が走り去った方角に向かって、彼女を探していたのでした。加奈子は足の動きを早めました。 「お母さん」  加奈子が叫びました。防風林の遊歩道まで来ると、緩やかなカーブの先に母の姿がありました。加奈子は全身の力が抜けたように、その場にひざまずきました。 「加奈ちゃん」  母が彼女に駆け寄りました。加奈子は子きつねをしっかりと抱えて、うつむいていました。涙はかれていましたが、くしゃくしゃな顔をしていました。 「どうしたの? 何があったの?」  母が加奈子の前でひざまずいて聞いてきました。加奈子の顔をのぞき込んで、抱かれた子きつねに目をやりました。 「コンちゃんを、こちらに渡して」  母はゆっくりとしゃべりました。加奈子は放心状態で、何も聞こえていませんでした。 「具合をみるから、お母さんにコンちゃんを渡して」  母は加奈子の耳元でいって、加奈子の腕の下に自分の手をもっていきました。そっと持ち上げて、子きつねを受け取りました。座り込んだ両膝に、子きつねを置きました。  加奈子は両腕をだらんと垂らして、子きつねを見守りました。母は子きつねの胸やお腹に、手を当ててみました。母は子きつねの体中を手で触っていきました。 「怪我はしていないようね」母は自分の手を見ました。「気を失っているみたい。病院に連れていかないとわからないけど、大丈夫だと思う」  母は子きつねを見つめている娘にいいました。母は加奈子の目の下を、そっと手でぬぐいました。 「とにかく、お家に帰ろう。コンちゃんの様子をみて、それからのことを決めましょう」  母は立ち上がりました。加奈子もつられて、よろけながらも立ち上がりました。加奈子は休憩をした小屋の脇にあった水道で、泣きじゃくった顔を洗いました。加奈子が母のバッグを持って、駐車場まで無言で歩いていきました。  車に乗り込むと、帰路を走りました。加奈子は子きつねを膝に乗せて、子きつねの背中に手を当てていました。 「慣れない環境で生活していて、たぶん疲れが溜まっていたんだと思う。張り詰めていた心が弾けて、気絶しちゃったんだよ」母はハンドルを握りながらいいました。「お家に帰ったら、いっぱい優しくしようね。我が家でくつろげる、落ち着いた環境を提供してあげようよ」 「うん」  母は娘の横顔を見てから、左手を彼女の腕に添えました。 「大丈夫。お家に着く頃には、意識は戻るわよ」  加奈子もそう願いました。  コン太は夢をみていました。それは、まだ母きつねと一緒に暮らしていた頃、コン太がほんの幼い時のことでした。  コン太は草原で昆虫や野ねずみを追い掛けていました。遊びの中で、狩りの練習をしていたのでした。コン太は草むらに身を潜めて、獲物が来るのを待ち受けていました。足音が近づいてきました。コン太は体をかがめては一気に飛んで、けもの道に躍り出ました。  目前に現れたのは、小さな野ねずみではなくて、コン太よりも一回り大きなたぬきでした。たぬきは子きつねの出現に驚きましたが、一鳴きしてコン太に突進していきました。コン太は耳を垂らして、草むらに伏せてしまいました。  たぬきはコン太の首根っこをくわえて、ひょいと空に放り投げました。コン太は悲鳴を上げながら、体を草むらに叩きつけました。着地がうまく出来ず、全身に痛みが走りました。  たぬきは悠然とコン太に迫り、再び首根っこをくわえて空高く放り投げました。コン太は恐怖と痛みで、動くことすらできずにいました。 「キッ!」  草むらから出てくる影がありました。影はたぬきのわき腹に、体当たりをしました。一匹のきつねが牙をむき出しにして、たぬきに威嚇しました。たぬきはきつねと子きつねを交互に見ました。きつねは身をかがめて、いつでも飛び掛かれる体勢を取っていました。  たぬきはそっぽを向いて、渋々けもの道を去っていきました。コン太は呆然として、この光景を眺めていました。母きつねは大きく息を吐くと、コン太に歩み寄りました。母きつねはコン太の顔を舐めました。コン太は目をつぶって、されるがままでいました。 “クーン”  コン太は、夢の中で鳴きました。そして、身震いして目を覚ましました。顔だけ動かして、周囲を見回しました。 「大丈夫だよ、コンちゃん。助けてくれて、ありがとう」  加奈子は前屈みになっていいました。コン太は垂れていた耳をぴんと伸ばして、真近にきた彼女のほほを舐めました。 「お母さん。コンちゃん、大丈夫みたい」  加奈子は笑顔で母にいいました。 「それは、よかった」  母も笑みを浮かべました。  家に帰ると、加奈子は子きつねをリビングに降ろしました。コン太は早速ソファに飛び乗りました。母は途中のコンビニで買った物を、食卓の上に並べていきました。 「遅い昼食だけどいいよね」  母がいいました。 「うん」  加奈子が食卓につきました。サンドイッチ、おにぎりと飲み物がありました。 「いただきます」  加奈子はサンドイッチを開けました。コン太が加奈子の足元にやって来ました。加奈子はサンドイッチのパンを千切っては、子きつねに与えました。 「ちょっとだけね」  加奈子は子きつねにいいました。おにぎりのご飯もひとつまみ取って、子きつねにあげました。  食後、加奈子は子供部屋で、学校の宿題をしました。加奈子は教科書とテキストをにらめっこしていましたが、シャープペンを持つ手が止まったままでした。与えられた問題が解けずに悩んでいる訳ではなく、別のことを考えていたのでした。それは、今日母からいわれた一言でした。  加奈子は子きつねを肩越しに見ました。コン太はベッドの上で寝入っていました。加奈子は溜息を付きました。 “このままコンちゃんと一緒に暮らしていいものか? この町で犬や猫と同じように、ペットとして飼えるものなのか? 首輪を付けずに散歩に連れ出して、公園で思い切り走ったり、昆虫などを探させたりできるのだろうか? それよりも、今まで住んでいた所がいいのではないか? 今の、これからのコンちゃんの居場所は、どこが一番いいのだろうか? もしコンちゃんに家族がいるとするならば、やはり一緒に暮らした方がいいのではないか?”  明解な答えを導き出せないまま、加奈子はあれこれと考えました。これからのコンちゃんとの生活を、いろいろ想像してみました。 「あー、もうやだ」  加奈子は首を左右に振りました。勉強机から離れて、ベランダへ出ました。外の風景を眺めては、もやもやした気分をリセットしました。部屋に戻った加奈子は、自分を見つめている子きつねに気付きました。加奈子は沈んだ表情をしていましたが、笑ってみせました。 「大丈夫だよ」加奈子は自分に言い聞かせました。「平気だよ」  コン太は大きな瞳で、彼女を見つめていました。加奈子は作り笑いを止めて、真顔になりました。 「今から散歩しよう、私の自転車に乗って」  加奈子は子きつねにいいました。コン太は大きくジャンプをして、白い煙と共にマスコットに変化しました。きつねのマスコットが、ベッドの上に転がりました。加奈子はマスコットを手にして、胸元に抱え込みました。 「コンちゃん、元の大きさに戻っていいよ。きつねのコンちゃんと散歩したいから」  コン太は子きつねに戻りました。加奈子は子きつねを抱いたまま、子供部屋を出ました。一階のリビングにいた母に、散歩の旨伝えました。 「車に気を付けてね」  母が明るくいいました。加奈子は自転車の前カゴに子きつねを乗せました。 「それじゃあ、行こうか。出発!」  加奈子は勢いよくペダルをこぎました。コン太は前足をカゴの縁に当てて後ろ足で立っては、町の景色に目をやりました。 「ここが私の家の前の路地、そこを抜けると大通りに出るの」加奈子がいいました。「通りのここが、私の大好きな和菓子屋さん。その隣は、お花屋さん」  加奈子は自分が住んでいる町を見て回りました。 「ここのスーパーで買い物をしたよね――神社の裏で隠れたよね――コンちゃんも私の学校に通ったんだよ」  加奈子は小学校の正門の前で、自転車を停めました。閉ざされた鉄格子の先に、ひっそりと静まった校舎がありました。加奈子と子きつねは、校舎を眺めました。 「私が初めて授業をサボったんだ」  加奈子は思い出し笑いをしました。コン太が彼女を返り見ました。 「コンちゃんと一緒に逃げ出した時、どきどきしたけどすごく楽しかった。クラスのみんな、驚いていたもんね」 「コーン」  コン太が同意を示しました。 「さあ、次行こう」  加奈子は先へと進みました。 「ここは図書館。ここでコンちゃんのこと、調べたんだよ。短かかった一週間だったけど、何もかも初めてだった。そして、その裏が公園ね」  図書館から、人々が一斉に出てきました。閉館の時間だったのでした。 「もうこんな時間。急がなくっちゃ」  加奈子はその場を離れて、住宅街へ入っていきました。とある一軒家の玄関前で停まりました。 「ここで、待っててね」  加奈子は子きつねにそういって、自転車を降りました。玄関口のインターホンを押しました。 “はーい”  返事がありました。 「夏子ちゃんいますか? 私、本田加奈子です」 “加奈ちゃんね。夏子を呼んで来るから、ちょっと待っててね”  夏子の母が、インターホンに出たようでした。加奈子が外で待っていると、玄関ドアが開いて夏子が姿を現しました。 「どうしたの? 加奈ちゃん」  夏子がサンダルを履いて、外に出てきました。 「夏ちゃんに話しておきたくて」  加奈子が自転車の方を見ました。夏子は自転車の前カゴにいる、子きつねを見つけました。 「コンちゃんのこと?」  加奈子はこくりとしました。加奈子は自分の思いを夏子に語りました。夏子は黙って話を聞いていました。 「寂しくなっちゃうけど、仕方ないね」  夏子がいいました。夏子は自転車に近づいて、子きつねの頭を撫でました。 「元気でね」夏子がいいました。「それじゃあ、バイバイ」 「うん、バイバイ」  加奈子は自転車にまたがりました。夏子が見送る中、加奈子は自転車を走らせました。次に向かった先は、みゆの家でした。そこで、みゆとも会話しました。 「加奈ちゃんが決めたことだから、私も賛成するね」みゆがいいました。「コンちゃん、元気でね。また今度」  みゆも子きつねの背中をさすりました。加奈子は自転車をこいで、我が家に帰っていきました。コン太は町の風景を、目を凝らしながら眺めていました。 「コンちゃん、明日はお家に帰ろうね」  加奈子は涙目で、いつもより重いペダルをこぎました。  家にたどり着く頃には、夕飯の時間になっていました。加奈子は子きつねの食事をすぐに準備して、一緒に夕食を取りました。  その後、リビングのソファに座って、みんなでテレビを見ました。コン太は加奈子の隣にいて、体を丸めていました。 「加奈ちゃん、お風呂に入る?」  母の声がしました。加奈子ははっとして目を開けました。いつの間にか、眠ってしまっていたのでした。加奈子は目をこすってから、大きな欠伸をしました。コン太は首をめぐらせて、加奈子を見つめていました。 「コンちゃんも、起きた?」  加奈子は子きつねに聞きました。 「お風呂に入って、今日の疲れを取って、ぐっすり寝てちょうだいね」  母が加奈子の肩に手を置いていいました。 「はーい」  加奈子は立ち上がって、子供部屋へ行きました。リビングに戻ってきた時には、着替えのパジャマを持っていました。 「コンちゃんもお風呂に入るんだよ。今日はよく動いたし、体臭がするわよ」  加奈子は子きつねに手招きしました。コン太は起き上がって、ぴょんとソファから飛び降りました。 「じゃあ、行こうか」  加奈子と子きつねは、洗面脱衣室へ向かいました。加奈子は湯船に浸かって、膝の上に子きつねを立たせました。洗い場では、シャンプーを泡立たせて、子きつねの体を洗いました。お湯で泡を流すと、子きつねがぶるぶると体を震わせました。 「キャア」加奈子はしぶきを浴びて、悲鳴を上げました。「んっ、もう」  加奈子はほほを膨らませましたが、目は笑っていました。加奈子が体を洗っている間、子きつねは洗い場の隅で彼女を眺めていました。加奈子と子きつねは湯船に浸かって体を温めてから、風呂場を出ました。洗面脱衣室で子きつねの体をタオルで拭き、ドライヤーで乾かしました。 「さあ、お母さんの所で、休んでいて」  加奈子は洗面脱衣室のドアを開けて、子きつねを外に出しました。子きつねの後ろ姿を眺めてからドアを閉めました。パジャマを着て髪を乾かした加奈子は、しばらくの間洗面台の鏡とにらめっこしていました。鏡に映った自分の顔が、にこやかな笑顔を作るのに励みました。 「コンちゃん、こっちに来て」  洗面脱衣室を出て、リビングのソファに座った加奈子が、膝をぽんぽんと叩いていいました。母の隣で、ソファで寝転んでいたコン太は、むくっと起きて彼女の膝の上に乗りました。 「今日はいろんなことがあったね」  加奈子は子きつねに微笑みました。コン太は彼女をちらっと見てから、顔を尻尾に埋めました。加奈子はテレビの音を聞きながら、ずっと子きつねの背中を眺めていました。  寝る時間になって、加奈子と子きつねは二階に上がっていきました。 「コンちゃん、寝る前におしっこして」  加奈子はベランダに子きつねを連れ出して、外でおしっこをさせました。毛布に入った加奈子の足元で、コン太は横になりました。 「おやすみなさい、コンちゃん」  加奈子は声を掛けました。 XX月XX日 日曜日  朝食を済ませた加奈子は、リュックサックを背負って玄関を出ました。手に持ったバッグの中には、子きつねがそのままの姿で隠れていました。加奈子はてくてくと歩いて、最寄のバス停留所で止まりました。 「コンちゃんは、これからお家に帰るんだよ。元いた所でたくましく育ってね」  加奈子は遠くの山を見ながらいいました。バスがやって来ました。加奈子はバスに乗り込んで、一番奥の座席に座りました。リュックサックは足元に、子きつねがいるバッグは窓際に置きました。バスは走り出して、山へと向かいました。  加奈子は後方に流れる風景を、ぼんやりと眺めました。昨日、子きつねを自転車の前カゴに乗せて、走る回った場所を通り過ぎていきました。街並みを過ぎて、田畑が広がる所に出ました。  右手に、低くてなだらかな傾斜の山が見えてきました。加奈子は緩やかな振動を感じながら、子きつねと過ごした日々を回想していました。 “次は登山口前神社、登山口前神社”  車内にアナウンスが流れました。思いをめぐらせていた加奈子は、我に返って慌てて外を見ました。森林の間を走る中、見覚えのある風景を目にしました。それは赤い前掛けをしたお地蔵様が、道路脇のほこらに鎮座しているのでした。加奈子はすぐさま降車ボタンを押しました。バスは次の停留所で停まりました。 「さあ、降りよう」  加奈子はリュックサックを背負い、バッグを手にしてバスから降りました。バスが走り去った後、加奈子は周囲を見回しました。どの森林も同じように見えました。加奈子はバスのアナウンスを全く聞いていなかったのでした。  加奈子は反対車線の先にある、行き先表示板を見つけました。 「登山口前神社?」加奈子は口にしました。「知らないけど、とにかく行ってみよう」  加奈子は道路を横切って、標識が示す山道を上がることにしました。 「コンちゃんも、バッグから出て歩く?」  加奈子はバッグを下に置いて、子きつねを出しました。加奈子達は石畳が続く山道を歩いていきました。 「こんな所を遠足で来た記憶はないんだけど、いつかは山頂にたどり着けるでしょ」  加奈子は独り言をいいました。コン太は途中で止まっては、茂みの匂いを嗅いでいました。両側に木々が覆い茂った場所はひんやりしていて、火照った体を冷やしてくれました。  進んでいく度に、白いもやが立ち込めてきました。加奈子は思わず身震いしました。 「コンちゃんは、この道わかる? この道でお家に帰れるのかなぁ?」  加奈子は子きつねに聞いてみました。コン太が鼻をくんくんさせて、悲しく一鳴きしました。 「そうなんだ、ごめんね」  加奈子は周囲に注意を払いながら歩いていきました。しばらく行くと、急に強い風が吹いてきました。木々の細い枝や葉っぱが風になびいて、不気味な音を響かせました。加奈子は立ち止まって、目をふさぎました。何かが加奈子の脇をすり抜けていった感覚にとらわれました。 「コンちゃん、私のそばにいて。絶対離れては駄目だからね」  加奈子は叫んで、その場にしゃがみ込んでしまいました。加奈子を取り巻いていた風が、ぴたりと止みました。  加奈子は恐る恐る目を開けてみました。コン太は四本足で踏ん張って、加奈子の隣にいました。視線は正面を見据えていました。加奈子もそちらを見ると、目前に神社が浮かび上がっていました。先程まで視界をさえぎっていた、もやが晴れたのでした。 「うわぁ」  加奈子は神社を見入りました。加奈子が上ってきた石畳の先に鳥居があり、参道の両側に灯篭がありました。その奥にはきつねの狛犬と、どっしりと構えた本殿がありました。 「すぐそこにあったんだわ、気付かなかった」加奈子は感銘の溜息を付きました。「そこで休憩しよう」  加奈子達は神社を目指して、鳥居をくぐっていきました。コン太が不意に止まって、顔を真っ直ぐ前に向けました。 「どうしたの? コンちゃん」  加奈子が聞きました。コン太はさっそうと駆けていきました。加奈子が子きつねの行く先を見ると、巫女が身にまとう衣装を着た女性が、きつねの狛犬の脇に立っていました。子きつねは女性の周りをくるくる回りました。 「あの……」  加奈子が口をつぐみました。 「こんな所でどうされましたか、道に迷われたのですか?」女性が話し掛けてきました。「どちらまで行かれますか?」  加奈子はうつむきました。そして、戸惑いながら女性を見ました。 「山の頂上に行きたかったのですが、道を間違えたようです」 「そうですか」女性は子きつねに目をやりました。「ところで、こちらのきつねは?」 「先週遠足の帰りに、家に連れていってしまったので、山に帰そうかと思って連れてきました」 「そうですか」  女性はしゃがみ込んで、足元でお座りをした子きつねのほほを撫でました。コン太は目をつぶっていました。 「随分、コンちゃん……いいえ、きつねに慣れているんですね」  加奈子は口を尖らせながらいいました。 「見ての通り、この神社は稲荷神社でして、きつねは神様に仕える動物です」女性は狛犬を手で示しました。「それに、この山にはきつねの家族が住んでいますので、それで親しくなっているわけです」 「やっぱり、コンちゃんに家族がいるんですね」  加奈子のほっとした表情になりました。 「このきつねは、コンちゃんという名前ですか?」  女性は加奈子に聞いてきました。 「はい、私が付けました」 「そうですか」 「あの、コンちゃんの家族は何人いるのですか?」 「姉が一人に、弟と妹は一人ずつ」 「じゃあ、ここにコンちゃんを連れてきてよかったんですね」  加奈子は両手を胸に当てて、明るくいいました。 「はい。コンちゃんが居なくなって一週間ずっと、姉が探していたそうです」 「それでは……もっと早くここに来ればよかったですね」  加奈子が少し落ち込みました。 「でも、コンちゃんにとっては、いい経験だと思いますよ」女性が優しく微笑みました。「貴方がコンちゃんの世話をしてくれたのですか?」 「はい。でも、きつねの面倒をみるのは初めてのことで、ちゃんと世話ができたかどうかわかりません」 「この子が貴方になついているのはわかります。ですから、大切にしてくれたことに感謝いたします」  女性が頭を下げました。 「私は私に出来ることをしただけですから」  加奈子は両手を振って、遠慮がちにいいました。 「その気持ちだけでもうれしいです」  加奈子は満足した気持ちになりました。加奈子は女性にお願いをしました。 「これで、私は山を下りますが、コンちゃんを家族の所に連れていってもらえませんか? よろしくお願いします」 「もし、貴方がそれでよろしければ」 「はい」  加奈子はリュックサックを降ろして、中をがさがさとあさりました。 「これ、山の頂上で、コンちゃんと一緒に食べようと思っていたのですが、持っていってもらえますか?」加奈子はプラスチックのケースを取り出しました。「中にサンドイッチが入っています」  そのケースは、母の赤いスカーフに包まれていました。 「わかりました」  女性はケースを受け取りました。 「じゃあ、コンちゃん。ここでお別れね」加奈子は子きつねに手を振りました。「元気でね」 「コーン」  コン太は一鳴きしました。 「私が責任持って育てますから、安心して下さい」  女性がお辞儀をしながらいいました。 「はい」加奈子は頷きました。「じゃあ、バイバイ」  加奈子はリュックサックを背負って、踵を返しました。 「貴方も元気でね。また、遊びに来てちょうだい」  女性が加奈子の背中に声を掛けました。加奈子は石畳を下っていきました。途中立ち止まって振り返ると、白いもやの中、先程の女性と手をつないだ男の子の姿がありました。加奈子はあふれ出る涙を手で拭って、再び目を凝らしてみました。二人の後ろ姿は、白いもやで消えてしまっていました。 “バイバイ、加奈ちゃん”  音が、加奈子の耳に届きました。それは、コン太の声だったかも知れません。 「私、コンちゃんのこと忘れないからね」  加奈子はそのまま山を下りていきました。 XX月XX日  草原に潜む影がありました。両耳を左右に動かして、周囲の気配をうかがっていました。影の前を横切る野ねずみがいました。影は躍り出て、飛び掛かりました。野ねずみの体を前足で押さえ付け、コン太の牙がその首根っこに刺さりました。 「やったね」  そばにいたサチがいいました。コン太は目を細めて、姉のきつねを見ました。 「さあ、家に帰ろうか」  サチが先頭を歩き出しました。巣穴にたどり着くと、子きつね二匹が外で出迎えてくれました。 「今日は、コン太が独りで狩りをしたんだよ」  サチが弟妹の子きつねにいいました。 「すごいね、お兄ちゃん」  空と花子がコン太の周囲を回りました。野ねずみをくわえたコン太は、先に巣穴に入っていきました。 「さあ、お食べ」  コン太が野ねずみを地面に置いて、子きつね二匹にいいました。子きつね二匹は、我先に食べ始めました。コン太は奥にある寝床で横になりました。 「疲れたのかい?」  サチが聞いてきました。 「平気だよ、まだ大丈夫」  コン太はそう答えました。コン太はふと視線を後ろに向けました。寝床のさらに奥には、赤いスカーフに包まれたプラスチックのケースがありました。 「あの子のことを思っていたのかい?」  サチが聞いてきました。 「うん」  コン太が返事しました。 「人間の子供でも、優しい心を持った者もいるんだね。あんたのことを真剣に思ってくれたんだから」  コン太は口をつぐんでいました。 「私が禁止していた、人間に変化する練習をしてもいいよ」  サチがそっといいました。コン太はサチを見つめました。 「あの子に会わなくて、寂しいだろう」  サチがいいました。 「まあ、そんなことは無いけど。でも、いつかはまた会えるよ。それまで気長に待っている」コン太の目は輝いていました。「そう、会おうと思えば、いつでも会えるよ。夢の中でも」 完
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