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(どうして志賀がそんな心配するの?)
「本当か? 本当に何もない?」
純の腕をぎゅっと握ったまま、志賀は真剣な表情で尋ねる。
「大丈夫。心配しなくても、お客様との距離はきちんと取ってるから」
「そ、そうか……そうだよな」
純の腕から手を離し、志賀はそう言ってうつむく。
「じゃ私は、先に戻るから」
出入り口へ1歩踏み出した純の腕を、もう一度志賀が掴む。
「ちょっと待って」
「何? ! もう戻らないと!」
眉間に皺を寄せて強い口調で言う純。だが志賀は気にせず話す。
「あのさ話があるんだけど、今日、仕事が終わったら食事に行かないか?」
「話? 何? 何の話?」
純が聞き返すと、志賀は純の腕から手を離し少し困ったように言う。
「いや、今ここではちょっと。食事でもしながら話そうかと思っているんだけど」
志賀から食事の誘い。入社してすぐの頃は2人でよく食事や飲みに行って、仕事の愚痴や目標など話した事もあった。派閥が出来て2年半、それからは2人で食事や飲みに行く事は無くなり、2人きりで話す事すらなくなっていた。
(2人で話すのも久しぶりなのに、食事に行くなんて……今の私に出来る訳ないでしょ…)
「あぁでも、仕事が終わったら、家に帰って宅建の勉強しないと。私、今年こそは取らないといけないし…」
とっさに思ってもいない事を口にする純。
「あ、そっか。申し込み始まったんだっけ」
「うん。だからごめん、食事は無理」
そう言って志賀の誘いを断り、純は出入り口へ向かう。
「じゃあさ、宅建の試験が終わってからでもいい。時間作って欲しい」
志賀が純のあとを追いかけて来て、必死に訴えるが純は素っ気なく答えた。
「うーん……考えとく…」
純は急ぎ足でエレベーターに向かい、志賀から逃げるようにエレベーターに乗り込む。
「桃井っ」
志賀が追いつきそうになる前に、純はドアを閉め1階へ下りる。
「だって……どうしていいか分かんないよ……何を話したらいいのか、まともに話が出来るか分かんない。怖いよ…」
エレベーターの壁にもたれ、ズルズルと座り込んだ。
本当は久しぶりに志賀と話せて嬉しかった。純の接客をあんな風に思っていてくれた事が嬉しかった。「話がある」と食事に誘ってくれて、断っても諦めずに「時間を作って欲しい」と言ってくれた事が嬉しいのに、素直になれない純。
派閥が出来て後輩達の前で「志賀には負けない」とライバル心を燃やし、強がっていたせいで素直に本心が言えなくなってしまった。いつの間にか志賀との距離はどんどん離れ、深い深い迷路にはまったように自分を見失っている。
志賀に抱いた恋心も胸の奥深くに沈み、今の純の胸にあるのは『ライバル』という想いが大きくなり、針のような棘を周りに張り巡らせ、近づく志賀を傷つけているのだ。
出口の見えない迷路に、純は迷い込んでいた。
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