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まだ少ししか桃色がついていない桜を見ながらあのもう思い出したくなかった記憶を思い出し気持ちが沈んだ。
俺はもうあの日以来将棋を指していない。将棋に触れてもいないし見てもいない。俺のこれまで生きてきた人生の中で最悪と言ってもいい思い出を忘れようとずっと目を背けてきた。
でも、忘れられなかった…
あの日のこと、あの出来事は時間が経っても、将棋に関わらなくても、
まるで服にくっついて離れない花びらのように忘れることができなかった。
忘れたいのに、思い出したくないのに、あの、奨励会での思い出が、この道で浩平と一緒に将棋を指した思い出が、浩平と実力を高めあった日々が忘れさせまいと呪いのように邪魔をしてくる。
なぜ忘れさせてくれないんだ…
もう俺は十分苦しんだはずだ。
あの日の光景は夢の中で何回も何百回も見た。自分勝手に浩平を傷つけた俺に嫌気がさし、自らを傷つけたことも、命を捨てようと思ったことさえあった。
もう辛いんだ…
許してくれよ…
その考えに答えるようにまだ桃色に染まり切っていない桜の花びらが何枚か散り、俺の頭の上に優しく積み重なる。それはまるで優しく神の教えを説く、牧師のように温かかった。
何か大切なことを思い出したかのように突然と俺はかつて、ポケット将棋
と奨励会を退会した時にもらった駒など将棋関係のものを全て置いたあの
机に向けて歩いた。
そこには何年か前と変わらずに置かれていた。将棋関係の物が丁寧に置かれていた。
俺は将棋関係の物はほとんどここに置いているが、唯一手から離せないものが
あった。
俺にとって浩平との思い出は悲しい、苦しい思い出でもあるし、楽しい思い出でもある。捨てたくない、忘れたくない、その気持ちが忘れようとするたびにこみ上げてくる。邪魔しないでくれよと思っても、絶対に忘れられなかった。
それを捨てるということは将棋界だけではなく浩平との思い出とも決別するということを意味する。それだけは絶対に嫌だった。
でも、もうあのことは忘れて前を向きたい、楽になりたい、
気づいたら、思い出への未練と捨てたい気持ちで心がぐちゃぐちゃになって上手く考えられなくなった。でも、俺の心はこの道にもう決まっていた。
耐えきれなくなった瞼から激しく涙を流しながら、急いで一枚の写真を取り出した。迷ったら、捨てられなかっただろうから、浩平のことを思い出してしまうから…
その大切な、今までの将棋界での、奨励会での思い出を、浩平との思い出を全て詰め込んだ思い出の玉手箱のような、写真を、俺の昔、宝物にしていたような写真をおもむろに机に投げ捨て、涙を流しながら、逃げるように立ち去った……
あいつは、浩平は許してくれるだろう。記憶から逃げることを、思い出を捨てることを、そう思い込まないと捨てられなかったから……
あの桜はもう見えない、もう見ることもないだろう。
もうこの道には来ないから、この思い出の詰まった道とは決別するから…。
桜は別れを告げるように悲しく、けれど感謝するように花吹雪を作った…。
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