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対局が終わり、足早に対局室から出て、勝敗を伝えに行く。ただそれだけの、何十年もやってきたことなのに勝ったことの興奮からか、とてつもなく手が熱くなっていることを感じる。汗もまだ収まらない、冷静になろうと他の人の勝敗も見ると、浩平の星に黒がついていた……。
奨励会で他の人の勝敗なんて気にする余裕はない、しかもここは鬼の住む魔境とまで言われる三段リーグ、他人なんてこれまではどうでもよかったがこれは違う。ずっと一緒に将棋を指してきた俺の唯一無二の友達、ライバルだ。
一緒にプロになろうとも約束した………。
それなのに……
しかも浩平の最終局の相手は俺、俺が勝っても、あいつが勝っても、12勝4敗で並んでいたもう一人が勝っているため、どちらにしてもどっちかしかプロになる可能性はない。
「俺があいつに引導を……」
渡さないといけないのかと休憩スペースで思っていると、あいつの顔が少し見えた。暗く、今にも自殺してしまいそうなひどい表情だった。もしも俺が勝ってしまったら、会館の上から飛び降りるかもしれない。
『俺が負ければ……あいつはプロになれるかもしれない。』
プロを目指すものとしてわざと負けるという考えてはいけないことを考えてしまった自分を殴りたくなった。
『どうせどっちかしかなれないんだったらせめて圧勝して引導を渡してやる』
そう決意して俺は対局室へと向かった………
将棋盤の前に座ると、もうすでに浩平はいた。おそらくこれでどちらが勝ってももう二人で将棋を指すことはないだろう。
せめて、気持ちよくやめさせてやる……
「では、定刻になりましたので、始めてください」
泣いても笑ってもこれで終わりの三段リーグ最終局が始まった。
俺はさっきと同じように飛車先の歩を☗2六歩と強く打ち付けた。
対する浩平は俺と同じく飛車先の歩を☖8四歩とついた。
その後は俺が飛車で横歩を取る横歩取りの展開になった。しばらく展開が動かず静かな展開が続いたが、68手目浩平が歩を打ってくることで展開が動いた。浩平は華麗なダンスのように歩を前に突き出して攻めてくる。対する俺はしっかりと堅実に受け流す、しかし浩平は歩だけではなく2枚の銀桂、飛車、角も総動員して攻めてきた。俺はその姿が何か焦っているように見えた。
確かに攻めは途切れなさそうだし、こちらが悪くなるかもしれない。でもいつもの、浩平の将棋じゃない。俺は浩平の攻めをまるでキャッチボールをするかのように軽く受ける。浩平の将棋は速攻で攻め潰すような将棋じゃない。
どちらかというと受け将棋の気風で、確実に受けて隙があれば針の穴ほどの小さいものでも決して見逃さず確実に攻め潰す。それが浩平の、俺のあこがれた将棋だ。それが今はなんだ。とにかく攻めて攻めて攻めまくる相手のミスが前提となっている相手をなめているとしか感じられない将棋。本当に殴りたくなるような情けない将棋だ。
俺はこんな将棋をもうこいつに指させたくない。早く勝負を決めてこいつを解放してあげよう。
すでに浩平のただがむしゃらな攻めは切れていた。浩平はもう俺の王を攻めることはできない。しかし俺には、攻めを受け続けたことによって大量の持ち駒
がある。もう引導を渡してやろうとその豊富な持ち駒の一つを敵陣に打ち込もうとするが………
駒台から手が動かなかった……。
『なんでなんだ、俺はもう覚悟を決めたはずだろう。引導を渡してやるって、
こいつを将棋の道から突き落としてやるって…』
頭では分かっていた。俺が圧倒的有利なことも、この駒を打ち込めば勝てるということも、そしてこれに勝てばプロになれるということも…
でも、体が動かなかった…
勝ちたいのに指せない、引導を渡したいのに渡せない、指そうと、終わりにしようとするとあの時の、小学生のころ一緒に会館でお互いに高めあい、切磋琢磨していた時の思い出が蘇り躊躇してしまう。
もう何時間考えている? 早く指さないと時間切れで負けてしまう。早く指さないと…
その時俺の頭に霹靂のように何年か前の記憶が思い起こされた…
『俺たち、絶対にプロになろうな! 2人で!』
なんでこんな時にこいつの言葉を思い出してしまうんだ。
こいつは俺が潰す。将棋界からリタイヤさせる。そう決めたのに、どうして俺の脳はこんなに俺を躊躇させるんだ!」
「やっぱお前つえーなー 次は絶対勝つからな」
やめろ…
「お前と一緒なら絶対俺たちプロになれるよな!」
やめてくれ…
「もっと対局しようぜ!」
「やめてくれよ!」 気づいたら声に出して叫んでいた。しかしそれに気を取られるものはいない。三段リーグ最終日、最終局。文字通り人生がかかっている場所にいる彼らは他人なんて気にする余裕がないのだ。彼らは常に緊張し、将棋のことばかり考えている。将棋に熱中できないものに、緊張できないものに将棋のプロ棋士を目指す資格などないのだから……
集中しないと、勝たないと、彼の頭にはもう将棋のことは存在していなかった。プロ棋士という夢、浩平という親友を蹴落としたくない気持ち、勝ちたいという気持ち。彼の心の中はこれらの感情がぐちゃぐちゃに入り混じり、何も考えることはできなかった。
『俺が……やらないと…」
気づいたら俺の目からは駒台にまだ手を置いたまま涙が出てきていた。目からにじみ出た涙が畳の上に落ちる。そのごくごく普通のことに少しでも意識をうつしてしまうほどもう将棋のことは何も考えていなかった。
もう無理だよ、俺にお前を殺すことなんてできないんだよ。
助けてくれよ、解放させてくれよ、楽にさせてくれよ、
気づいたら俺の残り時間は無くなり、もうすでに一分将棋になっていた。
俺のプロへの道がどんどん崩れかけているのを感じられた。残り五十秒、四十五秒と減っていく。しかし彼の心はもう、立ち直ることができなかった…
『早く手を動かさないと、指さないと、負けてしまう。早く…
俺しかできないんだ。こいつを将棋から解放してやるのは…』
残り四十秒……
『もう駒をあそこに打ち込めさえすれば勝てるんだ。ただそれだけで、ずっと追いかけてきた夢がかなうんだ。早く指せ! 今まで支えてくれたみんなに報いるためにも…』
残り三十秒……
『倒してやる、殺してやる、絶対に勝つ… 絶対に!
俺には将棋しかないんだ。ずっと将棋だけしてきた。その努力を、その時間
を、これまでの人生を、全て無駄にするつもりなのか…!』
残り二十秒……
『俺から将棋を奪ったら何が残る? 何も残らない、青春も時間も、全てを将
棋に費やしてきたんだ。せっかく夢が手に届いているのになぜ指さないん
だ!』
残り十秒……
『もう無理だよ、こいつを蹴落とすなんて、だってこいつは、全てを捨てた俺
についてきてくれた唯一の友達なんだから…決別なんてできないよ…』
時計の針は無情にも一針、一秒ずつ止まらずに進んでいった。
時計は俺たちの決別を告げるかのように無感情な音を鳴らした。
結局、俺は駒を敵陣に打ち込むことができなかった…
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