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桜が少し咲き始めたころ、そのほのかにピンク色に染まった道を見ていると
あの頃を思い出す。
第65回奨励会三段リーグ戦、最終日
俺はあの時重大な過ちを犯し、自分自身も、あいつも傷つけてしまったんだ。
3月11日、
奨励会はこの日、まるで厳粛な式典の真っ最中なのかと錯覚させるくらい静かで、ピリピリとしていた。一人一人の足音が、お茶をすする音が、コップをテーブルに置く音が、普段の日常生活で聞きたくなくてもどうしても聞いてしまうような音のすべてが雑音に聞こえる。
まさにここは現実の場所じゃない、さながら異空間のようにも思えるほど現実離れしているような場所だった。
しかし、それも仕方ないだろう。三段リーグ最終戦、プロ棋士になれる数少ないチャンス、比喩なし、誇張なしでこれからの人生そのものがこの日で絶望にも、いい方向にも変わる可能性がある日。そんな日に緊張できないなど、例え
どれだけ将棋の才能があったとしてもプロ棋士になんてなる資格はない。
というより、俺たちがどんな手を使ってでも引きずりおろすだろう。
特におれは年齢制限ぎりぎりの26歳、きょう勝たなければ、プロへの道は
ほとんど閉ざされるといっていいだろう。幸いにも俺は12勝4敗と上位争い
に食らいついている。今日一回でも勝ちさえすればプロになれる。
俺は自然と力が入り、気づけばずっとお守りのように大切にしていた思い出の詰まった写真をすごい力で握りしめていた。
これだけ緊張していたらまともに考えることもできないと思った俺は自販機で缶コーヒーを買ってから対局に向かうことにした。
ゆっくりと頭で今日の対局の構想を練りながら自販機に向かう。財布から小銭を取り出し慣れた手つきで自販機のスイッチを押そうとすると、
「あっ!」
誰かが俺と同じところに手を伸ばしてきた。少し驚いて思わず声が出てしまった。手の伸びてきた方を見ると、
俺と同じ年齢、同じ戦績でプロを争う昔からの、小学生からのライバル、
青木浩平が目に映った。
何か話そうとしても声が出てこなかった。こいつも俺と同じく今日プロになれなかったら年齢制限で奨励会をやめなければならない。そのことを考えると話す内容は何一つ出てこなかった。
「………——————」
2人の間を静かなで気まずい空気が支配した。俺は全く動けなかったし喋れなかった、さっき入った奨励会よりもピリピリし、一歩も動くことも許されない軍隊の訓練のように体がこわばった。
浩平は一言も話さずに俺の隣を過ぎ去り、対局へと向かっていった。
そのあとの一人俺が残された空間には、敵意と殺気が残されているような気がした。
俺も会館に戻り、対局室へと向かう。俺の心臓は血がはち切れそうなくらい震えていた。現在12勝4敗で3人が並んでいる。その中で直接対決が2局あるので2連勝すればほぼ確定だ。いやもう俺はそれしか見えない。何としてでも2連勝しなければ、俺の夢のためにも、これまで支えてくれたみんなのためにも
「では、定刻になりましたので対局を始めてください」
その合図を皮切りに部屋中に挨拶の声が響いた。
俺はプロへの思い、相手への敵意をすべて載せて初手☗2六歩と盤上に駒を
打ち付けた。相手もそれに負けじと同じく飛車先の歩をついてきた。
ここは奨励会なのだ。半端な覚悟じゃ殺られる。文字通り殺す気で、相手の人生を終わらせるつもりでそのあとも指し続けた。
何手か進んだころ、14手目で相手の飛車先の歩が俺の角頭を刀で細切れにするかのような勢いでぶつかってきた。それに負けじと☗同歩と取り、
相手も☖同飛と取り返してきた。まるで殺意と殺意がぶつかっているような気もするほどに敵意を感じるくらい強く打ち付けてきた。
「勝つのは、俺だ……!」
そう考えながら金を軽く持ち上げ、☗77金と角道をふさぐように打ち付け飛車にあてた。少し珍しく、形が悪いような気がするがそれでもこちらの方がいいと判断した。そうすると、相手も俺が飛車先交換をした後☖33金と角の道をふさぐように俺の飛車にあててきた。まさに力業、このような盤面は少ないため、互いの力量だけがものをいう乱戦になるような気がして、少し怖気ついたが、俺は負けじと銀を前に出して攻める。しかし相手も上手く、俺の攻めをいなしつつ、飛車を俺の守りの金に当ててカウンターまで決めてきた。
『まずい…攻めすぎた…。』
俺は心の中でこう思った。これを受けきらなければ一気に潰される。
そう考えると俺の額から汗がさっきまでより多く、滝のように噴き出してきた。汗で服が濡れる、必死に受けてもどんどんと攻めてくる、まるで鬼神を相手にしているようだった。無我夢中で相手の攻めから抜け出すことを考えて、
必死に汗の多く噴き出している手を動かした。
そうしていると、流れが変わった気がした。さっきから希望と敵意しか感じなかった相手からほんのり絶望の空気を感じた。
相手の攻めが切れた。この機を逃さず俺は一気に反転攻勢に出た。
本当に相手を殺しそうな勢いで飛車を突き出し、歩を盤上に叩きつけた。
相手のことは考えず、相手が死にそうな顔になっても決して攻撃の手を緩めなかった。
そして170手目……
「………負けっ……っました。
相手は絶望にもう一回絶望を重ねたような顔で投了した。
俺はプロの切符に一歩近づき、相手はその道から転落した。
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