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不在着信に気がついたのは、もう夕方だった。
それから何度目のため息だろう。
番号の末尾を見た瞬間に、名前がなくても誰からの電話だったのかがわかった。
『えっ、まじ。これ、櫂の誕生日じゃん』
嬉しそうな声を上げた尊の笑顔は、まだ鮮やかに僕の記憶に残っている。
『0504』
彼の携帯の番号はその数字で終わっている。そして、5月4日は僕の誕生日だ。
アドレスは消しても、記憶から名前は消せなかった。
僕たちは高校の同級生で、いつでも一緒だった。
気が合って楽しくて、3年間同じ時間を過ごした。
でも、卒業式のあとに─
『…おまえ、東京行くんだって?』
尊がぽつんと言った。
僕は尊に呼ばれて、がらんとした教室に戻ってきた。僕たちは窓際の彼の席を挟んで、向かい合って座っていた。窓の外を眺めると同級生たちがはしゃいだり、抱き合って別れを惜しんでいるのが見えた。
『うん』
『寂しくなるな』
『これきりって訳じゃないし、寂しくなったら尊が遊びに来れば』
『…おまえは、寂しくないのか』
彼の瞳が僕をじっと見つめていた。
何だか責められてるみたいだ。
そう思うのは、僕に後ろめたさがあるからだ。東京の大学を受けることを、彼には話さなかった。
『そりゃ、寂しいよ。いつも隣にいたからね』
でも、言った通り、会おうと思えばいつだって会えるじゃないか。この時の僕はそう思っていた。
そうだよ
「友達」なんだから
『おまえの方から離れてくなんて、思ってなかった』
『何だよ、急に。僕がいなくたって、彼女と仲良くやればいいじゃん』
僕は気まずさを振り切るように、わざと明るい声を出した。尊は拗ねたようにうつ向いた。
『俺は…、おまえとずっと一緒にいたかったよ』
本当は僕も地元の大学を受けるはずだった。僕だって彼の近くにいたかった。
『そっか。ありがと』
これ以上話しても、余計に別れるのがつらくなりそうで、僕は立ち上がった。
『じゃ、元気でね』
『待てよ』
尊が僕の腕を掴んで、僕はその場から動けなくなった。触れた指先から彼の感情が伝わってくる。
『…なに。離して』
声が震えそうになるのを必死に隠して、僕は小さな声で抵抗した。僕より背の高い尊はしびれを切らしたように、僕を引き寄せて腕の中に包み込んだ。
『尊…、何してんの。離してよ…』
『俺から逃げるつもりなのか』
絞り出すような彼の囁きに、僕の鼓動は速くなった。彼に触れている指先さえ脈打っている。こんなに大きな音がしたら、彼に気づかれてしまうと思ったくらいだった。
『…逃げるって、何で』
『とぼけんなよ。わかってるくせに』
彼は焦れたようにそう言うと、僕にキスをした。
突然の成り行きと彼の唇の熱さに僕は声も出せず、ただそのキスを受け止めるだけだった。
『…っ』
必死で振り払おうとしたけど、体がうまく動かない。
それどころか自分の体も熱くなり、彼の腕にこのまま体を預けてしまいたくなる。
ふたりの熱に僕は怖くなって、彼を押し返した。
『や…っ、たけ、る…』
唇がやっと離れ呼吸を整えていると、彼が僕の両肩を掴んで体を壁に押し付けた。
『逃げるな』
僕は行き場を失って壁に張りついた。
春風にカーテンが翻り、僕たちを眩しい光から隠してくれた。彼の熱いキスに、今度こそ僕は抗えずに、膝の力が抜けていくのを感じた。
彼の制服の腕にすがりつくようにして、僕は床に座り込んでしまった。彼も僕を支えながら膝をついた。
『…何で、こんなこと』
やっとのことでそう言った。
『友達なら、失くさないと、思ったのに…』
『…もう、無理だよ。おまえだって、そうだろ』
『それでもっ』
僕は彼を遮るように大声を出した。
『友達のままなら、何も変わらずに今までどおり過ごせたのに』
『何も変わらないって、何だよ』
彼の口調は怒っているようにも、傷ついているようにも聞こえた。
『本当にそう思ってるのか。おまえの気持ちに、俺が気づかないとでも思ってるのかよ』
『…気づいて欲しくなんか、なかったよ』
『櫂。俺は…』
『でなきゃ、とっくに伝えてたよっ』
彼への想いを自分自身がもて余していた。
怖かった。
普通の恋愛が出来ないのも、自分が彼を好きなのも。
彼が僕に優しく応えてくれるのも。
早く彼から逃げ出したかった。
距離をおけば、少しは冷静に考える時間が出来るだろうし、想いを募らせたとしても、そばにいなければ暴走することもない。
そう、こんなふうに。
彼にそうさせてしまったのは自分だ。
恋人のいる親友を好きになり、隠しきれない気持ちに気づかせてしまった。
『俺、おまえのこと、好きだよ…』
カーテンのはためく音にかき消されそうになりながらも、彼の最後の言葉は僕に届き、まだ耳の奥に残っている。
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