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02 バーチャル症候群
「それでは、お名前と生年月日と年齢。あと通っている学校とクラスも教えてください」
「私は藤宮真子です。七月四日生まれで、十四歳です。伊河市立中央中学校の三年二組です」
真子は目を覚ました病室で、医師からの質問に答えていた。
白衣の左胸につけられたネームプレートには、木戸という名前が書かれていた。
目を覚ました場所は伊河総合病院。市内でも有数の大きな病院だった。病室には女性の看護師・横峰と医師の木戸、駆け付けてきた自分の母親(美由)がいた。
時間が経つにつれて真子の身体は動かせるようになり、声も出せるようになった。意識もはっきりしてきた。体調が回復したので、簡単な検査や診断を受けていたのだ。
木戸は眼鏡をかけており、鼻下の髭に白い毛が混じっている中年の男性だった。電子情報端末機に使うタッチペンの先を、自分の額にコンコンと当てながら質問してきた。横峰はその質問と答えを自分の電子情報端末機に入力していった。
「ふむ。では、好きな食べ物は?」
「えーと‥‥宝来軒のラーメンです」
「そうですか。お母さん?」
木戸は真子の後ろに立っている美由に顔を向けて、確認した。
「ええ、そうですよ。この子はあそこのラーメンが大好きなんです」
美由が笑顔で答えると木戸はまた真子に顔を向ける。
「その宝来軒というラーメン屋さんは、どこにありますか?」
「伊河駅から歩いて十分くらいのところです」
「そのラーメン屋さんの近くに、何か目立つものがありますか?」
「えーと、そうですね。隣に二階建ての駐車場があります。いつもそこに車を停めてから、食べに行っています」
木戸は、また確認するように美由の方に顔を向けると、「はい、その通りです」と答えた。
「ふむ‥‥。簡単な診断ですが、意識も記憶もしっかりしているし、脳に異常はなさそうですね。でも‥‥本当に覚えていないんですか?」
「はい‥‥。なんで私、ここにいるんですか?」
真子は自分の名前や年齢など、自分が誰なのかも母親の顔もわかっていた。でも、なぜ自分がこの病院の病室で寝ていたのか記憶がまったくなくて、わからなかった。
「えっと‥‥もう三日前のことですね」
木戸は今度は横峰に目をやった。
横峰は「はい、そうです」と頷きながら、自分の電子情報端末機を操作して、木戸に代わって話し始めた。
「藤宮真子さんがこちらに運ばれたのは、三日前の六月三日です。その日の午後九時二十三分にお母さんの美由さんから緊急通報がありました。緊急隊員が駆け付けたところ、真子さんは大量出血して意識を失っていました。すぐに緊急搬送されて、そのまま緊急入院となりました」
横峰が淡々と語る内容に真子は衝撃を受けた。
「大量出血? 私が、ですか!?」
思わず声を上げてしまった。
すると母親が、そっと真子の肩に手を置いて話を続けた。
「そうよ、真子ちゃん。あの時、お風呂に入りなさいと言おうとして、アナタの部屋に行ったら、血を出して倒れていてのを見つけたのよ。お母さん、本当に驚いたんだから。もうパニックだったのよ」
「な、なんで血を出していたの? 私?」
「それは‥‥」
真子の問いに美由が少し困った顔を浮かべた。真実を言うのに何か戸惑っているように見える。
真子は自分の身体を確かめるが、どこにも傷らしきところや痛みは感じない。そんな真子の動作に対して、木戸の口が開く。
「ああ、大丈夫だよ。真子さんの身体には何も怪我はしてなくて、傷ひとつも付いてないから」
「それじゃ、何で大量出血したの?」
誰が真実を話すべきかとお互いが黙り込み、室内にわずかな沈黙が訪れた。やはりここは、主治医である木戸が言うべきだという雰囲気が醸し出されていた。
木戸は仕方ないと観念したように答えた。
「結論から言えば、鼻血だよ」
「えっ‥‥?」
「藤宮さんは、鼻血を出して倒れていたんだよ」
あまりにもダサく情けない理由に、横峰や美由がクスっと笑ってしまった。
「えぇぇぇぇえっっっ! は、鼻血って‥‥?」
花も恥じらいはしないが真子だって一応女の子。恥ずかしさを打ち消すように大声を出してしまった。それに、さっきまでの神妙な空気はなんだったのかと、怒りもプラスされていた。
「まぁまぁ。鼻血でも大量に出してしまうと、貧血で倒れてしまうことはあるから」
木戸は軽く笑いながら話したが、すぐに真顔になった。
「ただ‥‥。今回、藤宮さんは鼻血を出す直前まで、ご自身のパーソナルデバイスでネットをしていたんだよね。お母さん?」
「はい、そうですけど‥‥。それが何か?」
「今回の件で一番危惧したのは鼻血による貧血ではなくて“バーチャル症候群”の方なんだ」
【バーチャル症候群】
現在のコンピューター(電子情報端末機‥パーソナルデバイス)を長時間使用していると、めまいや吐き気の体調不良になったり、突然意識を喪失したり、記憶障害や精神に異常をきたすなどの症状が起こる。
最悪の場合、突然死してしまうほどの実例もある。近年、この症候群を発症する人が増え続いており、大きな社会問題になっていた。
元々は長時間バーチャルゲームをプレイしていた人たちによく見られていた症状だったが、調べていく中でゲームは関係なく、前述(コンピューターの長時間使用者)であることが判明している。しかし、症状名に変更はなかった。
美由はバーチャル症候群に関しては様々なニュースで取り上げられていたので、その危険性を十分に把握しており、真子には電子情報端末機の使用を控えるように注意していたのだが、現代っ子たちにとっては肌身離さずな生活必需品。暇があれば、四六時中操作してしまっているのである。
木戸の話す内容やバーチャル症候群の症例を発した真子に、美由の心に不安が一杯に募り、たまらず尋ねる。
「それで先生。真子は大丈夫なんですよね?」
「ええ。検査の結果や今の診断を見ても、問題のあるところは見当たりません。確かに、意識喪失や記憶障害はあったようですが、ハキハキと答えられているし、意識もはっきりしているみたいですし‥‥。それに藤宮さんは夢を見ていたそうですから心配ないと思います」
「夢を?」
母親が来る前に診断の事前質問があり、質問内容の一つに『寝ている間に夢を見たか?』という項目があった。
真子はあの真っ白な夢‥‥猫に会ったという夢を見たことを記述していた。
木戸は説明を続ける。
「バーチャル症候群を発症してしまった人たちの特徴として、夢を全く見なくなるんですよ。しかし藤宮さんは夢を見た、と言っているので、その疑いはほぼないと見てもいいでしょう」
バーチャル症候群の判断に関して、そんなものがあるのかと初耳だったが美由は胸を撫で下ろした。
「ただ、鼻血を出して倒れた時の記憶が無いことや、三日間意識不明の昏睡だったのは、気になりますね。念のために精密検査をやっておきますか?」
真子は面倒そうな顔を浮かべたが、折角なのと万が一に備えて、美由は「はい、お願いします」と、お願いしたのであった。
木戸は自分の腕時計で現在の時間を確認する。年季が入っており、古めかしさを感じさせる針がある腕時計だ。時計の針は午後七時過ぎを指していた。
「それじゃ、横峰君。MRIとかの使用予約を入れておいて。明日の空いている時間にでも検査しましょうか」
「はい、分かりました」
そう言われて、横峰はすぐに自身の電子情報端末機で使用予約を入れる。診断も区切りついたところで木戸が尋ねる。
「さてと、藤宮さん。何か質問とかあるかな?」
「え~と‥‥」
ここが何処なのか? どうしてここに居るのか? 自分は大丈夫なのか?
と、真子が疑問だったのはほとんど解消していた。 なので、「何も無い」と言おうとした時、ふと“あの事”が頭に浮かんだ。
「そういえば。ここって、猫とか飼っているんですか?」
「「猫?」」
木戸と横峰、美由までもが一斉に声をあげた。
「私が目を覚ました時に、お腹辺りに猫がいたんですよ‥‥」
真子の突飛な質問に、木戸は顎に手を置きながら答える。
「いや、ここは病院だからね。流石に猫は飼ってはいないよ‥‥。そういえば、藤宮さんは猫が出てきたという夢を見たんだっけ?」
「あ、はい」
「となると、現実的に考えると寝ぼけていたんじゃないかな。意識がハッキリしないうちに、夢と現実が混ざってしまったんだろう」
確かに木戸の言葉には一理あり、真子も「やっぱり、そうだったのかな」と納得してしまう。
それと真子には、もう一つ気になった点があった。
先ほどから横峰が電子情報端末機を操作する度に、変な振動が身体に伝わってくるのである。ただそれは猫の幻と同様で気のせいかなと思い、あえて訊きはしなかった。それに三日ぶりに起きたからなのか身体は重くだるく感じており、ここらで切り上げて欲しいとも思っていた。
本日はここまでで終了したのであった。
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