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苦しくない呼吸。痛みのない身体。見える景色は穏やかな青空と、見知った顔。
「……死んでない?」
「やぁ、おはよう。アーロン」
穏やかな声と微笑む顔に、エルフの顔の良さを再認識させられる。
「なんで、君がここにいるんだ。リーファ」
痛む身体は人間の形のまま。魔力酔いをしているかのように意識が安定しないのも不可解だ。
「ずいぶん前に蒔いた種が芽を出していたから、現状確認に来たんだ」
「……?」
リーファの言葉の意味がわからず首を傾げると、彼は楽しそうに微笑んだ。アーロンたちがいる場所の上には、雲の少ない青空。視線を少し変えるとイカスミのように黒い雲が大地から生じているように見えた。
「君が倒れていたのは、瘴気が一番濃い所だった。あと少し見つけるのが遅かったら、瘴気酔いから瘴気中毒を起こしていただろう。人魚や海の種族は特に瘴気に弱いと聞いたことがあるから気をつけること。瘴気酔いをしていたのなら、方向感覚を失うことがあるらしいから、海とは逆方向にきてしまったのも頷けるよ」
立ち昇る瘴気にゾッとする。最後の記憶のまま気絶していたら、リーファの言うとおり最悪、命はなかっただろう。
「なぁ、君が言う〝ずいぶん前に蒔いた種〟っていうのはなんだ? 人間だけじゃなく人魚にも被害が出ている。聞いた話では、五千年前にあった被害よりも多い。笑い事じゃないんだぞ」
「それだよ。本来、約五千年前に突如広まった黒い死を招く病のとき、産まれるはずだった種が〝今〟芽を出した。それが不思議でたまらなくて、思わず人間の住む場所まで来てしまったんだ」
人魚よりも長い時間を生きるエルフにとって少し前、人魚にしたら産まれて間もないころの話だ。
「どういうことだ」
「数年前、魔法属の人間のなかに小さな異端が誕生した。その子どもは親を知らず、人買に連れられたころからの記憶しかなく、食事よりも水を欲し、きれいな空気を求める子どもと聞いてどう思う?」
「……生き方がエルフに似ている、気がするがそれが、ずいぶん前に蒔いた種とどう関係するんだ」
唸るように問いかければ、リーファは昔話を子どもに聞かせるように話しはじめた。
「実はね。以前、人間はエルフの子どもを産めるのかという実験をしたエルフがいた。彼は、病を患い人里から離れて暮らしていた人間の男性と関係を持ったそうだ。通常ならばエルフの魔力量が膨大なので、受け入れた人間は死ぬが、その人間は死ななかった」
「人間は、男でも孕むのか?」
エルフや他の種族のなかには、性別関係なく孕むことのできるモノがいると聞いたことはある。
「通常は孕めないはずだが、彼が男性の身体を弄って孕めるようにしたのだろうと推測するよ。魔法とは、法則さえ守れば願いを叶えることができるのだから」
胎内を弄るという高度な技術をもって、成し得たものか。元々、男の身体に特異性があったのか。どちらかはわからないが、男は子を孕み、産み落とした。
「なぜ人間は、種族の関係を、住まう場所の環境を破壊しながら、この世界で生きていけるのかと考えたことはあるかい?」
声と表情を裏切る冷たい瞳のリーファの視線が見つめるのは、人間が住む土地。アーロンに向ける瞳は、以前会った時と同じ優しい瞳だ。
「この世界が、排除しようとしないからか、なにか人間に魔力以外の特異性があるのか……」
なぜ、と問われると答えに困るが、この世界は意志があるのか、世界に必要か否かを判断して種族を滅亡させるように動いている気がする。今回、人間のなかで流行している病も選別のひとつだ。
「私は、排除しようとしてるのではないかと思っているよ」
ゴポリ、ゴポリと海底から気泡があふれでるような耳障りな音がだんだんと大きくなる。
「病だけで、〝人魚の呪い〟だけで、ここまでの瘴気ができるわけがない」
地鳴りのような音と共に、地響きが起こった。海底にヒビが生じるときのような衝撃と音に驚いてリーファにしがみつく。
「あぁ、瘴気が広がるね」
奈落への入り口のような地面の裂目から勢いよく吹き上がる瘴気が、今まで青だった空を黒く染めていく。命の輝きは消え失せ、ねっとりとした空気に風はない。
「きもちわるい」
率直な感想だった。まとわりつくような空気が肌から体内に入ってくるような感覚。皮膚を剥いで綺麗な水で洗いたい。体内を侵される感覚だ。
「これは、少し困ったなぁ」
全く困っていなさそうな声が、魔法呪文を紡ぐと、リーファとアーロンの前に目に見えない障壁のようなモノが出現した。
「死した人間の黒い血から生じた瘴気で、他のモノたちに被害が出るのは違うからね。それに、さっさと終わってもらわないと困る」
「え?」
じわじわと瘴気を食い止めた障壁は小さくなっていき、円柱状になった結界のなかにある瘴気の濃度を示すように色が濃く濁っていく状態に、アーロンは驚きリーファを仰ぎ見る。
「〝始まりのひとり〟は、もう産まれているから、不要なモノはさっさと消えてもらわないと」
「〝始まりのひとり〟?」
「エルフの秘境へ、ひとりで来た少年だよ」
驚きで洩れた声は言葉にならずに消えた。エルフ以外のモノが、行こうと思って気軽にたどり着ける場所ではない。
「今回の病の流行は、おそらく最終選別。この少年以外に生き残るモノがどれだけいるのだろうねぇ」
「……エルフの言葉はまるで神託のようだと聞いたことがあるが、本当にそのようだな」
黒と青。
空がきれいに分かれている光景は畏怖と神秘的な印象を持たせ、リーファの言葉だけが重く肚に落ちる。
「神託があるなら、私も聞いてみたいな。この世界に降り注ぐ福音はどれも自然の聲でしかない。エルフは自然を愛し、畏怖する。おそらく、エルフは神というモノを信じないと思うんだ。だって、本当に神がいるならば、私たちは他の種族の生きざまを最期まで見届ける必要などないのだから」
生きる種族のなかで、おそらく一番長い寿命を持つモノだからこその言葉の重みは、人魚のアーロンにはわからない。ただ、どこかへ消えてしまいそうな表情をするリーファの傍に居たいと思った。
「……エルフは樹木や海、大気の肚から産まれるから、寿命が長いって本当?」
「長いとは思う。それでもこの世界から見れば、瞬きひとつにも満たないかもしれないがね」
クルル、とアーロンの喉が鳴る。
「おや、魔力が足りなかったかい?」
リーファは流れるように自然にキスをした。
アーロンは、舌を絡め魔力を極めて効率的に譲渡されていることに驚いた。互いの相性次第で魔力の譲渡量は変動することを考えると、二人はとても相性がいいということになる。
「おや、トマトのように真っ赤だねぇ。実は、君への魔力の譲渡は二回目だ。しばらくは海に戻れないから、同じ方法で魔力を補填することになる。瘴気が肺に残っていては人魚に戻るときに、エラ呼吸へ移行できないと思うよ」
「同胞を、できるだけはやく故郷に返したい」
アーロンの腕の中に収まる袋を一瞥して、リーファは微笑んだ。
「エルフには、腕のいい薬師がいる。この穢れの浄化を確認してからだが、薬師の元へ行けば一日、二日で治るだろう。もう少しだけお付き合い願いたいな」
「……わかった」
不承不承返事をする。生きて海に帰れるのなら、陸の見学をしてもいいかもしれないと思う。
「〝始まりのひとり〟への教育も必要だし、できればアーロンが海へ帰ってからも力を借りたいと思っているんだけど……迷惑かな?」
「……俺でよければ」
いまだ立ち上がれないアーロンの視線に近づくため、膝をついたリーファに、流石エルフ、どれだけ近づいても離れても、どの角度から見ても、悔しいほどに顔がすこぶるいいと思う。この男を自分のモノにしたいという気持ちに、アーロンが気づくのはもう少し後の話だ。
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