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魔術師や、魔女が住む街に名前はなく、親を亡くした子どもは家族というものを知らないまま育っていく。
街を覆う空気は、雨が降る前の埃っぽい湿気った臭いにまざる黒い死人の臭いが充満している。
エステル王国の片隅、海に程近い小さな街で、なんとか生き延びた少年は井戸から水を汲み、ぼろ布を洗う。洗っても取れない赤茶けた染みで模様ができたぼろ布でも、無いよりはマシだ。
「今日は、生きれた。明日は、わからないな」
黒い死を招く病は悪魔のように、人々の心の隙間から忍び込み大人も子供もなくその命を刈り取っていく。
雇って貰っている屋敷に戻れば、大人たちは大きな身体を小さくして悪魔から身を隠すように病人の世話をし、書斎や寝室に隠れているのが常だが、今日はなんだか、落ち着きなく動いている。
「あの、メイド長」
「あら、戻ったのね。まだ食事の時間じゃないからなにもないけど……」
大人たちは、そわそわとしていて少年と視線が合わないが、元々孤児の下働きに視線を合わせてくれるような人はいない。
「いえ、そうじゃなくて。今日、なにか特別なことがあるんですか?」
「え、あぁ。あんたは聞いてないのね。今日、人魚が捕れたから街中を練り歩いて、薬にするんだって。一目でも見れたら病から身を隠せそうだねって言ってたんだけど仕事してるから難しいわねぇ」
海で捕れる、人魚。
生憎、少年はいまだその姿を見たことはない。
「そうなんですか」
「あんたは、どうせまた井戸まで行くんだからどこかで見れるかもしれないね」
そんな話をしていれば、また木桶にいっぱいのぼろ布を渡される。重さでよろつきながら井戸まで歩く道のりは代わり映えのしない景色だ。
「海の魔獣……」
魔術師や、魔女が住む街に名前はなく、大人も子供も、皆平等に個人を識別する名前を持たず、基本的には役職や階級、髪や肌の色で識別される。
古くは、魔力のない人間が大半を占めていたというが、ある日魔力を持った子どもが産まれ、数を増やすなかで、魔力のない人間の地位は下がっていった。
「森の獣たちでも個を識別するための名前を持つのに、この街は、人間は、おかしいのだろうか」
少年は精霊や魔獣たちと意思の疎通ができる能力を持ち、文字や言葉遣いがわからない時から森や山の状態、風の向き、海の動きを理解していた。
「魔法を習うには、金が必要だからな」
魔法を習うのは王族、貴族、裕福な市民など、金を勉学につぎ込める人たちばかり。唯一家柄や金の力を借りずに学べる方法は、保有魔力量が多いこと。魔力操作ができずに街を破壊しないようにという願いが込められていると聞いたのは誰からだったかと、考えながら無心で洗濯をする少年の耳に、波の音が聞こえた。
「……波の音?」
押し寄せては引いていく。一重に、二重に、重なって音が大きくなっては、小さくなる。
今、少年がいる井戸から、海は遠く波の音が聞こえるはずはない場所なのにと不思議に思い、波の音がする方へと歩いていくと井戸のある広場から少し離れた大通りに、多くの人が集まりなにかを待っていた。
「人魚様がいらっしゃる」
嗄れた声が言った。
「あぁ、これで病から身を隠せる」
女が言った。
「街中を練り歩いてから王の元へ献上されるのか」
「少しでも下々に恵みがありゃいいけどな」
若い働き盛りの男たちが言う。
少年の耳には、人間の声ではない歌聲が、押し寄せては引いていく波の音と共に、耳に、頭のなかに、響鳴する。
雷鳴が轟く夜のように荒々しい波の音のなかで、なにも考えられずに海へと誘い込まれそうな美しい歌聲が近づいてくる感覚に少年は畏怖する。
「……っ」
この聲は、ただの歌ではない、聴いてはいけないものだ、近づくなと、本能が叫ぶ。ガタガタと身体が震え、呼吸が浅く乱れ、頭のなかに響く波の音が最高潮に達して気を失いそうになった瞬間、目の前にいた人々が神に祈りを捧げるように膝をつく。
王族の馬車の上には、大きな甕に入れられた男がいた。服を着ていない身体は彫刻のように美しく、緋色の長い髪、翡翠色の瞳を持っている男は、少年を見つけて嗤った。
――死にたくなければ、エルフを探せ。
頭が、身体が破裂しそうなほどの音は静まり、耳の奥、脳のなかで気泡が弾けるように聲が少年に響く。脂汗が吹き出し、冷えきって動きが鈍い身体でどうにか視線を人魚へと向けた。
「え?」
漏れる吐息に混ざる声に、人魚は笑みを深める。少年が人魚の言葉を理解したことに満足そうに笑みを浮かべ、双方が見合う間にも、王族の馬車は歩みを進めていく。
――達者でな。
翡翠の瞳に慈愛のような感情が揺らりと見えた気がして、少年は驚きが隠せない。
古くから人魚は、言葉が通じず、笑わず、美しい歌声とその美貌をもって、ほかの種族を魅了するモノと聞いていた。
今のように妙薬としての使われ方をし始めたのはつい最近だったはずだ、とまで考えて少年はぞっとした。
自分は、いつ、誰に、今の情報を聞いたのか思い出せない。なぜ知っているのかわからない恐怖が身体を凍りつかせる。
「……、せんたく、しよう。そう、まだ途中だった」
知らないはずの記憶を、日常のなかで思い出す。その違和感のなかった行為。今なぜか違和感に気がついた底知れない恐ろしさを忘れるため、形だけでも日常へと戻ることにした。
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