The World March.

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 曇天の空は低く、今にも雷雨が降りそうな表情をしている。少年は運良く荷台を引く馬車に乗せてもらえ、山の近くまで来ることができた。 「ぼうず、気をつけろよ。この黒屍の山の近くに来たんだ。穢れを溜め込んだとしても恨むなよ」 「はい、おじさんもお気をつけて」  黒屍と呼ばれる、流行により皮膚が黒く変色した遺体を大きな穴へ放り込んでは埋める仕事をする男に礼を言って歩きだす。目の前に見えていても遠い。  山には多くの精霊や魔獣たちが住み、流行り病の根元とされる瘴気が溢れているとされていた。 「……街から外れた方が、空気がきれいだ」  大きな穴に遺体を埋めていた付近が一番視界が悪かった気がする。  木の匂い、湿って養分の多い土の匂い。風の匂い。  初めて感じる感覚は少年を驚かせ好奇心を刺激した。初めて触るモノや、初めて見るモノを観察しながら歩くため目的地へは程遠い。  ひときわ大きな木の下で、休憩をとろうと腰かければ、魔法属の人間が珍しいのか、木々の隙間から覗く、好奇心の強い小型の魔獣の視線が集まって落ち着かない。 「攻撃魔法は使ったことがないから、できれば言葉が通じる魔獣に出会うといいな」  日が暮れるのを眺め、今日寝る場所を確保しなければいけないことを思い出した。 「落ち葉はないけど、毛布と焚き火があればどうにかなるかな……」  悩みながらも、精霊たちへお願いをして炎を夜の間絶やさずに灯してもらう。風が思ったより冷たいが、身体を小さくしていればやり過ごせるだろうと思いながら目をとじる。普段よりよく動いた身体は、泥のような睡魔に呑まれていった。  誰かの話し声。  木漏れ日のようにキラキラしているのにとても落ち着いている声は男性で、熱心に声をかけているのが夢ではなく、現実だと理解した瞬間、少年は文字通り飛び起きた。 「申し訳ございません! 寝過ごしてしま……だ、れ?」  目の前にいたのは、屋敷でも街でも見かけたことのないほど容姿の整った男。 「あぁ、よかった。やっと起きたね。気分は悪くない? 君、空から落ちてきたんだけど」 「はい?」  人間が空から落ちてくるときは、飛行魔法の失敗か、箒魔法で落ちたときだけのはず。自分の記憶が正しければ地面に寝ていたはずなのに、なぜ空から落ちるという事態になってしまっているのか理解できない。 「うーんと、君もしかしてここら辺のモノじゃない? 珍しい気配だし、この樹を使えたんだからエルフか、ドワーフの血が流れていると思ったんだけど」 「いや、普通に人間のはずですが……」  ドワーフは森に入る人から、時折見かけることがあると聞くが、エルフは人里に近づくことはない。  エルフといえば鋭く尖った特徴的な耳、金色にも見える瞳、美しい容姿。永遠とも思える長い寿命を持つ、神に近い存在。どちらにせよ、血を引き継いでいるとしたらもう少しマシな顔や能力を持っていそうなものだと思う。 「私はエルフのリーファ。君の名前を聞いてもいいかな?」 「え、あ、ぼくの名前は、ありません。魔法属の人間は役職や、街、通りの名前で区別されるだけで、個人の名前は与えられないんです」  リーファの瞳が大きく見開いて、ゆるりと細められる。一連の表情に少年は呼吸を忘れそうになった。 「そう、君は魔法属の人間なのか。珍しいモノに会う機会に恵まれているなぁ」 「珍しいモノ、ですか」 「うん、でも一番珍しいのは君さ。いやぁ、本当に魔法属の人間たちは、個人の名前を使わなくなっているんだね」  本物に会えるのはいい経験だと、嬉しそうに笑うリーファに長年の疑問をぶつけた。 「なぜ、人間は名前を捨てたのでしょうか」 「人間は繰り返す。その答えは、きっと判ると思う」  ゾッとするほど冷たい視線が物語るのは、魔法属の人間が培った歴史の重さなのだろうか。 「ところで、君さ。なんでドワーフたちが使う転移魔法が使えたんだい?」  リーファの言葉に、頭のなかが疑問符で埋め尽くされる。 「ドワーフの使う転移魔法? も、飛行魔法も、奴隷上がりには使えません!」 「転移魔法は、ただの合言葉だよ。この樹は、ドワーフが住んでいる山の知くの樹と対になっていて、そこで合言葉を言うとこの樹の近くに転移するように創ってある。ドワーフの言葉が話せれば出来る簡単な魔法だよ」  「ドワーフにも会ったことはないです……。人魚なら、街で見かけましたけど」  捕らわれた人魚を見かけたから、人魚の言葉に耳を傾けたから、魔法生物の言葉がわかる能力を持っているから――エルフを探せ、という言葉に追いたてられるように仕事場を辞してまで探したエルフが、今目の前にいる。 「……そう、人魚を魔法属の人間が捕らえているのか」  わずかに低くなったリーファの声に警戒しながら、リーファの言葉を待った。 「うん、うん。君、私と一緒においで」 「え?」 「魔法属の人間がどうこうなろうと知ったことではないけれど、エルフは困っているモノを無視できないんだよ」  ウインクをして話を進めるリーファに、少年は目を白黒させる。 「え、え? でもエルフは、魔法属の人間に会わないようにしていたのでは……?」 「あっは、会う必要のない存在の近くまで出向く必要はない。けれど君と私は出会ってしまった。ただそれだけの理由だよ」  曇りない笑顔の言葉に、生きている次元が違うのだと理解した。
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