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瘴気は黒い霧となり、人々を侵しすため、屋根の下、暖炉の灰のなか、窓の外に隠れては、小悪魔のように人間に悪戯をするのだろう。
紙面に踊る文字を整列させながら魔法属の人間は情報を得る。裏が透けそうなほど薄い紙に多くの情報を載せるのは難しいため、病が流行し始めてからはもっぱら魔法を使用したモノになった。
「……農民や市民に妙薬が届くことはあるのだろうか」
「今日は大きな人魚が捕まったと聞いたぞ」
「どうせ、王族や貴族たちが奪っていくんだ」
「俺たちには鱗一枚回ってこないさ」
諦めと恨みの混じった言葉が人々の心に積もっていく。溜まり溜まった心の闇は病の付け入る隙を作ることを知らないのだ。
「成体の人魚が捕まった!」
「大きい」
「美しい」
「これで王国も安泰だ」
人魚を密漁していた男たちが、疲れきった声で喜びと願いを口にする。
「王の元へ連れていかなきゃな」
「そうだ、そうだ。ここで拝んでいても意味がねぇ。早く王様のお抱え医師様に、この人魚を捌いて貰って心臓を、肉を、その血の一滴まで有効に使わせてもらわなきゃならん」
馬が引く台車に大きな魔法石をそのまま乗せて歩きだす。
いつもなら捕獲用の魔法石から人魚を出し、大きな龜にいれて練り歩くが、それができるのは幼児体の人魚のみ。成体の人魚は成人男性よりも大きく、使用できる魔法は計り知れないため、王族直下の魔道士がいない場所では外に出すことはしない。
「早く、早く行かねぇと……」
風の音に潜む呪いを受け、その身を病の恐怖に沈め、海から山の上にある王族の屋敷まで人魚を捕らえ、往復する。十分な食事もままならない男たちの身体も心の悲鳴を上げ、呻き、苦しみながらも届けた報酬は、数切れの固いパンだけだ。
人間たちは見誤っていた。
人魚は自分で陸から逃げることはできず、歌うだけだと思っていた。
「さぁ、この人魚の命を神に捧げましょう」
王国屈指の魔道士たちが揃った場所ならば、人魚の魔法は抑え込めることができるとおもっていた。この一瞬、捕らえていた魔法石から出した人魚の尾びれが魔道士を叩き伏せ、勢いを殺さないまま医者も叩き伏せる。少し離れた場所で監視をしていた魔道士たちを歌で眠らせ、この騒動が気づかれないように、認識阻害魔法を部屋に掛けた。
――野蛮なモノどもだ。
歌うような聲は美しく、怒りを隠さない。
成体の人魚ーーアーロンは自分の失態と、人間の狡猾さに憤りながらも、自分の置かれている状況を整理するため部屋をぐるりと見回す。石壁の前に棚があり、陳列されているのは亡骸というには美しい状態の人魚の頭部。今にも目をあけて、微笑みかけてきそうな状態を保っている。
――サンディ、フィナ、コーラン……あぁ、あぁ、そんな姿になっても〝生きて〟いるのか。〝人魚の呪い〟の発動条件は、同胞の目の前で殺されることだという。あなた達もそうだということなんだな。
怒りで身体が熱せられたように皮膚がピリピリし、皮膚の下で気泡が立ち上る感覚がする。陸の魔法は肌に合わない。海の魔法ほど美しくもなく、野蛮で鮫の歯のように皮膚に小さく鋭利な刃物が無数に食い込むような感覚、その全てが不愉快になる。
――海水もない、陸の上では人魚は無駄に死ぬだけだ。尾びれを一対の足に。姿を魔法属の人間へ変化する。
大気中の水分で身体を保護しつつ、擬人化魔法を無理やりかけて、尾びれを足へと変え、ヒレ呼吸を肺呼吸に切り替える。魔法とはいえ、身体の構造から作り替えるため激痛だ。
「ぁ、あー、あー。たぶん大丈夫だろう」
節々の痛みを無視してアーロンは、倒れた男から服を剥ぎ取り、なんとか着ることに成功した。
「うぅ、まとわりつく感覚が気持ち悪い。なぜ人間はこんなものを着ているんだ」
肌に触れる布の感覚が気持ち悪く、何度か腕を擦って気分だけでも紛らわせる。動物の皮を鞣して紐で結んだだけの靴は、履き方が理解できず諦めた。
「同胞よ、せめてその首だけでも海へ帰ろう」
近くに転がっていた男の黒い服を剥ぎ取り、拡張呪文を掛けてから袋状にしたモノのなかに丁寧に同胞の首を仕舞った。肉体は無理でも、その魂は海に戻れるように祈りながら最後のひとりの首を袋に入れて、ぎこちない動きでアーロンは立ち上がった。
「さて、逃げるか」
実際、慣れない足で逃げるのは難しい。できれば、箒などの飛行魔術を使いたいが海のなかでは無縁な術式のため試みたことがなく、土壇場で使うには不安が大きい。
「人魚は度胸! 空間転移魔法じゃなければ身体はバラバラにはならないが、この部屋には箒はない……」
さすがに身体ひとつで飛ぶ度胸はないが、早くこの場を離れなければいけないのも事実。掴まり立ちをしている身体は、直立する感覚をなんとなく理解してきたところだ。
「歩く、か」
走り方がわからないにせよ、歩くことはできそうだと判断して、そろりそろりと足を交互に前進させる。この間会ったエルフのリーファの歩き方を思い出しながら重心を動かし、足の動きをできる限り真似る。
「……あ、るけるっ」
おぼつかないが、しっかりとアーロンの足は床の上を歩けるようになった。
早く逃げなければと焦って転び、また転び。白い肌に傷ができ赤い血が重力に従って下に流れることに驚きながらも歩みを進めていく。
部屋から出たところにいた男たちは、気絶魔法で眠らせ、異変に気づいた人間たちにはよい夢を見せる歌を聞かせた。今頃、傷口や尻から体内に入り込んだ魚が、肉体を喰らう激痛と恐怖の幻覚を見ているころだろう。
「んんん、海の方向がわからない……」
黒い霧は方向感覚を狂わせているのか、海とは逆方向へアーロンはひたすら歩く。歩いていれば、街の人間に会うかもしれないと覚悟していたが、出会わない。むしろ、人の気配すら希薄な街に首を傾げる。
「なに、ここ。気持ち悪い」
あるはずの気配がないだけで、ここまでの違和感があるのかと思いながら、段々と木が生い茂る場所まで歩みを進めれば、普段と違う使い方をしている足は悲鳴を上げ、ついには力が入らず、その場に崩れ落ちた。
「……っ、まだ、人間に追いつかれない場所まで逃げなきゃ」
自身を鼓舞し、小石や枝で傷つきボロボロになった足を、再び引きずるように前に出す。痛みよりも熱をもった足を切り離したいと思うほどひどく負傷している。普段ならば治癒魔法で治る傷だが、この街のなかで使うと効果が薄いのか治らない。
「この黒い空のせいか?」
進むほど空は黒くなり、咳が出る。急がなければいけないのに、呼吸よりも咳が止まらず歩みを止めてうずくまってしまう。
「薬なしの擬態魔法は魔力消費多い癖に持続時間少ないんだよなぁ」
疼くのは傷の痛みだけではなく、呼吸が苦しいのも黒い霧のせいだけではない。
「このまま干上がるのか……。人魚の干物なんて笑えないんだけど」
ゴホッと咳が出て、肺からエラ呼吸へ切り替わるのを感じながら、意識が遠くなっていくのがわかる。
「ぁー、陸で死ぬなんて、思ってもみなかった」
呼吸不全のノイズが混じり、骨が元の形へと戻ろうとする痛みすら、自分が生きている証拠なのだと思えば笑えてくる。
「おや、そこで寝転んでいるのはアーロンじゃないかい?」
のんきな声が、聞こえた気がした。
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