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そこは、気軽なトレッキングコースだ。一応舗装はしてあるし、軽装で歩くことができる。
しかし人気はないし、細いアスファルトの坂道の片側は深い森がこんもり茂る山の斜面だし、片側は恐ろしい水音がとどろく渓谷である。
気軽に自然を味わうのに、これほど適した場所はない。
山肌は、時折岩が覗き、ざあざあと清い水が流れ落ちている。ものすごい勢いなので、そのあたりがぞっと寒いほどだった。
良い場所を知った、と喜んでいたが、だいぶ登ったところで「クマ出没注意」という看板があった。その瞬間、あっと声が出てしまった。
クマ鈴を持っていない。
山に登る時は音を立てなくてはならないと聞いている。クマは、人間の存在に気付けば近づいては来ない。だから、なるべく賑やかにして登らねばならないのだ。
クマ鈴がないなら、大声で会話しながら行くのが良い。
しかし、今ここにいるのはわたし一人だ。
(独り言を言い続けるのはキツイ)
山の茂みの奥に黒く大きなものが蠢く気がした。
ぞわっと恐怖が込み上げる。一瞬、即座に下山しようかと思ったが、いやせっかくここまで来たんだから、と、思い直した。
なにも独り言でなくても良いのだ。そうだ、歌を歌いながら登れば良い。それならクマも気づいてくれるだろう。
歌。なんの歌。
わたしは音痴である。カラオケで歌うレパートリーも心細い。しかもこの状況下で、知っている僅かな歌が、全部頭から抜けている。
いや、唱歌ならどうだ。いろいろ習ったではないか、小学校からずっと。
どうせ、誰も聞いていない。大声で歌ってやれば良いのだ。
しかし、口から飛び出したのは、これだった。
「ある日、森の中、くまさんに」
(いやいやいや、これはいけないだろう)
出会ってしまう。呼び寄せてどうする。
わたしは言霊を信じている。悪いことを言えば悪いものを引き寄せるし、良いことを言えば良いものが来る。
だから、クマに出会った歌を歌えば、クマが来る。
しかも、ここはただでさえクマがいる場所だ。
(他の歌・・・・・・)
駄目だ。頭の中には、その曲しか残っていない。どうしてだろう、なぜ今に限って、この歌しかないのだろう。
無理に頑張って思い出した。いろいろな童謡があったではないか、そうだ、例えばこれだ。
「大きな栗の木の下で、くまさんに」
(違う)
どうやら、思考がクマに捕らわれている。
歩きながら冷汗が垂れている。早く。なんでもいいから早く歌わないと、今にもクマに遭遇する。
この際、森でクマに出会う歌でも良いではないか。
言霊が気になるなら、クマではないものに摺り替えれば良いだけだ。
クマとなにを摺り替えよう。
なるべく、呼び寄せてしまっても無害なもの。あるいは、絶対にこんなところで遭遇しないようなもの。
無害かつ、遭遇しなさそうなものを考えたら、職場の山本が頭に浮かんだ。
夜明けの行燈のような男。
ぬうん、ゆらっと出社し、「おはようございます」と、気の抜けたような声であいさつをしてくるアイツ。
人畜無害そのものだ。山本山本と連呼していれば、凶悪なクマなんか寄せ付けないような気がした。
こんな山の奥で、善良な山本氏の名前を連呼するのは気が引けたが、身の安全には変えられない。
わたしは歌った。
「ある日、森の中、山本に、出会った」
残念なことに、次の歌詞と旋律が出てこない。随分飛ばしてラストを歌う。
「すたこらさっさっさのさ、すたこらさっさっさのさ」
渓谷の流れのほうからコダマが戻ってきた。アルヒモリノナカ、ヤマモトニデアッタ。
(しめた。これならクマは寄ってこない)
何でも良い。大声で歌い続けるのが大事だ。
それでわたしは、何十回も繰り返したのだ。山本に出会い、すたこら逃げる歌を。
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