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「…じぃじ、痛い?」
孫のそんな問いに、私は自分が泣いていたことに気付いた。
久しく忘れていた妻の笑顔を思い出した所為だろうが、自分の中に妻を偲ぶ心が残っていたとは驚いた。
妻との出会いは父同士が決めた見合いの席だった。
仕事人間だった私は特に興味がなく、二つ返事で交際を了承して、体裁良くと人並みの結婚式を挙げた。
私に一目惚れしたという健気な妻との新婚生活は悪くなかったが、妻が倒れるまで私はあまりに不器用だった。
だから、忘れていたのかも知れない―――。
あれは丁度、今の時期だった。
当時は新居だった自宅の引っ越し作業を終え、妻と二人で近隣への挨拶用にと菓子折りを買い行った帰り、この道を歩いた。
同じような木漏れ日の中、他愛も無い話をしながら、川底を泳ぐ魚が見たいと言う妻が、川に落ちないようにと支えながら―――、新婚らしくと初めて手を繋いだ。
そうして、不意に現れた青い宝石は美しい声を響かせた。
ほんの一瞬だった。
流れ星のように過ぎ去った刹那の光景に、妻が見せた無邪気な微笑み。
あの飛び切りの笑顔は、容易く私の心を揺さぶった。
―――何故、今の今まで忘れていたのか。
あの瞬間、私も妻に恋をしたのに。
間もなく授かった娘の為、カートン単位で吸っていた煙草もあっさり止められたのに。
その誕生を涙するほど喜んだのに。
親バカと言われるほど毎年、娘の誕生日には大きなケーキを買い、クリスマスには言われるままに好きな玩具を買って、長期休みになれば日々の感謝を込めて、妻と娘を楽しませようと何処までも車を走らせてあちこち旅行に出掛けたのに―――。
何故、こんなに沢山の輝かしい思い出を忘れていたのか。
何故、こんなにも大切だった妻のことを忘れることなど出来たのか。
大切だった妻の忘れ形見を―――、最愛の娘を守り切ってやらなかったのか。
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