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晩餐の後、マリー=アンジュを部屋に送り届ければ一日の仕事は終わりだ。今日も無事終えたと勇んで部屋に帰ろうとしたらマリー=アンジュの父、フェルディナンドの騎士に呼び止められた。フェルディナンドが呼んでいるという。
これまで呼び出されたことはないが、心当たりならありすぎるレオンハルトは動揺を隠せなかった。かれこれ一年近くレオンハルトの振る舞いを黙認してきたのは彼で、わがまま姫のわがままを悪化させたのも彼だ。だが、相手は雇い主で、レオンハルトはしがない雇われ騎士だ。それも新人。
意気揚々と家を出たのにもう戻ることになるのだろうか。心の中で父と兄に詫びてフェルディナンドの部屋を訪ねる。
「レオンハルト・シュバルツです。お召しに従い参上いたしました」
「入りたまえ」
重々しい声に彼は扉を開ける。
「君を呼んだのは娘の様子を知りたくてね。ずいぶん頑張ってくれているそうじゃないか」
クビという話ではなさそうだと判断してレオンハルトは口を開く。聞くのではなく、見に来いと出かかった言葉を飲み込む。
「私はできる限りのことをさせていただいているまでです。姫様は日々努力を重ねられ、クラヴザンや刺繍に関しましては申し上げることもないほどです。余暇の時間に関しましては差し出がましいかとは思いましたが、庭の散策にお連れいたしております。花や小鳥といった自然にも目を向けられ健やかにご成長なさっています」
「結構結構。レオンハルト、娘のわがままをどう思うかね?」
どう伝えるか迷ったが、はっきり伝えてしまった方が彼女のためだ。
「手に負えないと思うようなこともございますが、それは父君や母君からかえりみられずに寂しいといったご様子を感じることも多くございます。御多忙とは思いますが、時折お時間を取られることは不可能でしょうか? 姫様がクラヴザンで一曲弾かれるのを聞かれるだけでも心持が変わられると思うのです」
深いため息を吐いたフェルディナンドが目を伏せた。言い過ぎただろうか。やっぱりクビになるかもしれない。だが、言ったことに後悔はなかった。
「君の言う通りだ。猫かわいがりするだけが親の仕事ではない。妻とも話し合って、近いうちに時間を取る」
レオンハルトはほっとして目を伏せる。ちゃんと伝わったようだ。
「君がよくやってくれているからと甘えてしまうのはよくないね。マリー=アンジュも君にずいぶんと懐いているようじゃないか」
あれだけ遊んで懐かれていなかったらよっぽどだとぼんやり思う。
「恐れ入ります」
「話は変わるが、君は一度も長期の休暇を取っていないそうだね?」
突然の話に彼はどきりとする。
「はい」
「シュバルツ男爵家は遠方だ。帰っていないのかい?」
「手紙のやり取りはしています」
「手紙だけではわからないこともあるだろう。娘に気兼ねして長期休暇を取っていないのではないかと心配になってね」
まとまった休みを取らない理由の一つではないとは言えない。だが、彼は何とはなしに帰りたくなかった。兄が結婚して居づらいから、姉たちがいないから、祖母も出て行ってしまったから。理由ならいくらでも並べられるが理解が得られそうなものはない。
「姫様は関係ありません。帰る理由がないだけです」
「理由など必要ないだろう。君はまだ若い。親御さんも心配するのではないか?」
まさかここまで食い下がられるとは思わなかった。地位の高い従業員の一人とはいえ、赤の他人である彼にそんな心配をする暇があったら娘をかまってやってくれと彼は思う。
「私は次男の厄介ですから、一人で生きていれば心配はされません」
家を継ぐのは長男ただ一人。二人目以降はスペアでしかない。兄にも男の子が生まれた今、レオンハルトは完全なる厄介だ。下級貴族の次男以降の宿命を負いながら、彼が騎士としてエレオノーラ家に仕官できているのはかなりの幸運だ。そのことにやっと思い至ったのかフェルディナンドは気まずそうに目をそらした。
「立ち入ったことを言ってすまない」
「いえ」
「そのリボンは娘が?」
「はい」
見えていないとばかり思っていたが、一応見てはいたようだ。朝、広間に入る時点では結び目が曲がっていて落ちそうになっていることもある。それにいくら女顔で線の細い彼であってもかわいらしいピンクのリボンがそんなところに結ばれているのは不自然だった。
「本当に君がお気に入りなんだね」
フェルディナンドはくすくす笑って、髪に結ばれたリボンに触れる。
「今の結び目は君が直しているのだろうけど、朝はマリー=アンジュが結んだものだね?」
「はい」
「君が教えてくれたのか?」
「いいえ。小間使いのエマが教えていました」
「エマが。ふむ」
エマはマリー=アンジュのお気に入りの小間使いだ。
「君はずっと髪を伸ばしているが邪魔じゃないのかね?」
来た当初から長い髪はますます長くなり、腰を過ぎるほどだ。マリー=アンジュに結ばれる一房以外すべて下ろしているからなおさら長く見えるのだろう。
「気になりません。昔からずっと伸ばしていますから」
髪を伸ばしているのは理由があったが、話す必要はない。
「そうか。長く引きとめてすまなかったね」
「いえ、失礼します」
頭を下げて彼の部屋を辞す。結局、何の話をしたかったのかわからなかったが、職を失う心配はなさそうだ。レオンハルトは部屋に戻ってベッドに倒れこむ。やっと一日が終わった。
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