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翌日、レオンハルトはゆっくりと起き出して朝食をもらい、敷地内にあったひと際立派な木に登った。高原地帯で涼しいが、夏だから青葉がしっかり茂っている。ここならわがまま姫に見つかる心配もないだろう。風が心地いい。
彼は幹に寄りかかって本を開く。誰にも邪魔されない静かな時間を過ごし、ふうと息をつく。本は読み終えてしまったし、木の上にいるのも疲れてきた。馬に乗ろうと決める。
昨日の今日で疲れているだろうからヴァイスを近くの丘陵で自由にさせてやるのもいいかもしれない。厩舎には馬車馬が半分しかいなかった。どこかに出かけたのだろう。馬番にどこに行った確認する。当然逆の方向に向かうためだ。
レオンハルトはヴァイスに鞍を乗せ、外に引き出す。ヴァイスは嬉しそうに長いたてがみを振り立てた。
「帰ったらまたブラッシングをしてあげようね」
愛馬に跨り、首をぽんぽんと撫でる。
「ヴァイス、あっちの丘に行こう」
馬首をぶるりと振ったヴァイスは気ままに走り出す。彼は鞭を持ち、ブーツには拍車が付いているが使ったことはない。そんなものを使わなくてもヴァイスは彼の言葉を理解しているかのように動いてくれる。そのせいかほかの誰が乗っても動かず、駄馬だとバカにされることもあった。けれど、彼にとっては最高の名馬だ。
丘につくとヴァイスは当然のように草を食み始めた。彼はすぐに降りて、鞍とくつわを外す
「好きなだけ遊んでおいで」
のんびりと草を食むヴァイスを見ながらレオンハルトは空を見上げる。抜けるような青空にもくもくと積乱雲が立ち上っている。マリー=アンジュはこの空を見て喜んだだろうかと考えて頭を振る。せっかくの休暇なのになにを考えているのだろう。旅費自体はエレオノーラ家で持ってくれているのだからタダで旅行できているようなものだというのに。
毎日ずっと一緒にいるからどうしたって考えてしまう。それだけだ。予定外に長い休暇を与えられたからなおさらかもしれない。草地にごろりと寝転んだ彼は指先から小さな炎を次々飛ばす。小さな炎は瞬いてはすぐに消えていく。そうしていくつもいくつも炎を飛ばすと少しだけ気が楽になった。
レオンハルトはふうとため息を吐く。明日は近くの市にでも行ってみようと思う。せっかくの休暇なのだ。
見つからないように三日ほど過ごしたが、そろそろすることも尽きてきた。田舎町だから市も小さい。
あまり考えずに廊下に出たらマリー=アンジュがいた。彼が出てくるのを待っていたのだろう。声をかけなかったのはエドモントになにか言われたからかもしれない。
「おはようございます、姫様。こんなところでどうかされたのですか?」
少女はひどく遠慮がちにリボンを結びたいと言ってきた。ただのいたずらだと思っていたが、彼女にとって特別であるらしい。跪いて髪にリボンを結ばせるとマリー=アンジュはうれしそうににっこりと笑った。これだけのために来たのだろうか。そう思いながら立ち上がると、手をきゅっと握られた。
「あの、あのね、レオンハルト、あなたがお休みなのはわかっているんだけど、今日は湖に行くの。もしよかったら一緒に行かない? その、ね、あなたがいないと寂しいの」
その言葉にレオンハルトはふと笑う。いつもこれくらい素直に話してくれるといいのだが。
「そうですねぇ、私は休暇中ですし、ご迷惑になってもいけません」
マリー=アンジュは明らかにしょんぼりした顔をして手を離した。
「でも、ヴァイスが勝手に行ってしまうかもしれませんね」
少女の顔がぱっと華やぐ。
「きっとよ」
「はい」
わがまま姫は走って去って行った。彼はぐっと伸びをして結ばれたリボンをついと撫でる。かわいらしい主人に思われているのは悪くない。今日は偶然と湖の方に向かうことにしよう。
昼下がりに彼らが出かけて行ったのを確認してレオンハルトはゆっくりと馬の支度を始める。偶然を装うには程よいタイミングで湖に着いた。彼らは優雅に舟遊びをしていた。
彼に気付いたマリー=アンジュが身を乗り出して手を振った。彼はふと笑って手を振り返す。こんなに喜んでくれるなら来てよかった。そう思った瞬間、手を滑らせたマリー=アンジュが湖に落ちた。
「姫様!」
考えるより先に身体が動いた。すぐさま湖に飛び込み、マリー=アンジュに向かって泳ぐ。家族は船に乗ったままうろたえるばかりで、船頭が手を差し出しているが、届きそうにない。レオンハルトは必死に泳ぎ、水を吸ったドレスのせいで沈みかけていた少女を船に押し上げる。
「マリー=アンジュ!」
ゴホゴホとせき込んで水を吐いたが、心配はなさそうだ。ほっと息をついた彼は突如として沈み始めた。
「レオンハルト?」
何かに引っ張られるように体が沈んでいく。もがくこともできない。
流れのない水には絶対に入ってはいけないと祖母に言われたのを今更のように思い出す。彼は火の力を持つがゆえに水と相性が悪い。流れる水や風呂程度であれば問題なかったが、湖はダメだったようだ。
ここで死ぬのかとぼんやり思う。息はまだそれほど苦しくないのにどんどん力が抜けていく。船はもうずいぶんと小さく見える。両親どころか祖母よりも先に逝くことを申し訳なく思ったが、仕方がない。諦めかけたその時、どこからかあたたかさを感じて身体が動いた。そのあたたかさはマリー=アンジュが結んでくれたリボンから感じる。
「ああ、あなたも……」
声にならないあぶくが口から漏れた。彼はリボンを握り締める。力が戻って来た。彼はゆっくりと浮上する。水面を突き破ると涙で顔をぐしゃぐしゃにしたマリー=アンジュが必死に手を伸ばしていた。彼女を家族が必死に抑えている。彼を追って飛び込もうとしたのかもしれない。
「ご心配をおかけしました、姫様」
小さな手を握って声をかけると、小さな姫はますます泣き出した。
「私の、私のせいで、ごめんっ、なさい」
「大丈夫、大丈夫ですよ。船に上がってもいいですか?」
船頭とフェルディナンドが彼を船に引き上げてくれた。彼が沈んだのは短時間だったようだが、幼い少女がショックを受けるには十分な時間だったのだろう。
彼は突然沈んだ理由をマリー=アンジュを助けたらほっとして力が抜けたと説明したが、信じられていないようだった。沈み方が不自然だったせいだろう。彼はもがくこともなく、真っ直ぐに沈んで行った。それを力が抜けただけだと説明して理解されないのも当然ではある。だが、追及はされなかった。
夏とはいえ高原の湖は冷たく、彼は船が岸に着く頃には震えが止まらなくなった。どうにか自力で別荘には帰りついたが、そのまま高熱を出して寝込んでしまった。到底状況の確認などしている場合ではなかった。湖とは想像以上に相性が悪かったらしい。
高熱にうなされる彼の額に小さくて柔らかい何かが触れた。目を開けてみたが、高熱にうるんだ目ではそこにいるのが誰かわからなかった。ふいに髪を一房取ってリボンを結ばれた。
「姫様?」
「早く良くなってね」
額に口づけを落とされ、それがマリー=アンジュだと確信した。だが、彼は眠気と体の重さに抗うことができなかった。
与えられた休暇の残りは一週間近くあったのに、すべてベッドの上で過ごすことになり、レオンハルトは残念に思った。だが、マリー=アンジュが自分と同様に力を持つのだと知れたことがうれしい。なんとなくずっと感じていた孤独が薄れたような気がする。
マリー=アンジュのリボンが助けになったのは彼女が水の力を持っているからなのだろう。彼の火の力とは相性が悪いとも言えなくはないが、補完し合うことができるともいえる。少女との出会いは運命だったのだろうか。
「レオンハルト、本当にもう大丈夫?」
出発直前、心配そうに問われて彼はふと笑う。
「はい、もうすっかり。姫様のおまじないのおかげです」
「おまじないなんてしてないわ」
「リボンを結びに来られたではありませんか」
彼女は顔を真っ赤にした。気付かれていないと思っていたらしい。
「べ、別にそんなつもりじゃないわ! 元気なら抱っこしなさい!」
「はい」
彼が寝込んでいる間、マリー=アンジュは心配で何度も部屋を覗いていたのだという。それにわがままも言わずに大人しくしていたのだとフェルディナンドが教えてくれた。
「レオンハルト、ずっとそばにいなさい」
「はい」
その高慢な物言いさえかわいく思えるようになってしまったのは少し困るレオンハルトだった。
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