*諜報員・璃子くん*

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「隣の県から越して来ました。早乙女(さおとめ)璃子(りこ)です。三年間、よろしくお願いいたします」  四月の教室に温かな拍手が響いた。長い黒髪がさらりと揺れる。僕はスカートに折目がつかないよう、丁寧に席に着いた。  同級生たちの自己紹介に耳を傾けながら、どきどきする胸をおさえる。窓ガラスを見遣ると、頬を染めて(はじ)らう、一人のと目が合った。  こんな恰好をしているが、僕は(れつき)とした男だ。本名は早乙女璃人(りひと)。女学院の機密情報を盗むため、とある企業から送り込まれたのだ。  休み時間、僕は化粧室でチークの手直しをした。  女装はやっぱり恥しい。可愛い制服に身を包むのは、ちっとも慣れそうにない。地毛を伸ばし続けた三年間は、自分がだんだんと女の子になっていくみたいで、鏡を見るたびに赤面した。でも、任務をすっぽかすわけには行かないのだ。高校を卒業するまで、正体を隠し通さなければ。 「璃人くんだよね。久しぶり!」  僕は、メイクブラシをぽとりと落としてしまった。 「ひ、人違いじゃないかな。璃人くんなんて子、私、知らないよ」  涼しい顔を繕い、僕は答えた。彼女が口元を隠してくすくすと笑う。 「誤魔化さないでよ。前の学校で一緒だったよね。璃人くんだって、すぐに分ったよ」  声をかけてきたのは、同じ学級になった姫野(ひめの)美羽(みう)さん。ふんわりとしたミドルヘアの、可愛らしい女の子だ。  中学の同級生を一人々々思い浮べたが、こんな美少女は記憶になかった。一体どこで出会ったんだろう。額に汗が滲む。  動揺する僕を見て、美羽さんが呆れたように溜息をつく。彼女はメイクブラシを拾うと、僕にだけ聴こえるように言った。 「俺だよ、俺。忘れられちゃ困るな」  さっきまでとは打って変った、低い声だった。僕は目を丸くして、彼女の顔を見返した。 「その声は……姫野美輝也(みきや)」  女装を完璧にこなした美輝也が、僕に妖しく微笑んだ。  美輝也とは中学時代、諜報員の養成学校で出会った。卒業後は、僕らのライバル企業に雇われたと聞いている。  彼の髪がふわりと揺れ、シャンプーの甘い香りが鼻をくすぐる。美輝也が僕に壁ドンをかましたのだ。間近に迫る(うるわ)しい瞳に、僕は耳たぶまで熱くしてしまった。  ブラシを僕に握らせると、耳元で、可愛らしい声でささやく。 「あいにくだけど、先に情報を盗むのは私だよ。せいぜい頑張ってね、」  彼が立ち去る。ひとりぼっちになっても、僕の心臓はまだバクバクしていた。
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