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最初に詩織の存在に気付いたのは、五味だった。
「詩織?」
五味の声に反応するように、男三人も詩織の方を見た。
詩織は無言で、男の一人の服を掴んだ。五味の胸ぐらを掴んでいる男とは、別の男。
「あ? 何だ? おま──」
男は、言葉を最後まで言えなかった。
詩織は男の服を思い切り引っ張ると、そのまま路上に転がした。人外の力を持つ詩織。その力で引っ張られた男は、簡単に地面に倒れ、転がった。投げ捨てられたオモチャのように。
目の前で起こったことが理解できないのか、詩織以外の四人は呆然としていた。
五味の胸ぐらを掴んでいる男は、わけが分からない、という顔をしている。そんな彼の腕を、詩織は掴んだ。五味の胸ぐらを掴んでいる手。
「この人を離して」
「あぁ!?」
言われて、男は我に返ったようだ。詩織を睨んできた。
「何言ってんだ? お前」
「離して、って言ってるの」
詩織は、男の腕を掴む手に力を込めた。ミシッという軋む音が、詩織の手に響いた。男の骨が悲鳴を上げる音。
「いっ……痛てぇ! なんなんだ!? お前!?」
痛みに顔を歪めながらも、男は、五味の胸ぐらから手を離さない。惰性で掴んだままなのか、自分の意思で離さないのか。詩織には判断がつかない。判断がつかないから、嫌でも離すように仕向けた。
男の腕を掴む手に、さらに力を込めた。
グシャリ。潰れる感触が、詩織の手に伝わってきた。男の腕の骨が折れた。
「いっ──ひっ……いっ……!?」
男は五味の胸ぐらから手を離し、声にならない悲鳴を上げた。あまりに強い痛みは、声すらも殺す。詩織が手を離すと、男は体を震わせてその場で蹲った。
先ほど路上に転がした男は、尻餅をついた体勢でこちらを見ている。目には、明らかな恐怖。一人だけ無傷の男も、恐怖に濁った目で詩織を見ていた。
怯える男達の前で、詩織は、軽く拳を振って見せた。すぐ近くの電柱に向かって。もちろん全力ではない。思い切り殴ったら、電柱が折れてしまう。
詩織に殴られた電柱には亀裂が入り、破片が地面に落ちた。
普通の人間が電柱を殴ったら、拳の方が壊れる。しかし、吸血鬼の体は、その力に耐えられるように高密度高強度でつくられている。身長が一四九センチしかなく見た目も痩せ型の詩織だが、体重は七十七キログラムもある。
男達を脅すように睨んだ。可能な限り低い声で、詩織は吐き捨てた。
「この場で見たことは全部忘れて、消えて」
「──!」
恐怖で震える男達。
最初に動いたのは、無傷の男だった。脱兎のごとく、という言葉が似合う勢いで逃げ出した。続いて、地面に転がっている男が立ち上がり、逃げ出す。骨折した男は、腕を押さえながら逃げ出した。フラフラとした、おぼつかない足取りだった。
三人の男達が逃げてゆく。その背中が、詩織の視界の中で小さくなってゆく。やがて、完全に見えなくなった。
男達が消えて、住宅街の街灯の下は静寂に包まれた。
詩織は五味に視線を移した。
五味は、目を見開いていた。左頬が腫れている。男に殴られた痕。その痛みすら忘れているかのように、呆然としていた。
詩織は、五味を見つめる目を細めた。彼を助けたいと思った。だから助けた。吸血鬼としての禁忌を犯して。
──人に危害を加えてはいけない。自分の正体を人に明かしてもいけない。
五味と付き合っていたかった。彼の彼女でいたかった。たとえ彼が、どんな人間であったとしても。
でも、自分のことを知られてしまったら、さすがにもう無理だ。
細めた目から、涙が流れてきた。
知ってしまった、人との繋がり。誰かを好きになるということ。誰かと恋人同士になれる喜び。
知らないままなら、寂しいだけだった。でも、知った後に失うのは、寂しくて、悲しい。
「ごめんね、五味君。私、普通じゃないの。黙っててごめんなさい」
五味は、未だに呆然としている。自分の目で見たことが信じられないのだろう。小柄で華奢な詩織が、自分よりも大きな男三人を追い払った。軽く殴っただけなのに、電柱に亀裂が入った。
「私、普通の人間じゃないの。ごめんなさい。騙してたみたいで、ごめんなさい」
男達に吐き捨てた声とは違う、涙声。
「簡単に話すけど、私は、政府の管理下にある生き物なの。自分がこんな生き物だってこと、本当は誰にも言えないの」
少しだけ我に返ったのか、五味は小さく頷いた。詩織の言葉を理解しているという意思表示。
「だから、今見たことは誰にも言わないで。忘れて。五味君が私のことを知ったって政府側にバレたら、私だけじゃなく、五味君まで管理されることになる。自由に生きられなくなる」
「そう……なのか?」
五味の口から出た、消えてしまいそうな音量の声。けれど、その言葉には、彼の意思が乗っていた。ちゃんと頭は働いているようだ。
「うん。監視されて、行動制限されて、たぶん定期的に出頭もさせられることになる。そんなの嫌でしょう? だから、今日見たことは忘れてね」
吸血鬼という存在が一般に知られていないのは、徹底した管理と監視と規律があるから。吸血鬼本人だけではなく、それを知った人間にすら一定の義務を課すから。
吸血鬼の存在を知った人間が政府の課す義務を放棄したら、どうなるか。それは詩織も知らない。義務教育期間の授業でも習わなかった。けれど、ただでは済まないだろう。もしかしたら、口封じのために殺されるのかも知れない。
「秘密にしてくれないと、殺されちゃうかも知れないから。だから、お願いね」
殺されるかも。その言葉に、五味の肩がビクッと震えた。
男達とのやり取りを見て、五味の人間性がよく分かった。自分の欲求を我慢せず、そのせいで誰かを不幸にしても気にしない。そのくせ、自分の保身だけは図ろうとする。
詩織が吸血鬼だということを周囲に話しても、五味には何のメリットもない。自分の生活に制限ができ、最悪の場合は命に関わるというデメリットしかない。
五味が詩織の秘密を漏らす可能性は、ゼロと言っていい。
詩織はじっと、五味を見つめた。初めての恋人。そして、きっと、最初で最後の恋人。
好き。たとえ彼がどんな人間であろうと。彼のために何でもしてあげたいくらい、大好き。
五味の表情が、かすかに動いた。心なしか、口の端が少し上がったように見えた。
「さようなら、五味君」
涙が止まらない。それでも、別れを告げた。五味の彼女でいたかったから、彼を探していたのに。それなのに、彼と会えたから別れることになってしまった。
でも、大好きな人を見捨てることなんて、できなかった。
「たとえ五味君がどんなつもりでも、私は嬉しかった。『可愛い』って言ってくれて、嬉しかった。『好き』って言ってくれて、嬉しかった」
五味が、本心では嘲りながら言っていた言葉だとしても。それでも、嬉しくて幸せな言葉だった。
きびすを返して、詩織は立ち去ろうとした。もう五味と話すことはない。もう二度と、二人きりの時間は戻らない。未練が心に満ちる。ボロボロと涙を流しながら、自分に言い聞かせた。
これでお別れ。忘れられないけど、忘れなきゃいけない。
だが──
「待てよ! 詩織!」
背中に、五味の声が届いた。体が震えて、足が止まった。背後から、足音。肩に触れられた。肩を引かれて、振り向いた。
すぐ側まで来ていた五味と、視線が合った。約二十五センチの身長差。必然的に、詩織は彼の顔を見上げていた。涙で、視界は曇っていた。
「この間は、ひどいこと言ってごめん」
五味の口から出てきたのは、謝罪の言葉だった。本当に申し訳なさそうな声色。女癖が悪いのにモテるだけあって、彼は口が上手い。言葉選びだけじゃなく、声の出し方も。
でも──
先ほどの男達と五味のやり取りを見て、詩織は冷静になっていた。だから、気付いていた。五味の口角が、少し上がっている。
「こんなことを言うのは都合が良すぎるかも知れないけど、俺達、やり直さないか?」
やり直す。つまり、もう一回、五味と付き合える。それは、詩織が切に願ったことだった。彼女でいたい。付き合っていたい。
「でも、私、こんな生き物なんだよ? 普通の人間じゃないんだよ?」
詩織の視界がさらにボヤけた。歪んだ視界でも、五味から目を離さなかった。
目を、離せなかった。
「惚れ直したんだよ。助けて貰って、詩織に惚れ直したんだ。好きなんだ!」
好き。詩織が心から求めている言葉。たとえ嘘でも、心から離れない言葉。何度でも言ってほしい言葉。
「だから頼むよ。もう一回、俺にチャンスをくれよ」
断れるはずがない。だって、もう一回五味と付き合えば、欲しい言葉を何度でも言ってくれるだろうから。知ってしまったこの喜びを、失いたくなかったから。
麻薬のような幸せを、もう一度手にしたい。自分を蝕んでゆく、気持ちいい毒を。
「……はい」
詩織は五味に抱きついた。伝わってくる彼の体温が、心地よくて、幸せだった。
五味の本心はわかっている。冷静になっている。歪んだ視界の中でも、狡猾な彼の笑みは見えていた。詩織の力を都合よく利用しようという気持ちが、透けて見えていた。
それでもいい。私が、この人を好きなんだから。
五味も詩織を抱き締めてくれた。彼の腕の中にスッポリと納まってしまう、小柄な詩織の体。
詩織の耳元で、囁くように五味が言った。
「なあ、教えてくれないか。詩織のこと。俺、もっと詩織のことが知りたくなった。もちろん、誰にも言わないからさ」
五味の腕の中で、小さく詩織は頷いた。好きな人に──自分の彼氏に頼まれたら、断れるはずがない。
詩織は、自分の知りうる限りで吸血鬼のことを教えた。
太陽が苦手なわけではない。十字架やにんにくなんて弱点もない。それでもこの生き物は、吸血鬼と名付けられた。
その所以と力の秘密を──
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