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自宅から豊平高校までの距離は、徒歩で約二十分。
家を出て十五分ほども歩くと、立ち並ぶ住宅の向こうに校舎が見えてくる。
もうすぐ学校に着くというあたりで、陽向は、大きなあくびを一つした。少し眠い。
「何だ? 寝不足か」
「まあね」
「夏休みの間に、夜更かし癖でもついたのか?」
翔太の疑問に、陽向は首を横に振った。
「ううん。違う。私はちゃんと早寝早起き。ただ、夜中に必ず目が覚めるの。ほとんど毎日」
「何でだよ?」
陽向は、隣を歩く翔太の顔を覗き込んだ。
翔太の身長は、確か一六八センチだったか。男にしては小柄だ。陽向は一五五センチ。
翔太を見上げると、陽向は、声のトーンを下げて伝えた。
「うちのお父さんとお母さんが、毎晩おっ始めるから」
「……あ」
陽向の一言で、翔太は察したらしい。
「陽向のおばさんとおじさん、仲いいからなぁ」
「まあね」
「何て言うか、色んな意味でお疲れ」
「本当だよ。抑えてるみたいだけど、聞こえるんだよね。お父さんとお母さんのアノ声」
口にはしないが、ベッドがきしむ音も聞こえる。
「この歳で弟とか妹ができたらどうしよう」
「えっと……まあ、その……頑張れよ、子守り」
「そうならない事を願ってるわ」
溜め息とともに呟く。まあ、仲睦まじいのはいいことなんだけどね。不倫とかで家庭が壊れるよりは、ずっと。
幸せだけど、年頃の娘にとっては複雑でもある。お互いに、お互いのことが大好きな両親。そんな自分の両親を思い出して、陽向は、ふと考えた。翔太のこと。彼の、好きな人。
再び、陽向は翔太の顔を覗き込んだ。口元に、笑みを浮かべた。心から笑っているわけではない。あえて、からかうように彼に聞いてみた。
「そういう翔太は、どうなの? なんか進展あった? 夏休み中に連絡とかしたの?」
「は?」
「詩織に連絡したの?」
翔太の表情が変わった。唇を尖らせるようにして、彼は陽向から目を逸らした。
「するわけねぇだろ」
翔太は、同じクラスの三田詩織に惚れている。陽向よりもさらに小柄で、眼鏡をかけた女の子。教室内で、翔太はいつも彼女のことを見ている。
陽向が翔太の気持ちに気付いたのは、二年になったばかりの頃だった。そのことを指摘すると、翔太は素直に認めた。彼女が好きなんだ、と。一年の頃から、好きだった。
たまに、翔太が詩織について話すことがある。弁当を持ってきているから、校内の売店では買わない。自分で弁当を作っているのかな。クラスメイトである花井美智のジャージが破れたときは、持ち歩いている裁縫セットで修繕してあげていた。家庭的なんだな。
詩織のことを話す翔太は、愛おしそうな、切なそうな目していた。彼の想いの深さを物語るような目。
けれど、翔太の気持ちが成就することはない。少なくとも、今のところは。
「知ってるだろ。三田さん、彼氏がいるんだって。一年のときから付き合ってる」
「……」
奪えばいいのに。そんな言葉が、陽向の口から出かかった。出なかったのは、翔太の表情を見てしまったから。痛々しく歪んだ、彼の表情。見ている陽向の胸まで、苦しくなるような。
詩織の彼氏なんかより、翔太の方がずっといい男だ。親友としての贔屓目抜きで、陽向はそう思っている。
あんな奴と付き合うよりも、翔太と付き合った方が、詩織にとってもはるかにいいはずだ。
そう言いたいはずなのに、なぜか言えなかった。翔太の背中を押そうとして、躊躇って、押せない。どうして押せないのかは、陽向自身にも分らなかった。
会話が途切れた。無言になったまま、学校に着いた。
豊平高校は、正面玄関が三年生専用となっている。校舎の側面玄関が一、二年生専用。
二年生である陽向と翔太は、側面玄関まで足を運んだ。
下駄箱に入っている上靴に履き替える。外靴を靴箱に入れる。
「陽向、宮川君、久し振り」
陽向達が靴を履き替えていると、声を掛けられた。明るい声。
陽向と翔太は、ほとんど同時に声の方を見た。
クラスメイトの花井美智がいた。
「あ、美智。久し振り」
「花井さん、おはよう。バスケ部は朝練ないのか?」
「うん。さすがに始業式の日はね」
美智は女子バスケットボール部に所属している。ショートカットがよく似合う、誰もが振り向くような整った顔立ち。一七〇センチほどの身長に、抜群のスタイル。明るく人当たりのいい性格。当然のようにモテる。
「夏休み、何してた?」
「まあ、部活したり、遊び回ったり。概ね楽しかったけど、うっとおしいこともあった」
陽向の質問に、美智はうんざりした顔で答えた。愚痴のように続ける。
「もうね、毎日毎晩、連絡が来たんだよね。ストーカー並にしつこく。着拒とかブロックしようかなって、本気で考えてる」
言いながら、美智は上靴に履き替えた。八つ当たりのように、外靴を下駄箱に放り込む。
美智は、思ったことをはっきりと言うタイプだ。とはいえそれは、平気で人の心を踏みにじる、ということとは違う。嫌なものは嫌と明確に意思表示し、いいものはいいと素直に褒める。そんな性格もまた、彼女を人気者にする所以なのだろう。
モテるから、告白される回数も多い。誰とも付き合うつもりのない美智は、はっきりとお断りの言葉を口にする。有耶無耶な回答をするのではなく、かといって傷付けるような断り方でもない。明確に、友人として付き合えるけど恋人にはなれないと告げる。
次の日には、何事もなかったかのように告白してきた相手とも話せる。適度な距離感を保ちながら、友人やクラスメイトとして接している。
だから、美智にフラれた男達は、彼女に粘着することはない。
ただ一人の例外を除いては。
「本当にね、どうにかならないかな、五味の奴」
五味秀一。陽向や翔太と同じ学年で、別のクラスの男子生徒。
学年の中で、五味を知らない生徒はいないだろう。それくらい目立つ男だった。整った顔立ちに、強気で強引な性格。モテるけど、女癖が悪い。それは単なる噂ではなく、周知の事実だった。
「あいつ、彼女いるくせに」
不愉快そうに吐き捨てられた、美智の言葉。
五味には、一年のときから付き合っている彼女がいる。その事実は、彼の知名度とは裏腹に、あまり周囲に知られていない。理由は単純で、彼が複数の女と一緒にいるからだ。付き合っている彼女すら、彼の遊び相手の一人と認識されているのだろう。
陽向の視界の中で、翔太が複雑な表情になった。苛つきと、嫉妬と、悲しさが混在した顔。いくつもの痛みを伴う感情。
無理もない、と思う。
翔太は、同じクラスの三田詩織が好きだ。ただ一途に。その気持ちの強さが、一緒にいる陽向にも伝わってくるほどに。
そして。
美智に言い寄っている五味秀一は、三田詩織の彼氏だった。
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