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第二十八話 クズ男が迎えた、彼らしい結末
夜の闇に包まれた、薄暗いグラウンドで。
満月が光る空の下で。
陽向が、単独で詩織に向かっていった。彼女を抱きかかえて、五味から離れた。
五味が動いた。陽向を追おうとしていた。
チッ!――と舌打ちをして、翔太も動いた。五味の前に立ちはだかる。陽向のところに行かせるわけにはいかない。彼女は、一人で詩織に向かっていった。それなら、五味は翔太が止めなければならない。
翔太に行く手を遮られて、五味は立ち止まった。
暗がりでもはっきりと分かるほど、五味の目は血走っている。興奮と高揚に満ちた顔。間違いなく、ゾンビ化で得た力に有頂天になっている。
だが、有頂天になっているといっても、考えもなく全力で動いたりしないだろう。翔太はそう確信していた。ゾンビ化で得た力を全力で使うことは、死に繋がる。五味のようなタイプの男は、自分の身の安全を第一に考えるはずだ。
「どけよ! ボクサー!」
興奮気味に怒鳴り、五味が向かってきた。思い切り地面を蹴って、踏み込んできた。力をセーブしている様子はなかった。
一瞬で距離を詰めて、五味はパンチを振ってきた。ゾンビ化した身体能力のせいで、信じられない速度が出ている。だが、素人らしい、予備動作が大きいパンチだ。ブンブンと振り回すパンチ。避けるのは造作もない。
最小限のバックステップで、翔太は五味のパンチを避けた。あっさりと。簡単に。
しかし、余裕のある動きとは裏腹に、心は驚きで満ちていた。
五味は、明らかに全力で動いていた。人間の身でゾンビ化の力を使うと、死に繋がる。それなのに、だ。
人外の力に浮かれて、我を忘れているのか?
浮かんだ疑問を、翔太は即座に否定した。
以前、翔太は、五味が美智に絡んでいたところを邪魔した。五味が感情に任せて行動するタイプなら、あの場で翔太に殴りかかってきただろう。彼がそうしなかったのは、しっかりと判断できているからだ。強気に出る場面と、保身のために引くべき場面を。
五味がさらに殴りかかってきた。大振りのパンチを何発も打ってくる。人外の力を駆使して。こんな動きを続けたら、五味の骨や関節は、すぐに壊れるだろう。骨や関節だけではない。大きな力を出すために、体は大量の酸素や栄養を必要とする。心臓は、大量の血を全身に送ろうとする。結果、心臓や血管にも、人間の限界を超えた負荷が掛かる。
もしかして五味は、ゾンビ化した状態で全力を出す危険性を知らないのか?
再度浮かんだ疑問を、やはり再度否定した。それなら五味は、以前にゾンビ化した時点で死んでいるはずだ。
五味の動きは素人そのものだ。このまま彼を捌き続けるのは、それほど難しくない。こんな動きを続ければ、彼の体は壊れ、死ぬだろう。自滅を誘うのは簡単だ。
だが、五味の自滅を悠長に待っていられない。
ゾンビ化した五味の身体能力は、間違いなく翔太を上回っている。翔太が全力で動いていないといっても。それが意味することは何か。
ゾンビ化して得られる身体能力の高さは、噛んだ吸血鬼の濃度に比例する。
つまり、五味を噛んだ吸血鬼の濃度は、翔太を噛んだ吸血鬼の濃度を上回る。
詩織は、明らかに、陽向以上の濃度の吸血鬼だ。
早く五味を片付けて陽向を助けないと、彼女が危ない。
五味の大振りのパンチを避けて、翔太は構えた。手早く五味を殴り倒して、陽向のフォローに行かなければ。
五味が襲いかかってきた。尋常ではないスピード。しかし、素人丸出しの彼を殴り倒すのは、そう難しくない。大振りのパンチを避けて、左フックを叩き込んでやる。
そこまで考えて、翔太は動きを止めた。左フックを打たず、五味の大振りのパンチを避けた。
駄目だ、と思った。ゾンビ化した力で、五味を殴ったとしよう。彼は簡単に失神するだろう。手足を殴れば、粉砕骨折するはずだ。
ただし、同時に、翔太の拳も壊れる。ボクシングの試合でも、拳が骨折することがある。人間の拳は、それほど頑丈ではない。まして、ゾンビ化した力で殴ったらどうなるか。答えは、火を見るより明らかだ。
拳を骨折して戦えなくなったら、陽向を助けるどころではない。助けるどころか、足手まといだ。
――どうする!?
五味のパンチを避けながら、翔太は自問した。答えは出ない。
翔太に向かってくる五味の目は、充血して真っ赤になっていた。激しい血流に、繊細な眼球の血管が耐え切れなくなっているのだ。
五味の目尻から、一筋の血が流れてきた。まるで、血の涙のように。それでも彼は、興奮気味に笑っている。
「どうしたんだよ!? ボクサー! かかって来いよ!」
翔太が防戦一方であることに、五味は調子付いていた。自分より強い相手には腰が引け、自分より弱い相手には気が大きくなる。
――クズのお手本かよ!?
胸中で毒突きながら、翔太は舌打ちした。早く陽向のフォローに行かないと。けれど、下手に攻撃できない。素人とはいえ人外の力を持つ五味から、目を離すこともできない。
五味が再度、大振りのパンチを放ってきた。
その瞬間、ゴリッという生々しい音が、翔太の耳に届いた。五味の右腕が、人間の関節ではあり得ない方向に曲がった。
ゾンビ化の力に、五味の右肘の関節が限界を迎えたのだ。
腕が想定外の方向に曲がって、五味はバランスを崩した。転倒しないよう、反射的に足を踏ん張った。
今度は、ボキンッという重い音が翔太の耳に届いた。五味の右足の脛が、奇妙な方向に曲がった。足が折れた。
右足で体を支えられなかった五味は、パタリとその場に倒れた。キョトンと、倒れたまま目を見開いた。
「は?……あ?」
わけが分からないという様子で、五味は声を漏らした。上半身を起こし、尻餅をつく体勢になった。そのまま、自分の右腕を見た。関節が壊れ、肘のあたりから垂れ下がり、プラプラと動く右腕。
「あ?……え?」
五味が視線を移す。右腕から、右足へ。奇妙な方向に曲がった右足。
「え?……あ、あ?」
五味の両目から、血が流れている。涙のような道筋を辿る血。声を漏らした口が、震え始めた。連動するように、体が震え始めた。
「あ?……あ……ああ?」
五味の体の震えが、大きくなってきた。自分の体がどんな状態になっているのか、理解してきたのだろう。ガタガタと震える体と唇。腹の底から、悲鳴とも怒声ともつかない声が出た。
「あああああああああああああああああああああああああああああ!?」
五味の鼻から、血が流れてきた。人間は、脳にダメージを受けると鼻血が出る。鼻と脳が直接繋がっている器官だからだ。人外の力を使ったことで、心臓が、限界以上の動きをした。血管の耐久力を超えた勢いで、全身に血が巡った。その結果、脳にも損傷が出たのだろう。
「何だよ!? 何だよこれ!? どうなってるんだよ!?」
つい数瞬前まで有頂天になっていた五味は、今度はパニックに陥った。
「痛え! 痛えよ! どうなってるんだよ!?」
いきなり自分の体が壊れた。五味が感じている恐怖は、相当なものだろう。恥も外聞もなく叫んでいた。目から流れている血に、涙が混じっていた。
五味のもとに、詩織が歩いてきた。慌てる様子もなく、急ぐ気配もなく、歩いて。五味の目の前で、立ち止まった。尻餅をついている彼を見下ろした。
「ああ、限界が来ちゃったんだね、五味君」
当たり前のことを、当たり前に告げる口調だった。詩織に、五味を心配する様子など微塵もなかった。恋人の体が、無残に壊れているのに。
五味を見下ろす詩織は、翔太が知っている彼女とは別人だった。死にゆく恋人を、冷たく見下ろしている。氷の刃のような冷たさが、彼女の童顔にまるで似合っていない。
翔太は、詩織から目を離せなかった。好きな人。ずっと好きだった人。子猫を助けていた。血や小便で制服が汚れることも気にせず、死にかけた子猫を抱きかかえていた。全てを包み込むような優しさに満ちていた。誰よりも、何よりも綺麗だと思った。聖母のように美しかった。
あの美しさの面影は、どこにもない。
人を殺すためだけに鍛え上げられた、凶器。今の詩織には、そんな狂気的な美しさがあった。優しさとは真逆の美しさ。
何も考えられず、翔太は、ただ詩織を見つめていた。
「どうなってんだよ!? 詩織!! 満月の日は、ゾンビ化しても大丈夫じゃなかったのかよ!? 壊れたり死んだりしないんじゃないのかよ!?」
五味は泣いていた。泣きながら、詩織を問い詰めた。
「どうなってるんだよ!? どういうことなんだよ!?」
クスッと、詩織は笑った。まるで、軽い冗談でも口にしたような笑い方だった。
「ごめんね。あれ、嘘」
「……は?」
「満月だからって、強くなるわけないじゃない。狼男じゃないんだから」
詩織の言葉を聞いて、翔太は全て理解した。どうして五味が、自分の保身も考えず、ゾンビ化した状態で全力を出せたのか。理解すると、停止していた思考が動き始めた。
詩織が、五味のところに来ている。彼女は、陽向と戦っていたはずなのに。
――陽向はどうなったんだ!?
翔太は周囲を見回した。十メートルくらい離れた場所で、陽向が倒れていた。
「陽向!?」
翔太は慌てて、陽向に近付こうとした。その足を、詩織の言葉が止めた。
「大丈夫だよ、宮川君。陽向ちゃん、まだ死んでないから」
再び、翔太は詩織を見た。彼女は相変わらず、五味を見下ろしている。
五味は、悲痛な表情になっていた。痛み、苦しみ、恐怖、絶望。一つ一つの痛々しい感情が、その顔に表れていた。
「なんだよそれ? 俺、死ぬのかよ? 嫌だ。嫌だよ。助けてくれよ」
五味の鼻血は止まらない。ボタボタと大量に流れ出ている。呼吸が、異常なほど速くなっていた。抱えた感情が、心臓の動きをより活発にしているのだ。ゾンビ化で強化された、心筋の力によって。
ゾンビ化した心筋の力は、人間の耐久力を大きく超える。
ビクンッと、五味の体が大きく震えた。正常な人間の挙動ではない。ビクンビクンッと、五味の体は痙攣を続けた。救いを求めるように詩織を見ていた目が、白目を剥いた。だらしなく開かれた口から、血が泡のようにこぼれてきた。
脳内で血管が破裂したか。あまりの激しい動きに、心臓の動きが急停止したか。あるいは、その両方か。尻餅をついていた五味は、その場に崩れ落ちた。
そのまま、数度痙攣。ビクンビクンッという痙攣は、少しずつ小さくなってゆく。少しずつ、小さく、小さく。
そして、二度と動かなくなった。
翔太は呆気に取られていた。先ほど動き始めた思考は、再び止まっていた。
「宮川君」
翔太の思考を動かしたのは、またも、詩織の言葉だった。
「陽向ちゃん、気絶してるから。とりあえず行ってあげたら?」
再度、翔太は我に返った。詩織の動きを警戒しながら、陽向に駆け寄った。
詩織は、何の妨害もしてこなかった。
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