第二十九話 悲痛な願いと、断固たる決意と

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第二十九話 悲痛な願いと、断固たる決意と

「――た!」  大きな声が聞こえた。すぐ近くで、誰かが叫んでいる。 「――なた!」  叫び声。同じ言葉を繰り返している。何度も、何度も。  うるさいな。  陽向は、朦朧(もうろう)とする意識の中で毒突いた。少し静かにしてよ。眠いんだから。 「――ひなた!」  ふいに、陽向は気付いた。これは、意味のない叫び声ではない。陽向を呼んでいる。大きな声で、陽向の名前を繰り返している。  あれ? 私、何してたんだっけ?  自分が何をしていたのか、思い出せない。そもそも、いつの間に眠っていたのだろうか。 「陽向!」  ふいに、頭の中で記憶が蘇った。自分は、眠ってなんかいない。翔太と一緒に、学校に来たんだ。もう一人の吸血鬼――詩織に呼び出されて。  陽向は目を開けた。  辺りは暗い。そうだ。ここは、夜の学校のグラウンドだった。  目の前に、翔太の顔があった。陽向の名前を繰り返していた。膝をつき、陽向の頭を抱えながら、心配そうに顔を歪めている。 「気が付いたか!? 陽向!」 「あ……うん」  頷き、陽向は自分の記憶を辿った。詩織に呼び出されて、学校のグラウンドに来た。それから、どうしたんだっけ? ボンヤリと(かす)む頭の中で、手探りで思考した。  詩織と一緒に、五味がいた。翔太の指示では、まず弱い方――五味から片付けて、その後に詩織を止める予定だった。  でも、陽向は、翔太の指示通りには動かなかった。翔太を、好きな人と戦わせたくなかったから。だから、自分一人で詩織を止めようとして……。 「!」  全て思い出した。詩織を五味から引き離して、彼女と戦った。しかし、歯が立たなかった。スピードもパワーも、段違いだった。蹴られて右足が折れ、倒れた。倒れたところを殴られそうになった。慌てて左腕でガードした。そうしたら、左腕も折れた。  記憶があるのはそこまでだった。たぶん、さらに殴られて失神したのだろう。 「そうだ! 詩織は!?」  声を張り上げて翔太に聞いた。直後、右足と左腕に凄まじい痛みが走った。 「いっ……っつ……!」  思わず呻き声を漏らして、陽向は身を縮めた。あまりの痛みに、全身が強張(こわば)った。吐き気がするほど痛い。 「三田さんは、まだそこにいる」  翔太の視線が動いた。  陽向は、翔太の目の動きを追った。  詩織が、薄笑いを浮かべながらこちらを見ていた。その足下に、五味が倒れている。ピクリとも動かない。 「五味は……どうなったの?」 「死んだ」  翔太の声は重い。重く、暗く、沈んでいる。 「ゾンビ化して、全力で動いて、自滅した」 「……」  陽向は、詩織と五味を交互に見た。死んだ五味。陽向に(とど)めも刺さず、こちらを見ている詩織。  詩織が何を考えているのか、陽向には分からなかった。答えを求めるように、翔太に視線を移した。  翔太は、詩織をじっと見つめていた。彼女の動向を探るように。彼女の出方を待っているように。  詩織はゆっくりと歩いて、こちらに近付いてきた。五、六メートルほど離れたところで、足を止めた。視線は、翔太をじっと見つめたまま。浮かべた薄笑いにも、変化はない。その唇が動いた。 「宮川君。ひとつ、取引きみたいなことをしない?」 「取引き?」 「うん、そう。私の言うことを聞いてくれたら、宮川君は殺さないであげる」 「……」  しばし、翔太は黙った。彼の腕が、陽向の頭を抱えている。その腕に入る力が、少しだけ強くなった。陽向を守るように。 「……何をすればいい?」  聞いた翔太を見ながら、詩織は、浮かべた笑みの色を濃くした。  暗いグラウンド。満月に照らされている詩織。眼鏡が似合う、可愛らしい童顔。けれど、その表情は、可愛いなんて言葉が似合うものではなかった。冷たく残酷な、刃物のようだった。刀身に月を映し出す、鋭いナイフ。 「陽向ちゃんを見捨てて、ここから逃げ出して」  表情とは真逆で、詩織の声は優しかった。  こんな状況なのに、陽向は、以前のことを思い出した。美智が生きていた頃のこと。美智のジャージを、詩織が修繕してあげたこと。 『美智ちゃん。修繕するから、ジャージ貸して』  詩織の口調は、あのときとまるで変わらない。  唇を強く結び、翔太は再度、詩織に聞いた。 「陽向はどうするつもりだ?」 「殺すよ。吸血鬼は、死ぬべき生き物だから。私も含めて」  即答だった。  ザワリと、陽向の背筋に鳥肌が立った。怖い。詩織が怖い。こんなに彼女が強いだなんて、予想外だった。  詩織と戦って、嫌でも理解させられた。彼女は、陽向よりもはるかに濃度の高い吸血鬼だ。たとえ翔太と二人がかりで戦っても、勝ち目などなかっただろう。  今さらながらに、陽向は後悔した。詩織に呼び出されたことを、灯に話すべきだった。同行してもらうべきだった。灯は一〇〇パーセントの吸血鬼だ。彼女なら、詩織にだって遅れは取らないはずだ。  しかし、今さら悔やんでも仕方がない。 「翔太」  陽向は、翔太に対して余裕のある表情を見せた。骨折した、右足と左腕の痛み。自分達より圧倒的に強い、詩織への恐怖。体が震えそうになる。その震えを、無理矢理抑え込んだ。 「逃げて、お母さんを呼んできて」  翔太が逃げたら、自分は殺される。死ぬのは怖いし、痛いのも嫌だ。それでも、と思う。たとえ、痛い思いをしても。殺されることになっても。  ――翔太だけは、絶対に死んでほしくない。 「私なら大丈夫だから。翔太がお母さんを連れて来るまで、なんとか頑張るから。だから逃げて、急いでお母さんを連れて来て。お母さんが来てくれたら、私も翔太も助かるから」  精一杯、陽向は嘘をついた。  翔太が、ゾンビ化した力を駆使して、全速力で帰宅したとする。そこから、全速力で灯を連れて来たとする。どんなに早くとも、五、六分はかかるだろう。それまで、詩織を相手に、殺されずに持ち(こた)えることができるか。  絶対に不可能だ。  そもそも、右足と左腕が折れた状態で戦えるはずがない。立ち上がることさえ困難だ。  陽向はわかっていた。翔太が逃げたら、自分は殺される。たとえ彼が灯を連れて来たとしても、それまで生きていることはないだろう。  それでもいい、と思った。  痛い思いをしたくない。死にたくもない。  でも、翔太が死ぬことに比べたら、全然マシだ。 「陽向」  陽向の頭を抱えた、翔太の腕。彼の腕から、力が抜けた。 「枕もないけど、少しだけ我慢してくれ」  翔太は、グラウンドの上に陽向の頭を降ろした。その場で立ち上がる。体を、詩織の方へ向けた。  翔太だって分かっているはずだ。詩織を相手に勝てるはずがない、と。この場で最良の策は、まず逃げること。逃げて、灯を連れてくること。  翔太は、自分の案を聞き入れてくれた。そう、陽向は思っていた。 「急いでお母さん連れて来てね」  だが、翔太は、陽向の意見に賛成などしていなかった。 「馬鹿言うなよ。足も腕も折れてて戦えないお前が、どうやって持ち堪えるんだよ?」 「……あ……」  よく考えてみれば、翔太ほど頭のいい人が、陽向の苦し紛れの嘘を見抜けないはずがない。  それでも陽向は、自分の意見を突き通そうとした。 「でも、どうしようもないんだよ! 逃げてよ! 逃げて、お母さんを連れて来て! 私なら、自分でどうにかするから!」 「足が折れてて立つこともできない。腕が折れてるから逆立ちもできない。それで、どうやって(しの)ぐんだよ?」  翔太に聞かれて、陽向は言葉に詰まった。答えられるはずがない。最初から、どうにかするつもりなどないのだから。ただ、翔太を逃がしたいだけなのだから。 「そういうわけだからさ、三田さん」  翔太は三歩、詩織の方へ足を進めた。二人の間の距離は、四、五メートルほど。 「悪いけど、三田さんの言うことは聞けない。陽向を見捨てて逃げられない」  翔太は詩織に向かい、構えた。左足を前。右足を後ろ。腕を上げる。地面を踏みしめる翔太の足が、ジャリっと砂の音を立てた。 「いいの? 宮川君じゃ、私に勝てないよ? 二人とも死ぬことになるよ?」  二人とも死ぬ。翔太が死ぬ。詩織の声が耳に入って、陽向の体が震えた。心の中で、たった一つの言葉が、何度も何度も繰り返された。  嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。  ――翔太が死ぬなんて、絶対に嫌だ!!  折れた手足の痛みを堪えて、陽向は、体を詩織の方へ向けた。腹の底から、喉の奥から、ありったけの声を出した。詩織に懇願(こんがん)した。 「お願い詩織! 翔太を殺さないで! 私なら、大人しく殺されるから! お願いだから翔太を殺さないで!!」  陽向の視界は、歪んでいた。翔太も詩織も、ボヤけて見えた。いつの間にか、涙がボロボロとこぼれていた。  それでも――視界がボヤけていても、詩織の顔は見えていた。彼女の表情の変化が、はっきりとわかった。  詩織の顔から、薄笑いが消えた。かといって、怒りの表情になったわけでもない。どうしようもなく悲しい。息ができないほど苦しい。泣きたくなるほど辛い。そんな、痛々しい表情になっていた。  詩織がどうしてそんな顔になっているのか、陽向には分からない。気にしている余裕もない。ただ、必死だった。翔太を死なせたくなくて。 「……お願いだから……翔太を殺さないで……」  息が詰まる。恐くて恐くてたまらない。翔太が殺される。そう思うだけで、胸がえぐられるようだった。 「心配するな、陽向」  優しい、翔太の声。彼は、詩織から目を離していない。構えたまま。緊張感を維持したまま。それでも、その声は温かかった。 「言っただろ。お前を絶対に守るって。俺は、お前に助けられた。お前みたいに誰かを守れる人間になりたかった」  翔太を信用していないわけではない。けれど、あまりに力が違い過ぎる。詩織の吸血鬼濃度は、陽向よりもはるかに上。対して、陽向によってゾンビ化した翔太は、二十パーセントの吸血鬼と同等程度。それは、翔太自身も分かっているはずだ。  それなのに、翔太の声は力強かった。 「今が、守るときだ」  詩織の表情が、またも変化した。痛々しさを抱えながら、無理に笑っている。 「じゃあ、陽向ちゃんを守るために、私を殺す? 無理だと思うけど、どうやって?」 「そんなつもりはない」 「どういうこと?」 「陽向は死なせない。でも、三田さんも死なせない。二人とも死なせない」 「ふうん」  明らかに無理に笑っている、詩織。彼女の口から漏れる、どこか虚しさを含んだ声。 「じゃあ、どうするのか、見せてみて」
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