第三十話 圧倒的力の差と、その差を埋める知略と

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第三十話 圧倒的力の差と、その差を埋める知略と

「……お願いだから……翔太を殺さないで……」  夜のグラウンド。満月の光に照らされている。  翔太は、詩織から視線を離さなかった。彼女がその気になれば、一瞬で翔太を殺せる。それが分かっているから、警戒を解けない。  ただ、それでも気付いていた。陽向の涙声を聞けば、見なくても分かる。  陽向が、泣いている。  翔太は、陽向が泣くところを見たことがなかった。彼女は強い。吸血鬼としての身体能力だけではなく、気持ちも強い。強いからこそ、昔、吸血鬼としての禁忌を破って翔太を助けてくれたのだ。  そんな陽向に、翔太は憧れた。彼女のように強くなれなくても、彼女のように誰かを守れる人間になりたかった。 「心配するな、陽向」  最初は、単純に、陽向の強さと格好良さに憧れた。彼女のことを知って、憧れに尊敬の念が加わった。吸血鬼という特殊な存在に生まれ、多くの禁忌に身を縛られながらも、優しく強い彼女。いつも隣を歩いていたが、気持ちの面では、彼女の背中を追い続けていた。  そんな強くて優しい陽向が、泣いている。翔太を心配して。翔太を助けるために、自分の命を犠牲にしようとして。 「言っただろ。お前を絶対に守るって。俺は、お前に助けられた。お前みたいに誰かを守れる人間になりたかった」  陽向と比べて、自分は弱い。それを、翔太は自覚している。陽向を、泣かせるほど心配させている。  だからこそ、今が大事なのだ。今が、理想とする自分に近付くときなのだ。  思い起こすのは、インターハイと国体の敗戦。圧倒的に強い優勝者に負けた。知恵を振り絞り、自分よりも強い選手と戦った。勝つために必死だった。しかし、二回とも負けた。  そして、今。  再び、自分よりもはるかに強い者と対峙している。ボクシングの試合と違い、負ければ命はない。親友の命も奪われる。同時に、これから戦う好きな人も、殺されることになる。  だから、絶対に勝たなければならない。  守るんだ。理想とする自分で。尊敬する親友を。好きな人を。それら全てを―― 「今が、守るときだ」  翔太の視界の中で、詩織の表情が変化した。可愛らしい顔に似合わない、痛々しささえ感じる笑顔。 「じゃあ、陽向ちゃんを守るために、私を殺す? 無理だと思うけど、どうやって?」 「そんなつもりはない」  詩織は首を傾げた。 「どういうこと?」 「陽向は死なせない。でも、三田さんも死なせない。二人とも死なせない」 「ふうん」  詩織の口から漏れた声。どこか虚しさを含んでいた。 「じゃあ、どうするのか、見せてみて」  詩織は、構えることさえしない。余裕があるのは間違いないだろう。だが、構えないのは、余裕があるからではない。彼女は素人だ。戦うための構えなど、知らないのだ。  翔太と詩織の距離は、三、四メートルほど。攻防を繰り広げられる距離ではない。  詩織を観察しながら、翔太は高速で思考を繰り広げた。  格闘技経験者は、喧嘩も強い。世間一般では、そんなイメージがある。だが、それは間違いだ。実際に、格闘技経験者が、ストリートファイトで素人の喧嘩屋に負けることが多々ある。  どうして、戦う訓練を積んでいる格闘技経験者が、素人に負けるのか。  答えは単純だ。  格闘技にはルールがあるから。喧嘩には、ルールがないから。  格闘技の訓練は、その競技に特化して構成される。当然ながら、ルールに沿って勝つための練習を積むことになる。だからこそ、ルールの外にある攻撃には(もろ)い。  ほとんどの格闘技で反則とされている、目潰し、金的、頭突き、噛みつき、武器の所持。喧嘩慣れした者は、そういった人体を効率的に壊す手法に長けている。だからこそ、ルールの中でしか実力を発揮できない格闘技経験者に勝てるのだ。  もちろん、翔太も例外ではない。ボクシングで反則とされている攻撃に対しては、訓練を積んでいない。  しかし、この場で対応する方法がないわけではない。  どんな攻撃であっても、例外なく、相手に届かなければダメージを与えられない。  詩織は、体格で圧倒的に翔太に劣る。身長は、二十センチ近くも翔太より低い。つまり、詩織の攻撃射程圏外で、翔太は攻撃が可能なのだ。  徹底的にその距離を維持する。詩織の手足が届かないところで戦う。  翔太が詩織に勝つための絶対条件は、彼女の手が届かない距離を維持すること。それができなければ、あっという間に殺されるだろう。  さらにもうひとつ、翔太にはアドバンテージがある。  詩織は確かに、身体能力が高い。陽向を無傷で打ち負かしたほどだ。けれど、決して、喧嘩慣れしているわけではない。吸血鬼に課せられた規律から考えると、喧嘩をしたことなどないはずだ。  つまり、詩織には、喧嘩慣れした者の強みも、格闘技経験者の強みもないのだ。身体能力だけが特出した、完全な素人。  そこから考えられる詩織の攻撃手段は、利き手のパンチか利き足の蹴りのみ。防御も、動体視力と反射神経に頼ったもの。彼女の攻撃防御ともに、予測が可能なのだ。  それなら、勝機はある。  しっかりと構えたまま、半歩だけ、翔太は詩織に近付いた。構えを解かず、すり足で。  その直後。 「――!?」  翔太の目の前に、いきなり詩織が現れた。  かすかに詩織の動きが見えた。右手を振り回してくる。予備動作が大きいパンチ。  だが速い!  翔太は反射的に、大きくバックステップをした。  空気を切り裂くような詩織のパンチが、翔太の目の前を通り過ぎた。咄嗟のバックステップで、なんとか避けることができた。  バックステップを踏んだことで、翔太は、陽向のすぐ近くまで後退していた。 「逃げてよ、翔太……。お願いだから……お願いだから逃げて……」  後ろで、陽向はまだ泣いていた。  詩織は追撃を仕掛けてこない。余裕も油断も見て取れる。いつでも翔太を殺せる。そんな、余裕と油断。  詩織から視線を離さずに、翔太は陽向に伝えた。 「心配するな。お前が思ってるより、俺は強い」  嘘だ。どんなに少なくとも、詩織に勝てると断言できるほど翔太は強くない。ボクシングの強豪といっても、所詮はただの人間だ。吸血鬼と比べると、身体能力で格段に劣る。ゾンビ化して身体能力が強化されているが、詩織とは比べものにならない。今の詩織の踏み込みとパンチを見て、それを思い知った。  詩織は、一瞬で翔太に接近してきた。速い、なんて言葉で表現できる程度のスピードではない。まるで瞬間移動だった。  もし、翔太がゾンビ化していなかったら。間違いなく、今の一撃で死んでいただろう。ゾンビ化で強化された動体視力があるからこそ、ほんの一瞬でも、詩織の動きを追えたのだ。  翔太の全身から、汗が吹き出てきた。冷や汗。  大きく息を吸い、大きく吐いた。自分に言い聞かせた。集中しろ。集中、集中、集中、集中……。  自分に暗示を掛けるように胸中で繰り返し、翔太は、詩織への集中力を上げた。  人間は、一点に集中すると視野が狭くなる。視野が狭くなる分だけ、見えている範囲の察知能力が増す。  通常の人間の視野は、平均で一八〇度前後。集中力を増した翔太の視野は、一〇〇度前後まで狭まっていた。  集中力を維持したまま、一歩、詩織に近付いた。  詩織は動かない。  さらに半歩、すり足で詩織に近付く。  再度、詩織が動いた。やはり速い。完全に動きを追い切れない。だが、今度は、彼女が踏み込んでくる瞬間が見えた。  真っ直ぐ翔太に接近してくる。右手を大きく振りかぶった。大きな弧を描いて、詩織の右拳が、翔太の顔面に向かって飛んでくる!  翔太は大きく右側に移動し、詩織の攻撃を避けた。  再び、詩織との距離が大きく空いた。  翔太は、深く息を吐き出した。  心臓が、痛いほど強く鼓動を刻んでいる。ゾンビ化によって、心筋も強化されているのだ。バクンッバクンッという振動が、体全体に伝わってくる。人間の限界を超えた心拍数。強化された身体能力を発揮するために、心臓が、全力で血液を送っている。  変化を感じるのは、身体能力や心拍数だけではなかった。詩織の動きを追えるようになった途端に、眼球がひどく痛くなった。圧迫されるような鈍痛。眼筋も、ゾンビ化によって強化されている。繊細な眼球がその能力に耐え切れず、悲鳴を上げている。おそらく、目が真っ赤に充血しているはずだ。  こんな能力を使い続けたら、すぐに体が壊れる。あまり時間はかけられない。可能な限り最短で、詩織を戦闘不能にしなければならない。  戦略はある。詩織の動きを目で追えるなら、実践は十分可能だ。ただし、大きな犠牲を払う必要がある。ゾンビ化した力でパンチを打ち、当てたら、拳が砕けるだろう。一発で詩織を戦闘不能にしなければならない。それでも、左右どちらかの拳を犠牲にすることになる。  どちらの拳を犠牲にすれば、より確実に勝てるか。  詩織への集中を解かず、翔太は思考を巡らせた。国体予選のことが思い浮かんだ。詩織の目の前で、対戦相手を倒した試合。  戦略と決め手が、翔太の頭の中で定まった。 「どうしたの? 宮川君」  ゆっくりと歩いて、詩織が近付いてきた。 「かかって来ないの?」  自暴自棄の色が見て取れる、詩織の顔。  翔太の胸が痛くなった。心臓の痛みとは別の意味で。  好きな人に、こんな顔をしてほしくない。明るい太陽の下で笑ってくれたら、凄く可愛いのに。それなのに今は、暗闇の中で絶望の影を見せている。 「そうだな。そろそろ行くよ」  詩織の問いに、翔太は静かに答えた。胸中で、言葉を付け加える。  親友を守りたい。好きな人に、手を差し伸べたい。そのために戦う。そのために勝つ。  時間は掛けられない。まともに当てられるパンチは、一発だけ。  それならば――  大きく息を吸った。  翔太は地面を蹴り、足を踏み出した。
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