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第三十一話 その目に映るのは、努力と覚悟の結晶
夜のグラウンドを照らす、満月の光。周囲の家々の明り。
薄い闇と、冬の接近を告げる冷たい空気。
陽向は動けずにいた。右足を折られ、左腕も折られ、何もできない。立ち上がることさえ困難な重傷。激しく動いているのは、心臓だけ。心に満ちる不安のせいで、心臓の鼓動が速くなっていた。
目の前で、翔太が詩織と戦っている。
ゾンビ化しているとはいえ、翔太はただの人間だ。どれほど強いボクサーだと言っても、生まれ持った身体能力の差は埋められない。
勝てるはずがない。どれほど鍛えても、素手の人間が野生の熊に勝つなど不可能だ。それと同じように。
実際に、翔太は劣勢に立たされていた。なんとか詩織の攻撃を避けているものの、逃げるだけで精一杯、という様子だった。
大きく距離を置いて、対峙している二人。その様子は対照的だった。
詩織には、強者の余裕がある。
翔太は、張り詰めたような表情を見せている。
先ほど翔太に拒否された言葉を、陽向は、何度も胸中で繰り返していた。
――逃げてよ。お願いだから逃げてよ。死なないで。翔太が死ぬなんて、絶対に嫌だよ。
あまりの不安に胸が押し潰されて、もう声も出せなかった。
ボロボロと流れる涙は、止まる気配すらない。
「どうしたの? 宮川君」
ゆっくりと、詩織が翔太に近付いていく。
「かかってこないの?」
詩織の言葉に、翔太は静かに答えた。張り詰めながらも、どこか切なそうな顔で。
「そうだな。そろそろ行くよ」
言葉の直後、翔太は、詩織に向かって足を踏み出した。
翔太の身に染みついた、ボクシングの構え。動き。それを、こんな状況でも忠実に再現している。まるで、以前見た試合のときのように。
翔太が詩織に接近した。彼の手が届く距離に入った。左のパンチを繰り出す。拳を真っ直ぐ放つパンチ。左ジャブ。
詩織は頭を少しだけ動かし、難なく避けた。
避けられても、翔太はジャブを出し続ける。しかし、陽向によってゾンビ化した翔太と、陽向よりも濃度が上の詩織とでは、身体能力が格段に違う。詩織には、翔太のパンチがスローモーション同然に見えているはずだ。何発打っても、かすりもしない。
翔太は、黒いマウンテンパーカーを着ている。暗い場所で黒い服を着た彼の動きは、確かに見切りにくい。おそらく翔太は、それも計算して黒ずくめの格好をしてきたのだろう。今のところ、その成果が出ているとは言えないが。
翔太のパンチを避けた詩織が、右のパンチを繰り出した。大振りのパンチ。コンパクトで洗練された翔太のパンチとは、まるで違う。明らかに素人のパンチだ。
しかし、翔太より数段速く、翔太より数段威力がある。
翔太はバックステップをして、寸でのところで詩織のパンチを避けた。
もし一発でも詩織のパンチが当たったら、翔太は即座に戦闘不能になるだろう。それどころか、たった一発で命を失う可能性が高い。
あまりの恐怖で、陽向の体は震えていた。今すぐ立ち上がって、翔太を助けに行きたい。たとえ戦えなくても、翔太の盾になるくらいはできる。自分を犠牲にして翔太を助けられるなら、それでいい。
陽向は無理矢理、自分の体を起こそうとした。折れていない右手を地面につき、折れていない左足で立とうとした。バランスが取りにくい。どうしても、体に無駄な力が入る。力んだ途端に、折れた手足に激痛が走った。地面についた右手や左足から、力が抜けた。
再度、陽向は地面に倒れた。その振動で、息も詰まるような痛みに襲われた。
「――!!」
声すら出せないほどの痛み。体が強張って、痙攣する。それでも、翔太から目を離さない。必死に戦っている翔太。勝算は、極めて薄い。
翔太が、詩織に向かって左フックを放った。彼の得意なパンチ。国体予選でも、あのパンチで相手を倒していた。だが、当たらない。詩織の動きに比べると、あまりに遅すぎる。
たとえ当たらなくても、翔太は何発もパンチを出し続けた。ジャブで詩織を動かし、彼女の動いた方向に左フック。
遠目から見ていると、よく分かる。翔太は、的確に計算しながら戦っている。それでも、身体能力の差を埋めることはできない。最高速の早送りと最低速のスロー再生くらいに、二人の動きには差がある。
――あれ?
ふいに、陽向は気付いた。
翔太のパンチが遅過ぎる。
翔太はゾンビ化している。詩織よりも圧倒的に劣るとはいえ、翔太の身体能力も上がっているはずなのだ。それにしては、遅過ぎる。
ゾンビ化の持続時間は、一時間程度。もしかして、翔太がゾンビ化してから、そんなに時間が経ったのだろうか?
陽向が翔太を噛んだのは、学校に侵入する直前。あれから十分程度しか経っていないはずだ。
そこまで考えて、陽向は思い出した。自分が、詩織に気絶させられていたことを。気絶している間に、そんなに時間が経過したのだろうか?
翔太がゾンビ化の効果を発揮しても、詩織の身体能力には大きく劣る。
それなのに、ゾンビ化の効果が切れたりしたら。その結果どうなるかなど、考えるまでもない。
あまりの絶望に、陽向の血の気が引いた。
もし翔太の気が変わって、逃げる気になったとしても。ゾンビ化の効果が切れたら、逃げることすらできなくなる。確実に殺される。
そこまで考えて、悲しくなった。陽向の心が、苦痛と絶望に満ちた。
翔太が、陽向を見捨てて逃げるはずがない。たとえ、ゾンビ化の効果が切れたとしても。彼は最後まで戦うだろう。陽向を守るために。
陽向は、グラウンドで事切れている五味を見た。不誠実で、女癖が悪くて、美智を殺したクズ野郎。その亡骸を見ても、同情する気になどなれない男。翔太とは正反対の男。
五味を見て、つい願ってしまった。
今この瞬間だけは、翔太に、五味のようになってほしい。平気で陽向を見捨てられる男になってほしい。逃げて、逃げ延びてから、いつもの翔太に戻ってほしい。
――死んでるなら、翔太に取り憑いてよ。
もの言わぬ五味の死体に、陽向は語りかけた。
――ほんの一瞬でいいから、翔太を、あんたみたいなクズ野郎にしてよ。
そんな願いなど、叶うはずがない。
翔太は必死に、抵抗を続けている。プログラムされた機械のように、的確なパンチを繰り出している。だが、詩織には当たらない。
翔太がパンチを打つ。計算された攻撃設計。人間にしては速い動き。
詩織は、苦もなく翔太のパンチを避ける。素人丸出しの雑な動きだが、スピードも反射神経も桁が違う。
同じ映像を、繰り返し再生しているような光景。
詩織がパンチを打った。
翔太がバックステップで避けた。
――あれ?
翔太と詩織の動きを見て、陽向は違和感を覚えた。
再度繰り返される、二人の攻防。翔太の遅いパンチ。苦もなく避けて、パンチを繰り出す詩織。詩織のパンチを、バックステップで避ける翔太。
おかしい。はっきりと、そう思った。
翔太の動きがおかしい。
スタミナが切れて雑になっている、というおかしさではない。怪我をしてぎこちなくなっている、というおかしさでもない。
翔太のパンチは遅い。彼が得意とする左ジャブも、もっとも得意な左フックも。それらのスピードは、通常の人間の限界を超えるものではない。
だが、移動速度だけは速い。パンチを避けるバックステップの速度には、明らかにゾンビ化の効果を感じる。
――体の一部分だけにゾンビ化の効果が残ってるってこと? そんなこと、ありえるの?
つい、陽向は自問した。
信じられない光景が陽向の目に映ったのは、その直後だった。
翔太がジャブを放つ。相変わらず遅い。詩織が避けた方向に、今度は、やはり遅い左フックを放つ。
詩織が、余裕を持って左フックを避けた。
その瞬間。
翔太の右拳が、一直線の軌道を描いた。人間の限界を遙かに超えた速度。ゾンビ化の力を存分に発揮したパンチ。
右ストレート。
陽向の目は、翔太の遅いパンチに慣らされていた。そのせいで、今の右ストレートが閃光のようにすら見えた。極端過ぎるほどの、スピードの緩急。
ストン。そんな音が聞こえそうな動きで、詩織が崩れ落ちた。地面に膝をついた。糸の切れた操り人形のように。
陽向の脳裏に浮かんだのは、以前見た翔太の試合だった。翔太が、対戦相手を倒した試合。
打ったパンチは違うが、まるで、あの試合の再現だった。
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