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第三十二話 すれ違っていた気持ちが、ようやく出会う
夜のグラウンド。
その薄暗さは、視界を明らかに妨げている。さらに、翔太は黒いマウンテンパーカーを着ている。暗い中で黒い格好をした彼の動きは、確かに見にくい。
それでも、吸血鬼の動体視力を持ってすれば、簡単に見切れる。
詩織には余裕があった。
翔太のパンチが、スローモーションに見える。人間にしては速い彼の左ジャブを、詩織は簡単に避けた。
詩織の動いた方向に、翔太の左フックが飛んできた。的確で、計算されたパンチ。
でも遅い。
詩織は左フックも簡単に避け、翔太に向かってパンチを打った。右拳を振り回す。
翔太は素早くバックステップし、詩織のパンチをギリギリで避けた。
――まただ。また避けられた。
少なからず、詩織は驚いていた。こんなにスピードが違うのに、全然パンチが当たらない。
どうして当たらないのか。翔太が強いボクサーだから? でも、ゾンビ化しているとはいえ、所詮は人間なのに。
予想に反して、翔太にパンチが当たらない。しかし、驚きつつも、詩織に焦りはなかった。彼のゾンビ化の効果は、時間が経てば切れる。そうなったら、さらに動きが遅くなる。ただの人間に戻った瞬間が、彼の終わりのときだ。
吸血鬼である詩織は、人間を簡単に踏み躙れる。全てを壊す力がある。生きる価値のない自分。そんな自分の、唯一の価値。
翔太が再び、左ジャブを放ってきた。完全に見慣れた。詩織はさらに余裕を持って、簡単に避けた。
これまでと同じような流れで、翔太が左フックを放ってきた。
瞳を右に動かし、詩織は、彼の左フックを凝視した。遅いパンチ。構えた位置から、小さな弧を描いて詩織に向かってくる。拳が通る軌道まで、はっきりと見える。
翔太の左拳の動きを、眼球の動きだけで追う。そのパンチを、詩織は、上半身を少し反らして避けた。
その直後。
突然、詩織の目の前が真っ暗になった。夜の闇ではない。明るさの一切ない、完全な黒。
視界は、すぐにもとに戻った。完全な闇ではない、薄暗い夜のグラウンド。ただ、視線の高さが、先ほどよりも低くなっていた。
詩織は、両膝を地面についていた。
「……?」
どうして自分が、地面に膝を付いているのか。一体、何が起こったのか。詩織は理解できなかった。意識が一瞬飛んでいたかのように、膝を付くまでの記憶がなかった。
顎のやや左寄りに、ジーンとした痛みを感じた。激痛というほどではない。何かが軽く当たった程度の痛み。
目の前に、翔太の両足があった。見上げると、彼が詩織を見下ろしていた。
倒れるまでの記憶がない。しかし、理解はできた。翔太のパンチをもらったのだ。倒されたのだ。信じられないが、それ以外に考えられない。
――まぐれ、だよね。
無意識のうちに、詩織は胸中で呟いた。自分は、七十五パーセントの吸血鬼。翔太に倒されるなんて、まぐれ以外に考えられない。
詩織は地面に足を付き、立ち上がろうとした。途端に、体が平衡感覚を失った。フラつき、また倒れた。
「あれ?」
再度立とうとするも、景色が歪んで立ち上がれない。足に、思うように力が入らない。
「無理に立とうとするな。脳震盪を起こしてるはずだから」
立ち上がろうとした詩織を、翔太が止めた。彼の左手で、右肩を掴まれた。そのまま、地面に寝かせられた。
わけが分からない。詩織は、つい呆然としてしまった。なぜ、自分は、こんなダメージを負っているのか。圧倒的な戦力の差があったはずなのに、どうして倒されたのか。
翔太は、その場で胡座をかいた。自分の足に、詩織の頭を乗せた。膝枕のような格好になった。
そのまま翔太は、じっと、詩織を見つめてきた。彼の目は、心配そうで、心苦しそうで。ひどく複雑な顔になっていた。
詩織は、率直な疑問を口にした。
「宮川君、私に何したの? どうやって倒したの?」
倒せたのは、まぐれた。適当にパンチを打ったら、たまたま倒せた。
詩織は、そんな答えを期待していた。
ただの人間である翔太が、まぐれ以外で、吸血鬼である自分を倒せるはずがない。好き勝手に暴れて、その気になれば何もかもメチャクチャにできる。絶望に堕ちた自分を楽しませてくれた、吸血鬼の能力。それが、たった一つしかない、自分の価値。死ぬべき生き物である自分ができる、ただ一つのこと。
翔太に倒されたのがまぐれでなければ、そんな価値すら否定されてしまう。
「以前に、三田さん、俺の試合を見に来てくれただろ?」
話し始めた翔太の声は、優しい。反面、心配そうで、申し訳なさそうでもあった。
「あのときの試合と、理屈は同じだよ」
詩織は、翔太の試合を思い起こした。彼の、ボクシングの試合。陽向や美智と見に行った、国体予選。
翔太が、相手を倒して勝った試合。
試合後に、彼が言っていた。
『まず前提として、人間ってのは、まったく意識してないものには徹底的に弱い。例えば、そうだな──交通事故で後ろから追突された場合は、それほどスピードが出てなくても首を怪我したりするだろ?』
『それは、後ろから追突されることがまったく予測できなくて、しかも、見えないからなんだよ。それと同じだ』
対戦相手を倒した理論。
詩織はようやく気付いた。痛みが残っているのは、自分の顎の左側。つまり、翔太の右のパンチをもらったのだ。左のパンチに集中させられて、右のパンチに対する意識を完全に失って。
さらに、今さらながらに思う。翔太の左のパンチは、あまりに遅すぎた。ゾンビ化しているとは思えないほどに。意図的にスピードをセーブしていたのだ。結果、翔太の右は、詩織の予測と目測の外から飛んできた。左とは比べものにならない、驚異的な緩急を付けた速度で。
だから、倒された。
まぐれなんかじゃなかった。翔太は、人間の身でありながら、吸血鬼である詩織を上回ったのだ。たとえ一瞬でも。たとえ、ゾンビ化しているといっても。
詩織が感じていた、吸血鬼としての唯一の価値。それが、無残に砕け散った。死ぬべき生き物である自分には、何もない。生きる価値も。メチャクチャにする能力も。
自分には、何もなかったんだ。
「……あ……はは……」
詩織の口から、乾いた笑い声が漏れた。両目から、大粒の涙がこぼれてきた。あの日のように。陽向が吸血鬼であることを、翔太は知っている――その事実に気付いた日のように。
私には何もない。何もできない。何の価値もない。あると思っていたものすら、幻だった。
そう実感すると、全てがどうでもよくなった。自虐的な悦びも、堕ちてゆく快感も、破滅的な楽しさも、全て消え去った。
残ったのは、虚しさだけ。生きていることに対する、虚しさだけ。
このまま翔太の膝で休憩していれば、ダメージは抜けるだろう。再度戦えば、彼に勝てるだろう。
でも、もう、そんな気すら起きなかった。幻に縋る気になど、なれなかった。心の中に、ただひとつの望みが生まれていた。
もう、消えてしまいたい。
何もない自分なんか。生きる価値のない自分なんか。
すぐにでも飯田先生に突き出して、死刑にしてほしい。いや、それどころか、このまま翔太の手で殺してほしい。
もう死にたい。少しでも早く死にたい。少しでも早く、この虚しさから解放されたい。
「ねえ、宮川君」
涙で歪む視界。夜の暗さも手伝って、翔太の顔がボヤけて見える。
「私を殺さなくていいの? ダメージが抜けたら、また、宮川君や陽向ちゃんを殺そうとするかも知れないんだよ?」
殺されたくて、翔太の不安を煽ってみた。
翔太には、不安だけじゃなく怒りだってあるはずだ。詩織は、陽向に大怪我をさせたのだから。
――自分の恋人が傷付けられたんだから、怒って当たり前だよね。
胸中で呟く。その怒りと不安で、私を殺して。
しかし、翔太の口から出た言葉は、詩織の予想や希望に反するものだった。
「殺さないよ。殺したくない」
「どうして?」
詩織は涙を拭いて、翔太をじっと見つめた。彼は、悲しそうな顔になっていた。
「美智ちゃんは、私が殺したも同然なんだよ? 陽向ちゃんにも大怪我させたんだよ?」
「花井さんを殺したのは五味なんだろ? 三田さんにまったく責任がないとは言わないけど、殺したも同然、ってほどじゃない。陽向に関しては……そりゃあ、まあ、思うところがあるけど」
「思うところがある、なんて程度じゃないでしょ? 自分の彼女が、あんな目に合わされて」
「はい?」
翔太の表情が一変した。悲しそうな顔から、わけがわからない、という顔になった。
「えっと……え? 何?」
なぜか、会話が噛み合っていない気がする。確かめるように、詩織は再度聞いた。
「宮川君と陽向ちゃん、付き合ってるんでしょ? 私は、宮川君の彼女を、あんな目に合わせたんだよ? 殺したいくらいに腹立ってるでしょ?」
「……」
翔太は少し、何かを考え込む様子を見せた。首を少しひねり、眉間に皺を寄せている。やがて、溜め息交じりに口を開いた。
「えっと、誤解してるみたいだけど、俺と陽向は付き合ってないから」
「こんなときに隠さないで」
泣きながら、詩織は苦笑してしまった。
「どう見ても付き合ってるでしょ?」
「いや、だから……。そういえば、以前にもそんなこと言われた気がするけど、本当に付き合ってないから」
翔太の口調や表情から、嘘だとは思えなかった。
「本当に?」
「本当だよ。さらに言うなら、その――」
「何?」
「俺、好きな人がいるから。もちろん陽向じゃなく」
困ったような、照れたような。暗いせいで分かりにくいが、翔太の顔が少し赤い。
「……そうなんだ」
意外だった。意外だったが、嘘ではなさそうだ。
詩織の口から、つい本音が漏れた。以前、翔太と陽向に対して感じていたこと。
「羨ましいな」
「何が?」
「宮川君に好かれてる人が」
誠実で、真面目で、努力家。少し喧嘩っ早いところはあるかも知れないけど、優しい。そんな翔太なら、好きな人を心から大切にするだろう。もしその人と付き合えたなら、命を賭けても守ろうとするだろう。
――全然違うな。
五味とは、全然違う。
「あ……」
詩織の口から、声が漏れた。
そうか、と思った。今さらながらに気付いた。
自分は、五味が好きだったわけではない。ただ、縋っていただけだ。依存していただけだ。自分が望む言葉をくれる、彼に。だから、彼が他の女と寝ても、それほど嫉妬しなかった。だから今、翔太に好かれているという女の子が、心の底から羨ましい。
「羨ましいな」
詩織は再度、同じ言葉を繰り返した。
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