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「少し遊ぶくらいいいだろ? 楽しませてやるからさ」
校舎を囲む塀に、追い詰められた女性。
絡んでいる男は、嘲笑するような声で彼女に言った。顔の向きを少し変えて、連れの女に同意を求める。
「なあ? 里香」
「そうそう。楽しもうよ」
三人に、翔太は早足で近付いていった。
男の姿がはっきりと見えてきた。街灯に照らされた顔立ちは、驚くほど整っている。もっとも、翔太にとっては、不快感以外を抱けない顔だった。
五味秀一。翔太の好きな人──三田詩織の、彼氏。女癖の悪い遊び人。近くにいる里香と呼ばれた女は、五味の遊び友達だろう。夜の遊びも共にする友達。
翔太の好きな人は──詩織は、おとなしい女性だ。優しくて、無口で、どこか自信なさげで。
詩織の優しさを知ったときから、翔太は、彼女を目で追っている。一年のときから、ずっと。今では、詩織の姿をいつでも頭に思い浮かべることができる。
眼鏡を掛けた、おとなしそうな容貌。陽向よりも小柄な体。可愛らしい顔をしているのに、無口で自己主張をすることもないから、まったく目立たない。
休み時間は、いつも小説を読んでいる。電子書籍が割と一般的になっている昨今でも、詩織が読んでいるのは紙媒体の本。文庫本の1ページ1ページを慈しむようにめくるその姿は、指の動きから穏やかな表情まで、全て可愛い。
五味と付き合っている詩織は、決して幸せそうには見えなかった。付き合っているというよりも、五味に服従している、という印象を受けた。
翔太はさらに足を速めた。彼等に近付く。
五味に絡まれているのは、花井美智だった。同じクラスの友達。女子バスケットボール部。今は部活の帰りなのだろう。
綺麗な顔立ちの美智は五味に目をつけられ、付きまとわれていた。
五味には、詩織という彼女がいるのに。
翔太の心に、怒りにも似た不快感が湧き出てきた。
──三田さんと付き合ってるのに!
「おい」
翔太は三人に接近して、低い声で呼びかけた。
「露骨に嫌がってる花井さんに、何してんだよ? チンピラか、お前」
「あ?」
ドスを効かせた声を出しながら、五味が翔太の方を向いた。
「何、あんた」
里香は、面倒そうな顔で睨んできた。
翔太とは面識のない女だ。金色に近い茶色の髪の毛。その根元は、後から生えてきた髪の毛で黒くなっている。里香を見た翔太は、自分の学校の生徒ではないとすぐに分かった。こんな女は、校内で見たことがない。
里香は、明らかに喧嘩腰だった。
彼女に比べて、五味はやや腰が引けている。面白くなさそうに舌打ちした。
翔太は、校内では割と有名人だ。ボクシング部のない学校で、インターハイで好成績を収めた。始業式の時には、ステージ上でインターハイでの成績を発表された。
五味も、翔太のことを知っているのだろう。
「なんだよ、ボクサー」
美智から少し離れて、五味は、翔太の方に体を向けた。身長は一七五センチほどか。翔太よりも七、八センチほど大きい。体重も翔太よりあるはずだ。しかし、素人だ。
「邪魔すんなよ。こっちはこっちで楽しんでんだからよ」
「楽しんでんのはお前達だけだろ。明らかに嫌がられてんのが分からないのか? 脳ミソ正常か? そんな頭で、よくウチの高校に入れたな」
「あぁ?」
再度、五味はドスの効いた声を出した。しかし、必要以上に接近してこない。ボクサーである翔太を警戒しているのだろう。
「調子に乗るなよ、ボクサー。お前が俺に手ぇ上げたら、出るとこ出んぞ?」
「好きにしろよ──」
翔太がボクシングをしている目的は、試合に出るためでも、名誉を得るためでもない。五年も打ち込んできたボクシングは、確かに好きだ。好きだが、理想としている自分を捨ててしまうほどではない。
誰かを守れる自分になりたい。誰かを助けられる自分になりたい。陽向のように。
「──お前が出るとこ出るって言うなら、しばらくまともに喋れない体にしてやるよ。顎を徹底的にぶっ壊してな」
街灯の光と、月明かり。薄暗い校舎の前で、翔太はしばらく五味と睨み合った。
先に根を上げたのは、五味だった。苦し紛れに、再度舌打ち。
「行くぞ、里香」
「ええ? やっちゃうんじゃないの?」
「いいから行くぞ」
「はいはい」
里香を連れて、五味は夜道に消えていった。
立ち去る五味達の背中。苛立つ背中。
五味は、翔太の好きな人と付き合っている。それなのに、美智に付きまとっている。隣に、遊び相手の女を連れて。
翔太は、つい、五味の背中に挑発的な言葉を投げかけたくなった。胸の中にある不快感を吐き出すように。けれど、必死に堪えた。そんなことをしても、虚しいだけだ。
自分を落ち着かせるように大きく深呼吸をして、翔太は美智の方に向き直った。
「大丈夫か、花井さん」
「あ、うん、ありがとう」
美智は、安心したように笑顔を見せた。やっぱり美人だ、と思う。バスケットボールをしているからだろうか、身長は翔太より高い。美人な上に、スタイルまでいい。正直なところ、五味に付きまとわれるのも理解できる。納得はできないが。
「じゃあ、送るよ」
翔太も疲れているが、かといって、美智を一人で帰らせるのも心配だった。
「いいの? 宮川君、今、練習帰りなんでしょ? しかも、試合前なんだよね? 疲れてない?」
「大丈夫だよ。あいつがまた出てくるかも知れないしな」
美智と並んで、翔太は歩き出した。彼女の家は徒歩圏内らしい。翔太の家とは方向が違っていたが。
街灯に照らされる夜道。翔太はジムワークで、美智は部活で疲れている。並んで歩いていると、互いの汗のにおいが分かる。
歩きながら、美智が会話を切り出してきた。
「ありがとうね、宮川君。本当に困ってるんだ、五味には」
「だろうな。何考えてんだか。一緒に連れてたの、五味の遊び相手だろ。セフレみたいな感じの」
「そうだと思う。あの女、言ってたし。『なんなら三人でやってもいいから』って」
「気持ち悪いな」
「本当だよ」
どんな神経をしていたらそんな誘い方ができるのか。『脳ミソ正常か?』という先ほどの問いを、もう一度五味に向けたくなった。
詩織と付き合っていながら、里香と遊んで、さらに美智も口説いている。
――クズが。
翔太は胸中で吐き捨てた。言葉の中に自分の嫉妬心が混じっていることを、自覚しながら。
「ねえ、宮川君」
「何だ?」
「格好良いよね、宮川君って」
「は?」
唐突に言われた美智の言葉に、つい間抜けな声が漏れた。
「颯爽と現れて、女の子を助けて。ボクシングでは全国レベルの強豪で、成績は学年でも常に三番内に入ってて」
どれも事実である。ついでに言うなら、テストの順位が三番に落ちたのは、今までで一度だけだ。三十八度の高熱を出しながらテストを受けたとき。そのとき以外は、常に一位を保っている。
とはいえ、面と向かって褒められると、つい照れてしまう。翔太は、どんな反応を見せればいいか分からなかった。
必死に勉強をしているのも、必死にボクシングをしているのも、目標があるからだ。
理想とする自分になりたい。陽向のように、誰かを助け、守れるような人間になりたい。
いつか、吸血鬼すら守れる人間になりたい。
国家レベルで管理と監視をされている吸血鬼すら守る。そのためには、国の中枢で働ける人間になる必要がある。どんな状況でも物怖じしない強さと胆力が必要だった。
必要だから頑張っている。翔太にとっては、それだけなのだ。
ひとしきり翔太を褒めた後、美智は、当たり前のように言った。
「はっきり言うけど、奪えばいいのに、なんて思うよ」
「?」
美智の言葉の意味が分からず、翔太は彼女の方を見た。少しだけ、見上げるような格好になった。
「奪うって、何が?」
「だから、詩織を五味から奪えばいいのに」
「──はぁ!?」
夜道で、つい大きな声を出してしまった。翔太は、詩織に惚れていることを美智に話したことはない。
「いや、あの、はい? 何で?」
「好きなんでしょ? 詩織のこと」
「いや、だから、何で?」
動揺のあまり、何で知ってるんだ、というところまで言葉を続けられない。
翔太の意図を察してくれたのか、美智は、あっさりと白状した。
「陽向に聞いた」
「あいつ、口軽過ぎだろ。フワッフワだろ。口が宙に浮くわ」
大きく溜め息をついて、顔を押さえる。今が夜でよかった。明るい場所だったら、赤面していることに気付かれてしまう。顔が熱い。
美智は楽しそうに笑った。
「私ね、宮川君って陽向と付き合ってるんだと思ってたんだよね。そのことを陽向に話したら、つい、って感じで口を滑らせてたの。『違う、付き合ってない。あいつは詩織が好きなんだから』って」
「あいつ、絶対、誘導尋問とかに弱いだろ」
再度、翔太は溜め息をついた。
恥ずかしいやら、気まずいやら。そんな翔太の心境を知ってか知らずか、美智は続けた。
「だから、奪えばいいと思うよ。五味なんかより、宮川君と付き合った方が絶対にいいもん」
「……」
返答に困った。頭を働かせた。咄嗟に、誤魔化しの回答を口にした。
「誰かから何かを奪うなんて、好きじゃないんだよ。もし三田さんが俺と付き合ってくれるなら、奪うんじゃなく、三田さんの意思で五味と別れて、付き合ってほしい。略奪なんてのは、何か汚くてな」
「そうかなぁ。詩織にとっても、あんなのと付き合ってるより、絶対にいいと思うけど」
納得いかない、という様子で美智の表情が曇った。すぐに、その表情が変わった。綺麗な顔に、明るさが見えた。
「そうだ」
「何だ?」
「宮川君さ、もうすぐ試合なんだよね?」
「ああ。今週の金、土、日と」
「じゃあ、応援に行くよ。詩織を連れて」
「……は?」
「格好いいとこ見せてあげなよ。詩織が、思わず惚れちゃうくらい」
「いや、ちょっと待てよ?」
「いいからいいから。奪うんじゃなく詩織の意思で宮川君を選ぶんならいいんでしょ?」
「いや、そうだけど」
「じゃあ、決まりだね」
断る隙すらない。
翔太にとっては恥ずかしい上に気まずい会話をしているうちに、いつの間にか、美智の家に着いていた。住宅街の一軒家。
「じゃあ、試合、頑張ってよ」
一方的に言って、美智は手を振って家の中に入っていった。玄関のドアを閉める前に、最後にもう一度「今日は本当にありがとうね」と言っていた。
美人で、スタイルもよくて。しかも、多少強引なところもあるけど、いい子だ。そりゃあ、モテるよな。三度目の溜め息をついて、翔太はそんなことを考えた。
美智の家に背を向けて、再び帰路につく。
胸の中には、少しだけ罪悪感があった。美智に嘘をついた、罪悪感。
五味と詩織を別れさせようとしないのは、奪うのが嫌だからではない。五味と別れた方が、絶対に詩織のためだ。そう断言できる。
それを詩織に直接言わないのは、嫌われたくないからだ。
誰だって、自分の好きなものは否定されたくない。詩織が五味にどんな魅力を感じているのかは分からないが、好きだから付き合っているのだろう。
そんな詩織に対して五味を否定する言葉を伝えると、どうなるか。決まっている。彼女に嫌われるだろう。
詩織が好きだ。だから、嫌われたくない。だから、五味から彼女を奪うような行動ができない。
何もできない自分が悔しくて、歯がゆくて、五味に嫉妬していた。
それでも詩織のことが好きで、いつも彼女を目で追っていた。
『応援に行くよ。詩織を連れて』
美智の言葉が、翔太の頭の中で再生された。
言われたときは少し困ったが、これはチャンスかも知れない。
自分の試合を見せることで、詩織に、少しでも意識してもらえたら。彼女の気持ちが、ほんのわずかでも自分の方を向いてくれたら。
気持ちが高揚してきた。
自分でも気付かないうちに、翔太は、早足になっていた。
試合の日が楽しみになってきた。
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