第三十二話 すれ違っていた気持ちが、ようやく出会う

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 詩織の視界の中に、翔太がいる。  彼はじっと、詩織を見つめていた。「羨ましい」と繰り返した詩織を。やがて、どこか躊躇(ためら)いながら、その口を開いた。 「本当にそう思う?」 「何が?」 「俺に好かれてる人が羨ましい、って」 「本当だよ」  詩織は目を閉じた。口元が、少し緩んだ。閉じた瞼に浮かぶのは、好きな人を大切にする翔太の姿。ちょっとしたことで心配してしまって、いつも気遣って。もし彼が結婚したなら、これ以上ないくらいの愛妻家になるのだろう。子供ができたら、いつも奥さんと子供を気に掛けるのだろう。  閉じた目を開けて、詩織は翔太を見た。緩んだ口元は、そのまま。彼に、正直な気持ちを告げた。 「本当に、宮川君に好かれてる人が羨ましい。凄く大切にしてもらえそう」 「じゃあ――」  翔太は、詩織から視線を逸らした。瞳を斜め上に向けた。相変わらず、顔がほんのりと赤い。 「もし、俺がその人に告白したら、付き合ってもらえると思うか?」 「即答で付き合ってもらえると思うよ」  翔太の告白を断る人の、気が知れない。 「そっか。じゃあ……」  翔太の視線が、詩織の方に戻ってきた。それだけじゃない。彼の顔が、詩織の方に迫ってくる。五味のような二枚目ではない。けれど、どこか安心する顔立ち。優しげな童顔。  翔太の顔が、詩織の眼前まで迫ってきた。  胡座(あぐら)をかいたままこんな体勢になれるなんて、体、柔らかいんだな。  そんなどうでもいいことを、詩織は考えていた。  触れ合うほど近付いてきた、翔太の顔。近付きすぎて、もう、彼の顔全体が見えない。  そして。  詩織と翔太の顔の一部が、本当に触れ合った。  唇と唇が、重なった。 「……!?」  自分の唇に触れた、翔太の唇。舌を絡め合う、情欲に満ちたキスではない。五味としていたキスとは違う。  唇が触れ合うだけの、どこか遠慮がちなキス。  詩織は、一瞬、何が起きたのか理解できなかった。頭の中で、ここまでの流れが再生されていた。  翔太には、好きな人がいる。それは陽向ではない。好きな人に告白したら付き合ってもらえるだろうかと、顔を赤くして聞いてきた。付き合ってもらえると詩織が返答したら、彼は顔を近付けてきた。彼の童顔がどんどん近付いてきて。近付きすぎて、顔全体が見えなくなって。  詩織と翔太の唇が、重なった。  翔太の唇は少し乾燥していて、カサカサしていた。  その感触で、詩織はようやく現状を理解した。  翔太にキスをされた。  詩織の唇から、翔太の唇が離れた。翔太の顔全体が、詩織の目に映った。先ほどよりも赤い、彼の顔。照れたような、それでいて恥ずかしそうな顔。童顔のせいで、拗ねた少年のようにも見えた。 「言葉で伝えるのも照れるから、こんなことしたけど。えっと、ごめん。とにかく、その――」  翔太の顔が、さらに赤くなった。もう真っ赤だ。 「――俺が好きなの、三田さんなんだ」  詩織はすでに、現状を理解している。翔太の言葉も、頭の中に入ってきている。翔太は詩織が好き。そう言われた。でも、信じられなかった。 「嘘……」 「嘘でこんなことは言わないよ」 「じゃあ、冗談?」 「冗談でもない」 「それじゃあ、正気?」 「嘘じゃないし冗談でもないし正気だよ」 「……」  言葉に詰まった。詩織の目元が少し動いて、また涙が流れてきた。  驚いた。驚いたと同時に、嬉しかった。ずっと、翔太と陽向は恋人同士だと思っていた。二人を見て、羨ましいと思っていた。仲睦まじい彼等に、憧れてさえいた。  そんな翔太に、告白された。そんな翔太に「好き」と言ってもらえた。  かつて、五味にも同じ言葉を言われた。苦しみながらも縋っていた言葉。絶望の淵に堕ちても、離せなかった言葉。  同じ言葉でも、全然違う。言葉に込められた気持ちが。言葉にある意味が。言葉にある誠実さが。  心に染み入る温かさが。  あまりの嬉しさで、また涙が出た。もうすぐ死刑になる自分が、人生の最後の最後で、これ以上ないくらいの幸福に恵まれた。  だから、嬉しくて涙が出た。  同時に、悲しかった。  こんな幸福に恵まれたのに、自分は、そう遠くないうちに死ぬ。死刑になる。もっと生きていたいのに。死にたくないのに。  もっと、翔太と話してみたいのに。  だが、自分は、決して許されないことをした。自分のせいで友達が殺された。自暴自棄になって、挑発してきた女を殺した。つい先ほど、恋人を死に追いやった。  人を殺しておいて死にたくないなんて、我ながら身勝手だ。そんなことなど、許されるはずがない。甘んじて死を受け入れなければならない。  だから、悲しくて涙が出た。  泣き出した詩織を見つめて、翔太は困った様子になった。 「ごめん。もしかして、嫌だったか?」  そんなわけがない。詩織は首を横に振った。 「違うの。嬉しいの。凄く嬉しいの」 「じゃあ、なんで……?」  詩織の口から、嗚咽が漏れた。両手で、眼鏡の上から両目を押さえた。上手く声が出せない。それでも必死に、しゃくり上げながら翔太に伝えた。 「私、もうすぐ、死んじゃうんだよ? 絶対に、死刑になる。だから。だから、宮川君に、好きって、言ってもらえて、嬉しくて……でも、もうすぐ、死んじゃう、から……悲しいの……」  死にたくない、とは言えなかった。そんなことなど許されない。自分のせいで死んだ人達だって、生きたかったはずなのだ。死にたくなかったはずだ。それなのに殺された。自分だけ生きたいなんて、許されるはずがない。  翔太は、詩織の額に手を当てた。彼の左手。優しく、詩織を撫でてくれた。 「俺が三田さんと戦う前に言ったこと、覚えてるか?」 「?」  涙を拭いて、詩織は両目から手を離した。  目の前には、優しげな翔太の童顔。彼の目には、強い意志があった。 「言っただろ。死なせない、って。言った以上はやる。絶対に、三田さんを死なせない」  言うと、翔太は、左手で詩織の頭を支えた。 「直接地面の上で悪いけど、少しの間、横になっててくれ」  詩織を地面に降ろし、翔太は立ち上がった。左手で、スマートフォンをポケットから取り出す。画面は閉じられていないようだ。ボンヤリと明るい。  翔太は詩織の前でしゃがみ込み、スマートフォンを渡してきた。 「悪いけど、カメラを俺の方に向けててくれないか? 俺、今、右手使えないから」  苦笑しながら、翔太が右手を見せてきた。手の甲が大きく腫れていた。それだけではなく、人差し指と中指が、変な方向に曲がっていた。 「宮川君、それ……!?」 「ああ。さっき、右を打ったときに折れた」  さらりと翔太は言ってのけたが、明らかに軽い怪我ではない。確実に数カ所骨折している。 「ゾンビ化した力でパンチを当てたんだから、当然こうなるよな。まあ、想定内の怪我だよ」 「……大丈夫なの?」  聞いた後で、詩織は、自分の質問の間抜けさに気付いた。数カ所も骨折していて、大丈夫なはずがない。つい先ほどまで彼を殺そうとしていた自分が、何を言っているのか。 「死ぬような怪我じゃないから、大丈夫だよ」  翔太は笑顔で答えた。彼の顔が、月明りに照らされている。大量の汗が浮き出ていた。この汗は、戦いで出たものだけではないだろう。激痛のせいでにじみ出てくる、冷や汗。 「……宮川君……」  彼の名を呼んだが、言葉を続けられない。詩織は強く唇を噛んだ。自分のせいで大怪我をした翔太。自分を好きだと言ってくれた翔太。自分を死なせないと言ってくれた翔太。そんな彼に、どんな言葉をかければいいのか。 「そんな顔するなよ。大丈夫だから。ただ、カメラだけは俺の方に向けててほしい。三田さんを助ける(かなめ)になるはずだから」  翔太の言葉の意味は、詩織には分からない。ただ、彼の言うことに従おう。助かりたいから、ではなく。自分のせいで彼は怪我をしたのだから、少しでも埋め合わせをしたい。  立ち上がると、翔太は周囲を見回した。夜のグラウンド。転がっている五味の死体。右足と左腕を骨折して倒れている、陽向。  翔太は大きく息を吸うと、どこへともなく、大声を張り上げた。 「飯田先生! どっかに隠れてるんだろ!? 出てこいよ!」
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