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第三十三話 背中に、親友と好きな人を背負って
すっかり気温が低くなった、十一月。
夜のグラウンド。
冷たい地面の上で、翔太は胡座をかいている。自分の足に詩織の頭を乗せて、彼女を寝かせている。
たった今、詩織にキスをした。ずっと胸に秘めていた気持ちを、打ち明けた。
詩織が好きだ。
翔太が気持ちを伝えると、詩織は泣き出した。ボロボロと、大粒の涙を流している。可愛らしい彼女の童顔が、クシャクシャになっていた。
もしかして、自分にキスをされて嫌だったのだろうか。思い切って告白したことを、翔太は少しだけ後悔した。
「ごめん。もしかして嫌だったか?」
しかし詩織は、翔太の足に頭を預けながら、首を横に振った。
「違うの。嬉しいの。凄く嬉しいの」
それなら詩織は、自分の告白を受け入れてくれるのだろうか。そんな期待が、翔太の胸の中で高まった。だが、彼女は泣いている。悲しそうに。辛そうに。
「じゃあ、なんで……?」
なんで泣いてるんだ?
最後を濁した、翔太の質問。
しゃくり上げながら、詩織は言葉を紡いだ。
「私、もうすぐ、死んじゃうんだよ? 絶対に、死刑になる。だから。だから、宮川君に、好きって、言ってもらえて、嬉しくて……でも、もうすぐ、死んじゃう、から……悲しいの……」
詩織の言葉は、何度も途切れていた。それでも、一生懸命、自分の気持ちを翔太に伝えてくれた。
「……」
翔太は、左手で詩織の額に触れた。彼女を落ち着かせたくて、優しく撫でた。心の中で、決意が固まってゆく。
いや。決意はとうに固まっていた。その決意が、さらに強くなった。
「俺が三田さんと戦う前に言ったこと、覚えてるか?」
「?」
詩織は涙を拭いて、翔太をじっと見つめてきた。
まだ潤んでいる、詩織の目。視線を絡ませるように、翔太も彼女を見つめた。
「言っただろ。死なせない、って。言った以上はやる。絶対に、三田さんを死なせない」
翔太は左手で詩織の頭を支え、そっと地面に降ろした。
「直接地面の上で悪いけど、少しの間、横になっててくれ」
詩織を地面に寝かせて、立ち上がる。左手で、ポケットの中のスマートフォンを取り出した。画面が表示されたままになっている。アウトカメラ――スマートフォンの背面のカメラ――の録画モード。
翔太はしゃがみ込み、スマートフォンを詩織に渡した。
「悪いけど、カメラを俺の方に向けててくれないか? 俺、今、右手使えないから」
言いながら、右手を詩織に見せた。完全に骨折している右手。それも、一カ所二カ所ではない。人差し指と中指が折れている。さらに、手の甲の骨も折れているはずだ。大きく腫れ上がって、手全体のフォルムが丸みを帯びている。
「宮川君、それ……!?」
「ああ。さっき、右を打ったときに折れた」
拳の骨折というのは、一般的に、手の甲の骨折を指す。ナックル部分は頑丈で、そう簡単には折れない。しかし、その周囲にある指や手の甲の骨は、細く脆い。今回の翔太の場合は、手の甲の骨だけではなく、人差し指や中指の付け根まで骨折していた。
「ゾンビ化した力でパンチを当てたんだから、当然こうなるよな。まあ、想定内の怪我だよ」
これは本心だ。だからこそ、詩織との戦いは、一撃で決着をつける必要があった。一発で拳が壊れると、覚悟していた。
「……大丈夫なの?」
「死ぬような怪我じゃないから、大丈夫だよ」
心配そうに聞いてきた詩織に、翔太は笑顔を向けた。
嘘である。大丈夫なんかじゃない。本当は、のたうち回るほど痛い。あまりの痛みで、吐き気すら感じる。さらに、ゾンビ化で得た動体視力を乱用したせいで、眼球が潰れるほど痛い。眼球の痛みのせいか、頭痛まで併発していた。
額に汗が滲む。冷や汗。
「……宮川君……」
心配そうで、辛そうな詩織の顔。唇を強く噛んでいた。好きな人に、こんな顔などさせたくなかった。
「そんな顔するなよ。大丈夫だから。ただ、カメラだけは俺の方を向けててほしい。三田さんを助ける要になるはずだから」
本当は、大丈夫ではない。できることなら、今すぐ救急車を呼んで病院に行きたい。痛み止めでも打って、この激痛から解放してほしい。
喉まで出かかった弱音を、翔太は飲み込んだ。口に出す気も、顔に出すつもりもなかった。
――惚れた女の前で意地張らないで、いつどこで意地を張るんだよ!
自分に喝を入れて、翔太は大きく深呼吸をした。
詩織を止めることができた。ここまでが、翔太がやるべきことの第一段階。これから、第二段階だ。詩織を助けるために、すべきこと。しなければならないこと。
翔太は周囲を見回した。夜のグラウンド。白いサッカーのゴール。転がっている、五味の死体。骨折して倒れている陽向。すぐ側にいる詩織。
自分達以外、誰もいない。
誰もいないように見える。
だが、いるはずだ。
飯田先生と、おそらく数名の公安職員。
彼等は翔太達を監視し、タイミングを計っているのだろう。一度に二人の吸血鬼を消すタイミング。
大きく息を吸って、翔太は声を張り上げた。
「飯田先生! どっかに隠れてるんだろ!? 出てこいよ!」
夜のグラウンドに、翔太の声が響いた。大声を出した振動が、激痛を感じている部分に響いた。骨折した拳。酷使した眼球。目の痛みと併発した頭痛。
詩織の前で格好つけたくて、痛みを我慢している。我慢しているが、痛みの影響がないわけではない。
激痛のせいで、翔太は苛立っていた。
「家を出てからここまでのことは、スマホで録画してんだよ! 出て来ねぇと、今すぐ拡散すんぞ!」
これは半分本当で、半分嘘である。五味や詩織と戦っている場面は、録画できていない。スマートフォンを、カーゴパンツのポケットに入れていた。真っ暗な映像が残っているだけだろう。もっとも、音声は入っているだろうが。吸血鬼のことを語り、戦い、死者が出たことを示す音声。
翔太の大声が、冷たい空気に響いた。余韻のように音が霞み、消えてゆく。グラウンドは、再び静寂に包まれた。
静かな、夜のグラウンド。だからこそ、小さな音でもはっきりと耳に届く。
数名の足音が、翔太の耳に入ってきた。詩織や陽向の耳にも届いているだろう。
校舎の方から聞こえてきた。
翔太は、足音が聞こえてきた方に体を向けた。
校舎の陰から、五名の男達が出てきた。いずれも体格がいい。身長は、小柄な者でも一七五はあるだろう。大柄な者で、一九〇くらいか。皆、黒いスーツを着ている。足には、スーツに不釣り合いなスニーカー。
五人の中の一人は、翔太の顔見知りだった。詩織や陽向とも顔見知りの男だった。
飯田先生。
五人は、互いに距離をおいて翔太を監視していた。多角的に翔太達を監視するため。翔太達と闘争になった場合に、多方向から仕掛けるため。
翔太がゾンビ化してから、おそらく二十分程度。あと四十分くらいはゾンビ化の効果があるはずだ。屈強な男達が相手でも、十分勝てる。たとえ彼等が銃を持っていたとしても。
とはいえ翔太は、彼等と戦うつもりなどなかった。単純暴力での闘争をするつもりはない。
ここからの戦いは、あくまで交渉だ。
「宮川翔太」
飯田先生が口を開いた。機械的な冷たい声。寒い夜の雰囲気に、妙に似合っている。
「いつから俺達がいることに気付いていた?」
「気付いてたんじゃない。知ってたんだよ」
激痛を堪えて、翔太は笑って見せた。こちらの弱みを見せたら、相手につけ込まれる。お前達は、俺の思惑通りに動いているんだ――そう、飯田先生に思わせたかった。
「どういうことだ?」
「簡単なことだ」
翔太は陽向に視線を向けた。手足を骨折している彼女。苦痛で顔を歪めながらも、心配そうにこちらを見ている。早く、怪我の治療を受けさせたい。
陽向を顎で指して、翔太は話を続けた。
「以前に、警察署で話したよな。俺が吸血鬼のことを知ったって、報告したときに。あのとき、あんたは喋り過ぎたんだよ」
「?」
「あんたは、陽向のこと以外にも、陽向の両親や俺のことまで知っていた。陽向があんたに話さないようなことまで。それがどういうことかは、あんた自身が一番分かっているだろ?」
「……」
飯田先生は何も答えない。翔太の言葉が、誘導尋問のように聞こえているのだろうか。
構わずに、翔太は続けた。
「あんたは――もしかしたら、吸血鬼に関わっている公安全員かも知れないけど――、吸血鬼を盗聴してるんだろ? もしくは、盗撮か? それだけじゃなく、吸血鬼の所有物にGPSなんかも埋め込んでたりしてな」
GPSについては単なる憶測だ。だが、公安が吸血鬼を盗聴、もしくは盗撮していることは間違いない。以前の飯田先生の発言から、それが伺い知れる。そして、彼等がこの場に現れたのが、その動かぬ証拠だった。
「陽向や三田さんを盗撮だか盗聴していたあんたは、今日、ここで二人が会うことを知っていた。だからこの場に現れたんだ」
「そうだな」
相変わらず、飯田先生の表情は動かない。満月に照らされている彼の目には、人間らしい光がない。
「知った経緯はどうあれ、俺達は、三田詩織が山陰陽向を呼び出したと知っていた。だからここに来た。罰則を犯した吸血鬼を捕らえるためにな」
「そうかよ」
溜め息交じりに、翔太は声を漏らした。盗聴や盗撮のことはもう明らかなのに、飯田先生は口を割らない。こいつ、口が鉄でできてるんじゃないのか。飯田先生の口の固さに、そんな皮肉すら思い浮かんだ。
「で、あんた達は、これからどうするんだ?」
「三田詩織と山陰陽向を連行する」
「その後は?」
「山陰陽向には、お前をゾンビ化させた罰を受けてもらう。三田詩織は、吸血鬼の力を悪用したものとして罰する。ほぼ間違いなく死刑になるだろうな」
「……」
飯田先生の回答は、翔太の想像通りだった。
彼の回答を、これから覆す。そのために、翔太は準備をしてきた。
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