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第三十四話 自分の気持ちを自覚して、好きな人の前では綺麗な自分でいたくて
泣きたくなるほどの激痛。右足と左腕が折れている。
秋の冷たい空気が、痛みをさらに大きくしているように感じる。
飯田先生達に囲まれたこの状況が、痛みに加えて恐怖も生み出していた。
薄暗い、夜のグラウンド。
陽向から少し離れたところで、翔太と飯田先生が言葉を交わしている。単純暴力ではない、思考と言葉の戦い。
彼等の姿を目にして。彼等の言葉を耳にして。
陽向は、不思議な気分に包まれていた。翔太と飯田先生の会話が進むごとに、痛みも恐怖も薄れていく気がした。
それくらい、翔太が頼もしい。
「いいから答えろ!」
飯田先生が、大声を張り上げた。あんな様子の彼は、今まで見たことがなかった。冷徹で冷酷で、冷静な機械。そんな彼の仮面が、剥ぎ取られていた。翔太によって。
――凄いな。
痛みも忘れて、陽向は胸中で呟いた。思い出すのは、小学校六年の出来事。三人の高校生から、翔太を助けたときのこと。
『なあ、どんなふうに鍛えたらそんなふうになれるんだ!? 俺も、えっと──山陰?──みたいになりたい! 教えてくれよ!』
少年らしい純粋さと素直さで、翔太は陽向を絶賛していた。暗い日陰の世界で、俯いて生きていた陽向。そんな陽向を、尊敬してくれた。
陽向が吸血鬼だと知っても、翔太は変わらなかった。陽向を尊敬し続けてくれた。
『俺はただの人間だからな。それでも──ただの人間でも、得られる強さがあるはずだから』
翔太は、自分なりのやり方で、できる限りの努力で、自分を高め続けていた。努力が実って強く賢くなっても、陽向を尊敬してくれた。
――凄いな、翔太は。
骨折の痛みを忘れている。翔太のお陰で、もう、飯田先生達に対する恐怖もない。それなのに陽向は、なんだか泣きそうだった。
「どうする? 飯田先生。陽向や三田さんを罰して、吸血鬼の存在を世界レベルで拡散するか? それとも、陽向と三田さんと、ついでに俺の安全も保証して、今まで通り機密保持に努めるか」
翔太の言葉に、飯田先生は何も言い返せなかった。言葉に詰まって、顔を歪ませている。あの飯田先生が。
無意識のうちに、陽向の声が漏れた。静かな、冷たい空気に消えてしまいそうな声。
「翔太」
陽向はずっと思っていた。翔太のお陰で、自分は明るく生きられるようになったと。翔太のお陰で、生きていることが楽しいと。
翔太は、自分にとって恩人であり、掛け替えのない親友。そう、思い続けていた。
だけど、それだけじゃない。
陽向の目から、一筋の涙が流れてきた。
自分はあまり泣かないと、陽向は自覚している。正確に言うなら、人前で泣くのが嫌なのだ。だから、泣きそうになっても堪えている。
それなのに今日は、二回も泣いてしまった。先ほどは、翔太が殺されると思って、怖くて。
そして、今は……。
翔太は恩人であり親友。それは間違いない。間違いではないが、正解でもない。恩人と親友のほかに、もうひとつの大きな気持ち。今まで見えていなかった自分の気持ちに、陽向は初めて気付いた。
飯田先生達が姿を現す前。翔太は胡座をかいて、自分の足に詩織の頭を乗せていた。彼女と語りながら、キスをした。自分の気持ちを伝えていた。
大切な親友が、好きな女の子に気持ちを伝えた。告白された詩織も「嬉しい」と言っていた。恩人であり親友である翔太の、恋愛の成就。本来なら、祝福すべきこと。
でも、喜べなかった。苦しかった。右足の痛みよりも、左腕の痛みよりも、胸の痛みの方が大きかった。
ギュッと締め付けられるような、胸の痛み。胸の痛みで、鼻の奥がツンと染みる。堪えても、涙が出てしまう。
ようやく、陽向は気付いた。気付いてしまった。
――私は、翔太が好きだったんだ。
好きな人が頼もしくて、嬉しい。
好きな人が自分を守ろうとしてくれて、嬉しい。
親友の恋愛が成就しそうで、嬉しい。
でも、その親友を好きだと気付いてしまって、苦しい。
翔太に守られて、安心して、もう恐怖は感じない。治っているわけではないのに、腕や足の痛みも感じない。
けれど、胸の痛みはどんどん強くなる。苦しくて、苦しくて、涙が止まらない。
「……時間をよこせ、宮川翔太。俺の一存で決定できることではない」
飯田先生が、翔太に要求した。彼らしくない口調と声。ガラス玉の目を持つ機械は、そこにはいなかった。
「じゃあ、とりあえず、陽向の治療をしてくれ。腕と足が折れてるはずだ。あと、三田さんも休ませろ」
「ああ」
「もちろん、治療するフリをして殺すなんて、厳禁だ。そんなことがあったら、動画は、予約を待たずに拡散する」
「分かってる。俺達が乗ってきた車があるから、乗れ」
「ああ、あと」
「なんだ?」
「ついででいいから、俺の治療もしてくれると有り難い。右手がぶっ壊れた」
「……いいだろう」
飯田先生は、どこか疲れているように見えた。初めて見る、人間らしい彼。人間らしい表情で、周囲の公安職員に、車をグラウンドに入れるよう指示していた。
飯田先生に背を向け、翔太は、横になっている詩織に手を差し出した。当然、左手。
「三田さん。大丈夫か? 立てるか?」
「……うん」
ゆっくりと上半身を起こし、詩織は目元を拭いた。彼女も泣いていたのだろう。
詩織の涙の理由に、陽向は、なんとなく気付いていた。
詩織が翔太の手を握り、立ち上がった。少しだけ翔太と見つめ合った。すぐに、ハッとしたように陽向の方を向いた。
陽向と詩織の目が合った。
陽向は慌てて涙を拭いた。
詩織は、陽向に駆け寄ってきた。すぐ近くに来て、足を止めた。横になっている陽向を、じっと見つめた。やがて、陽向の目の前で、両膝を付いた。
「謝って許されることじゃないけど……ごめんなさい、陽向ちゃん」
「……」
気にしてない。大丈夫だ。そんなことなど、言えなかった。
美智が殺されたことを責めるつもりはない。もちろん、彼女が無残な死を遂げたことは悲しいし、悔しいし、許せない。けれど、諸悪の根源は五味だ。五味にいいように使われた詩織は、ある意味で被害者とも言える。
何より陽向は、詩織の気持ちが分かるのだ。吸血鬼として生まれ、自分を否定する価値観を擦り込まれ、常に俯きながら生きる人生。そんな中で自分を認めてくれる人に出会えたら、縋りたくもなる。依存したくなる。
もし陽向が、翔太に出会わず、五味に出会っていたら。もし、詩織のように五味に口説かれていたら。もしかしたら、陽向も、詩織と同じことをしたかも知れない。
詩織にとっての五味は、陽向にとっての翔太だったのだ。自分が求めているものを、くれた人。詩織に共感できるから、陽向は、彼女を責めることなどできない。
けれど、翔太を殺そうとしたことだけは許せない。結果として翔太は生き延びたが、それでも。
「……ごめんなさい……」
無言の陽向に、詩織は謝り続けた。
「陽向ちゃんが私を殺したいなら、殺してもいい。それだけのことをしたから。私だって、陽向ちゃんを殺そうとしたから。だから……」
詩織に遅れて、翔太もすぐ側まで来た。彼は何も言わない。謝罪する詩織と、無言の陽向を見守っていた。その目は、誰よりも苦しそうだった。
陽向は小さく溜め息をついた。悲しそうな詩織と、苦しそうな翔太。彼等を見て、気付いてしまった。
詩織を許せないのは、翔太を殺そうとしたから――だけじゃない。そんな、利他的な気持ちだけじゃない。
――詩織に嫉妬してるんだ、私。
胸中で呟いて、また泣きたくなった。流れ落ちそうになる涙を、なんとか堪えた。もうこれ以上泣きたくない。
「ねえ、詩織」
「……はい」
「とりあえず私さ、右足と左腕が折れてるんだわ」
「……ごめんなさい」
「いや。謝らなくていいからさ。頼まれてくれる?」
「何でも言って」
嫉妬はある。でも、それを理由に、詩織を責めたくない。美智のことでも責めたくない。翔太を殺そうとしたことは、確かに許せない。でも、翔太本人が許しているなら、陽向に責める資格はない。
陽向の胸に渦巻く、嫌な気持ち。利己的な嫉妬。詩織を見つめながら、陽向は、自分の気持ちを抑え込んだ。自分を尊敬してくれる人の前で――好きな人の前で、醜い自分になりたくない。
「とりあえずさ、肩貸して。ひとりで歩くの、大変だから」
「……うん」
詩織は、ボロボロと涙を流した。悲しさと罪悪感。そんな気持ちが見て取れる涙だった。大粒の涙で顔を濡らしながら、それでも立ち上がって、陽向を立ち上がらせた。肩を貸してくれた。
今の詩織は、陽向の知っている詩織に戻っていた。大人しくて、優しくて、自信なさげで、可愛らしい。翔太が、ずっと想い続けていた女の子。
二台の車が、グラウンドに入ってきた。公安職員の車。
詩織の肩を借りながら、陽向は、車まで足を進めた。左足だけで前進するのは、なかなか難しい。
詩織は、陽向の怪我に負担をかけないよう気を遣っていた。涙はまだ止まっていない。それでも彼女は、陽向の足下や腕を注意深く見ている。
いい子なんだ。本当に。だからこそ、翔太にこんなに好かれているんだ。
「詩織」
詩織の肩を借りながら、陽向は声をかけた。
「何?」
「もうひとつ、頼んでいい?」
「うん。何でも言って」
ふう、と陽向は息をついた。嫉妬を理由に詩織を責めたくない、とは思う。でも、これくらいは。
「怪我が治ったら、一発、引っ叩かせて」
これくらいの八つ当たりは、許して欲しい。
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