エピローグ・陽向 ~私は太陽のもとにいる~

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エピローグ・陽向 ~私は太陽のもとにいる~

 十二月も中旬になった。  雪が降り、積り、根雪になり、アスファルトの地面が見えなくなっている。  あの日――十一月八日。陽向と翔太、詩織は、公安職員の車に乗せられ、グラウンドを後にした。五味の遺体は車のトランクに入れられた。  運ばれた先は、市内にある大型の国立大学。その広大な敷地内にある、研究所。一般の学生が立ち入ることを禁止されている施設だった。  医学部とはまったく違う区域に設置された研究所だが、医療設備が整っていた。  そこで、陽向は治療を受けた。左腕は折れた骨がズレていて、切開が必要なほどの重傷だった。  吸血鬼の皮膚を人の手で切開するのは不可能なので、レーザーメスを使った。骨と骨を合わせ、機械を使ってボルトで固定した。切開と同様に、吸血鬼の皮膚を縫い合わせるのも不可能だった。そのため、医療用テープで切開した皮膚を塞ぎ、固定した。痛いなんて一言では片付けられないほどの激痛だった。  怪我が完治するまで、陽向には絶対安静が言い渡された。飯田先生達は、陽向の身を、信じられないほどに案じていた。翔太の脅しが効いているのだろう。  切開した陽向の皮膚は、一週間ほどで塞がった。テープが剥がされ、大きな傷跡が残った。吸血鬼の傷跡を消す整形技術は、現代の医学にはないらしい。皮膚が丈夫過ぎて、整形のための手術ができないそうだ。  頑丈なのも考えものだ、と思う。  グラウンドでの騒ぎに関して、周囲の住人から、二件の通報があったという。その通報に対しては、こんなふうに片付けられたそうだ。 『非行少年同士の抗争を、警察官が取り押さえた』  陽向達は「何か聞かれても知らぬ存ぜぬを通せ」と指示された。  事件の後に治療を受け、帰宅した後。陽向は、翔太と一緒に、灯に大目玉を食らった。あんなに怒っている母を、陽向は初めて見た。濃度一〇〇パーセントの吸血鬼が怒る姿は、さすがに迫力があった。あの翔太ですら、何の弁解もできずにひたすら謝っていた。  ただ――と思う。灯がそこまで怒るのは、陽向を愛しているからなのだ。愛しているから、危険なことをした陽向を叱る。大切な娘が、二度とこんなことをしないように。  灯とは違い、父親は号泣していた。陽向が死ぬかも知れなかった恐怖と、無事に帰ってきた安堵。そんな彼の感情が、痛いほど見て取れた。  父に対しても、翔太はひたすら謝っていた。  詩織は、陽向の治療をした研究所に収監された。吸血鬼の彼女を、一般の留置所や鑑別所になど入れられない。  詩織はもともと、大人しく優しい女の子だ。収監されている場所で、毎日本を読みながら大人しく過ごしているらしい。ただ、しきりに、飼っている黒猫に会いたがっているそうだ。  十一月の下旬になって、公安の上層部も交えた会議が行なわれた。陽向や翔太、詩織も参加した。  話し合われたのは、陽向や詩織の処遇について。当然ながら、飯田先生の上司らしき人達もいた。  飯田先生は、機械の彼に戻っていた。翔太の前で見せた姿など、嘘のように。  会議の場でも、翔太は、臆することなく周囲の公安職員達を牽制(けんせい)していた。 「あんたらが陽向や三田さんを罰するというなら、俺は即座に、世界中の動画サイトに今回の動画を投稿する。日本だけじゃない。世界中のあらゆる動画サイトを調べて、投稿できるようにしてる。すでに十五年分の投稿予約をしてる。俺が予約を取り消さない限り、予約の時間に自動的に投稿される」  翔太の言葉に対して、会議では、色んな意見が交錯した。  ただの脅しだ。普通の高校生に、そんなアプリやセキュリティを作成できるはずがない。  でも、本当だとしたら? もし本当なら、取り返しのつかないことになる。  本当にそんなアプリがある可能性は低い。だが、わずかでも本当である可能性がある以上、リスクは避けるべきだ。  一連の殺人の犯人は、五味秀一ということでいいだろう。山陰陽向と三田詩織は何も関わっていない。  公安の人達は、吸血鬼の存在の秘匿を最重要視していた。吸血鬼が生かされている本当の理由を知った陽向は、それも当然だと思っていた。  翔太は、吸血鬼の扱いについても意見していた。もっと人間らしく、尊厳を守って生かすべきだ。でなければ、この先、こんな事件が何度も起きることになる。吸血鬼の身近に五味のような人間がいたなら、必ず。  主張、答弁、議論、意見の摩擦。  朝十時に開始された会議は、午後十時になっても終わらなかった。そんな会議が、一週間、連日で行なわれた。  途中から、陽向は、思考を放棄してしまった。話の争点が哲学的な内容にまで発展して、ついていけなくなった。  そんな状況でも、翔太は、周囲の大人に交じって意見を交換していたが。  全員の疲労が濃くなり、誰しもが限界を迎える頃、ようやく結論に至った。  現時点での確定事項。陽向には罰則なし。詩織は、五年ほど研究所に収監され、再教育を受ける。詩織の両親も、詩織とは別の場所で再教育を受ける。  詩織の処遇について、翔太は反論した。どうして詩織が収監されるのか、と。  翔太を(なだ)めたのは、詩織だった。 「宮川君が庇ってくれるのは嬉しいよ。でも、私は、許されないことをしたんだから。償えるなんて思えないけど、少しでも償いたいの。それに、これからは、もう少し強く生きたいの。だから、これでいいと思う」  詩織にそう言われては、翔太も反論できなかった。  こうして、今回の事件は終わりを告げた。  そして――  あれから、陽向の毎日が変わった。  目標ができたのだ。翔太への想いを自覚して。今回の事件をきっかけにして。どうしてもやりたいこと。  そのためには、猛勉強をする必要があった。一日に何時間も勉強するようになった。  苦手な勉強。高校に進学する前は、一生懸命やっていたこともある。翔太と同じ高校に進学するために。高校に合格し、目標を達成してからは、ほとんどしなくなっていた。  でも、また始めた。高校受験に向けたときよりも、もっと必死にやっていた。  漫画ばかりで埋め尽くされていた本棚には、参考書が並ぶようになった。ほとんど使わず綺麗なままだった教科書は、この二週間で、すっかり開き癖がついていた。  翔太に相談して、週三日、彼に勉強を教えてもらうようになった。  そんな日々の、平日。  夜。午後十時半。  今日も、学校から帰ってきてすぐに、陽向は机に向かっていた。勉強から離れたのは、夕食のときとトイレのときだけ。  黙々と、何度も教科書を見返した。問題集を解き、間違えた部分の復習をする。  コン、コン。  部屋のドアがノックされた。  陽向は問題集から目を離した。 「はい?」 「陽向、入っていい?」  灯の声だった。 「うん。何?」  部屋のドアが開いた。  灯が、マグカップを持って部屋に入ってきた。甘い匂いがする。ココアの匂い。 「飲む?」 「うん。ありがとう、お母さん」  灯が、陽向の机にマグカップを置いた。 「ずいぶん頑張るんだね。てっきり、三日坊主で終わると思ってたのに」 「いや、ちょっと。もっと自分の娘を信用しようよ」  陽向は苦笑するしかなかった。 「やりたいことができたの。だからね、勉強しなきゃいけなくて」 「やりたいこと?」 「うん」  マグカップを手にし、陽向は口を付けた。優しくて甘い味。美味しい。糖分を摂取して、頭が冴える。それなのに、温かさで眠気を覚えた。  マグカップを机に置いて、陽向は、自分の両頬をバチンと叩いた。眠気覚まし。 「お母さん。私ね、大学行きたいんだ」  進学校に入学したものの、陽向は、大学に行くつもりはなかった。豊平高校に入ったのは、ただ単に、翔太と一緒にいたかったから。でも、自分の頭では、彼と同じ大学に行けるはずがないと思っていた。それなら高卒で就職しよう、と。  しかし、その考えは一変した。 「翔太と同じ大学に行きたいの」  翔太が狙っているのは、誰もが知っているような有名国立大学。奨学金を借りて進学し、国家公務員総合職試験――いわゆるキャリア――に合格することを目標にしているという。将来、国の中枢に関わる人間になるために。  吸血鬼という生き物の在り方を、変えるために。  そんな翔太の側にいたい。吸血鬼を救おうとする彼を、吸血鬼である自分が支えたい。だから。 「陽向」  灯は、陽向の頭に手を乗せた。 「大丈夫なの? あんた」  陽向の母という立場から、灯は、事件の全容を聞かされている。あの日のグラウンドで、何があったのか。もちろん、翔太が誰を好きなのかも。  同時に、灯はたぶん気付いている。陽向の、本当の気持ちに。  陽向は翔太が好きだ。自分を認めてくれた彼が好き。自分を尊敬してくれた彼が好き。自分と、いつも一緒にいてくれる彼が好き。命を賭けて自分を守ってくれた彼が好き。  自分以外の女性を一途に好きな、翔太が好き。  でも、好きという気持ちだけで、翔太と一緒にいたいわけじゃない。 「お母さん」 「ん?」 「私ね、翔太が好きなんだ」  この「好き」は、単なる恋愛感情だけではない。恋愛感情ももちろんあるけど、それだけじゃない。 「だから、翔太の側にいて、翔太を支えられる人になりたいの。守られるだけじゃなくて、支えられる人になりたいの」  この恋が成就することは、たぶんない。それでもいいなんて、簡単に割り切れもしない。それでも、胸が痛くても、翔太の側にいたい。 「だから、大丈夫だよ」  ニッと、陽向は歯を見せて笑った。  灯は優しく微笑んでくれた。 「じゃあ、頑張りなさい。あんた、地頭はそんなに良くないから、翔太君の倍は頑張んないといけないんだろうけど」 「頭良くないって、実の娘に言う?」  陽向が言葉を返すと、灯は、今度は悪戯っぽく笑った。  頑張ろう、と思う。  翔太に出会うまで、陽向は、日陰の中で生きていた。いつも俯いていた。家族以外の人と話すのが恐かった。家族以外の誰もが、自分を(うと)ましく思っていると感じていた。  そんな自分が変われたのは、翔太がいたから。  明るい太陽の下で、真っ直ぐに前を向いて歩ける。両親が付けてくれたこの名前のように、明るい場所で生きていられる。  そんな自分にしてくれた翔太と、これからも並んで生きるために。  陽向は、苦手な勉強に励む。
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