第三話 見ている人に、見てほしくて

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第三話 見ている人に、見てほしくて

 土曜日。午後一時。  市内にある二階建ての体育館。その一階の、ボクシング室。室内の北側にリングがあり、空いている南側のスペースには、地元のボクシング関係者や観戦者が集まっていた。  ボクシングの国体予選。  試合前のウォーミングアップは、二階にある会議室で行う規則となっている。一般利用者に迷惑をかけないためだ。  ウォーミングアップを終えた翔太は、手持ちのタオルで体を拭いた。汗が(にじ)んでいる。十分に体を温めた。調子は悪くない。  もっとも、リングに上がって相手と対峙するまでは、本当の意味での調子は分からない。相手の動きを、どれだけしっかり見ることができるか。相手のパンチにどれだけ素早く反応できるか。  今日は、国体予選の準決勝。明日は決勝。  昨日の試合で問題なく勝った翔太は、当然のように準決勝にコマを進めていた。  翔太の試合まで、あと二試合ほど。  インターハイでベスト8まで勝ち残った翔太は、大会の優勝候補筆頭だった。他の選手達に研究もされているだろう。得意なパンチ、戦いのパターン、攻略法。対戦相手は、翔太に勝つためにあらゆる戦略を立ててくるはずだ。  それでいい、と思う。体力と、頭脳と、それらを最大限に活かす胆力。そんな強さを翔太は求めていた。自分が理想とする自分になるために。だから、相手がどれだけ入念に準備をしてきたとしても、的確に対処して勝つ必要がある。  翔太は会議室から出て、一階に降りた。  ボクシング室の中は、歓声と熱気で溢れていた。  翔太が出場するのは、五十二~五十六キログラムリミットのバンタム級。今リング上で行われているのは、一階級下のフライ級の準決勝だった。準決勝第一試合。  翔太が今日出場するのは、バンタム級準決勝の第一試合。 「あ、翔太!」  名前を呼ばれて、翔太は声の方を向いた。  クラスメイトが三人いた。陽向と美智。さらに、もう一人。三田詩織。  数日前に、美智に言われた言葉を思い出した。 『応援に行くよ。詩織を連れて』  本当に連れて来たのか。  こちらに寄って来る三人を見ながら、そんなことを思った。三人の中でも、特にその一人に視線を注いでしまう。自分の好きな人に。詩織に。 「試合、これからなんでしょ?」 「まあな。この試合の、次の次」  陽向の質問に端的に答える。どうしても、チラチラと詩織を見てしまう。彼女は、どこか遠慮がちな顔をしていた。 「あの、宮川君」 「えっと……何だ?」  詩織に話しかけられて、緊張してしまう。試合の緊張も入り交じって、変な気分だ。 「美智ちゃんに誘われて来てみたけど、大丈夫だった? 邪魔じゃない?」  邪魔だなんてとんでもない! そりゃあ緊張するし、いい格好をしたいなんて思うけど。でも、それ以上に、試合の日まで詩織と会えたのが嬉しい!  湧き出る本音は、口にできない。 「いや、邪魔なんてことはないよ。まあ、楽しんでもらえる約束はできないけど」 「ありがとう。宮川君って、凄く強いんだよね? 頑張ってね」 「ああ、まあ、できるだけ」  好きな人に「強い」などと言われて、少し照れてしまう。気持ちが浮ついてしまう。やっぱり俺は、この子のことが好きなんだ。自分の想いを実感した。  見ると、陽向と美智が意味深な表情でニヤニヤしていた。 「まあ、頑張りなよ、翔太。大事な試合なんだから。色んな意味で」 「そうだね、宮川君。案外、人生かかってるかも知れないんだから。色んな意味で」  翔太は、三人に聞こえないように溜め息をついた。 「お前等、セリフ合わせでもしてるのかよ」 「まさか」  陽向と美智が、楽しそうに笑っている。  詩織は、頭の上に「?」でも浮かんでいそうな顔で、少し困ったように笑っていた。可愛い。 「とりあえず俺は、もうリングサイドに行くから。また試合後にな」 「うん、行ってらっしゃい」 「宮川君、KOしてね、KO。ルール、よく分からないけど」 「頑張ってね、宮川君」  三人に手を振って、翔太はリングサイドに足を運んだ。  リングサイドには、通っているボクシングジムの会長がいた。翔太のセコンドだ。  フライ級準決勝の第一試合が終わった。  すぐに、フライ級準決勝の第二試合が始まった。  試合の展開は早かった。フライ級の優勝候補の一人が、試合開始早々、相手に強烈なパンチを当てた。すぐに猛ラッシュ。ダウン。レフェリーがカウントを始める。  これはすぐに終わるな。翔太は、自分を落ち着かせるように大きく深呼吸をした。  リング上で、カウント後に試合が再開された。すぐに、ダウンを奪った選手が攻勢をかける。相手は防戦一方になった。  レフェリーが選手に割って入り、試合を止めた。一ラウンド、RSC──レフェリー・ストップ・コンテスト。  リング上で勝利者がコールされた。選手達が、リングから降りる。  入れ替わるように、翔太はリングに上がった。 「バンタム級準決勝に出場する、両選手を紹介します」  アナウンスが入った。 「赤コーナー、宮川翔太君。豊平高校」  まばらな拍手が会場に響いた。翔太に向けられる歓声は少ない。高校にボクシング部がなく、応援に来るのは、ジムの人達のみ。  ちらりと、翔太は観戦スペースを見た。つい、詩織に目がいってしまう。試合に対する気持ちとは違う意味で、心臓が高鳴る。 「青コーナー──」  相手の選手がコールされると、観戦スペースから大きな歓声が上がった。相手は、地元の強豪校の選手だ。同じ部内の選手達が、体育会系をイメージさせる大きな声援を上げた。  コールされたあと、レフェリーからグローブなどのチェックが入る。リング中央に呼ばれ、レフェリーから反則に関する簡単な注意を受けた。相手とグローブを合わせる。試合前の握手のようなものだ。  握手の後、翔太は赤コーナーに戻った。相手も、青コーナーに戻る。  数秒の静寂。  カンッ、とゴングが鳴った。  試合が始まった。  翔太は、赤コーナーからリング中央に足を進めた。  相手も、青コーナーから出てリング中央に向かってくる。  先ほどの陽向と美智の言葉が、翔太の頭に蘇った。 『まあ、頑張りなよ、翔太。大事な試合なんだから。色んな意味で』 『そうだね、宮川君。案外、人生かかってるかも知れないんだから。色んな意味で』  好きな人が見ている。自分以外の男と付き合っている、好きな人が。  詩織の前で、格好つけたい。格好いい自分でいたい。五味への気持ちなんか忘れて、自分に夢中になってほしい。  そんな気持ちが湧き上がってきて、相手から目を離してしまった。観戦スペースにいる詩織を見てしまった。  その直後、目の前が真っ暗になった。すぐに、落下感が翔太の全身を包んだ。一瞬の、でも永遠とすら感じる落下感。暗闇の中、どこまでも落ちてゆくような。  ドサリと、体に衝撃を感じた。視界が正常に戻った。気がつくと、翔太はリングに尻餅をついていた。 「ダウン!」  レフェリーがダウンを宣告した。翔太の目の前で、カウントを始める。 「ワン、ツー、スリー……」  一瞬、何が起こったのか分からなかった。リングに倒れている自分。目の前には、カウントを数えるレフェリー。  パンチを貰ったんだ! ダウンしたんだ! 俺が!  その事実を理解すると、翔太は慌てて立ち上がった。膝が少し震えている。明らかに効いてしまっている。  ダメージがあることをレフェリーに悟られると、試合を止められかねない。翔太は「大丈夫」とアピールするように、レフェリーの前で笑って見せた。ドジを踏んだ自分に、苦笑している。そんなふうに装った。  カウントが「エイト」で止まった。「ボックス!」と、レフェリーが試合再開を宣告した。  チャンスとばかりに、相手が勢いに乗って向かってくる。ボクシングの強豪校の選手。全国に出場しても不思議ではない実力者。  翔太は少し足を踏ん張り、自分のダメージを再度確認した。震える膝。つま先に力が入らない。明らかにダメージが残っている。フットワークを使って逃げようとしても、瞬く間に追い詰められ、攻勢に晒されるだろう。  相手が、手の届く距離まで迫ってきた。
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