第三話 見ている人に、見てほしくて

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 ダメージがある。今打ち合ったら、間違いなくやられる。かといって、ダメージのある足では、回復するまで逃げることも難しい。  どうする!?  翔太が自問している間に、相手がパンチを放ってきた。左のジャブから、右ストレート。  ジャブを右手で払い落とし、ストレートを左腕でブロックした。しかし、足腰が安定しないせいで、少しバランスを崩した。  相手はさらに仕掛けてくる。再度、左から右。  少し後退しながら、翔太はそのパンチを払い落とした。  足腰にダメージがある。すぐ抜けそうなダメージだが、それでも、回復まで十数秒はほしい。もちろん相手は待ってくれないだろう。  パンチを手で払い落とすことはできた。つまり、足腰の機能は低下していても、腕にダメージはないということだ。  それなら──  間を置かず、相手が攻めてくる。  翔太は上半身の位置を低くし、相手のパンチを避けた。そのまま、両腕を相手の背中に回して抱きついた。クリンチ。抱きつくことで、相手にパンチを出させない行為。  クリンチは、ホールドという反則行為だ。たった一度で反則負けになることはないが、やり過ぎると減点される。さらに減点を重ねると、反則負けになる。  チャンスを逃したくない相手は、翔太のクリンチを必死に振りほどこうとしている。  翔太は、相手に抱きつく腕に目一杯力を込めた。時間を稼ぐ。回復までの時間。  クリンチをしながら、舌打ちしたい気分になっていた。  何をやってるんだ!? 俺は!  詩織が来たことで、浮かれていた。彼女にいいところを見せたいと、色気を出した。挙げ句の果てに、戦っている相手から目を逸らすという失態を犯した。  馬鹿か!?  自分を罵る。自分は、こんな馬鹿な奴になりたかったのか!? こんな馬鹿になるために、必死に練習して、必死に勉強してきたのか!?  そんなわけがない。 「ブレイク!」  離れるように指示して、レフェリーが、翔太と相手を引き離した。相手から離れた後、クリンチに対する注意を受けた。  レフェリーの注意に頷きながら、翔太は、足に残っているダメージの具合を確認した。太股に力を入れてみる。膝を少し動かした。つま先で、リングのキャンパスを踏み締めてみた。  動くし、力が入る。まだ完全ではないが、ダメージが抜けてきた。 「ボックス!」  レフェリーが試合再開を指示した。  チャンスを逃がすまいと、相手が再度向かってきた。  翔太はどっしりと構えた。足に踏ん張りが効く。もう大丈夫だ。向かってくる相手に一歩踏み込み、鋭く左ジャブを放った。  バチンッと、相手の顎が跳ね上がった。  右構え──右足と右腕を引くようにして、斜に構える──から、左を真っ直ぐ出すパンチ。左ジャブ。ボクシングを始めたときに、一番最初に習うパンチだ。もっとも基本的でありながら、もっとも多様性があり、使用頻度が高いパンチ。  ボクシングを始めた当初、翔太は、一日に千発のジャブを打つことを自分に課した。ただ打つだけではない。フォームをチェックしながら、相手に向かって最短の軌道を通り、最速で届くように意識して。  その結果、翔太は、右利きにも関わらず左のパンチが得意なボクサーになった。  相手のパンチを避けると同時に、再度ジャブを出す。相手の顔面を弾く。  残っていたダメージも、完全に抜けてきた。  相手が一発パンチを出すごとに、翔太がそれを避けながらジャブを当てる。リング上では、作業のようにその工程が繰り返された。  もう、相手から目を逸らしたりしない。自分が優位になってきても、当然、油断や手加減などしない。  相手にジャブを当てながら、翔太は、頭の中で攻撃設計を組み立てた。これからどのような展開にし、どのように相手を仕留めるか。  翔太のジャブが当たり続けている。しかし、少しずつ、芯が外れてきている。相手が、翔太のジャブに見慣れてきているのだ。翔太の肩口から真っ直ぐ伸びるパンチ。それに、相手の意識が集中している。  翔太のジャブを、相手が頭を動かして避けた。すかさずパンチを出してくる。  翔太はバックステップで距離をおいて、相手のパンチを避けた。  相手がさらに攻勢を仕掛けてくる。  再度、翔太はジャブを放つ。  翔太のジャブに集中している相手は、またも避けた。完全に見切ってきたようだ。  それでも翔太は、繰り返しジャブを打ち続けた。命中率がどんどん下がっている。最初は、打てば確実に当たっていた。それが、二発に一発は避けられるようになり、三発に二発は避けられるようになり。  やがて、ほとんど当たらなくなった。  ジャブを避けた相手が、思い切り踏み込んできた。  翔太の目に、相手の目が映った。見開かれた相手の目。明らかに強打を狙っている。  相手の右手が動いた。渾身の右ストレートを、翔太に伸ばしてきた。  翔太は、相手の右ストレートとほぼ同時に左を出した。ジャブではない。最小限の力と最大限の速度で放った、横から引っかけるパンチ。左フック。  相手の右ストレートが、翔太の左頬をかすめた。  翔太の左フックが、相手の顎を捕らえた。  カツンッという手応えが、翔太の左拳に残った。軽い手応え。まるで、障子を破ったような。  次の瞬間、相手はリングに崩れ落ちた。 「ダウン!」  レフェリーがダウンを宣告し、カウントを始めた。  相手は慌てて立ち上がろうとした。意識ははっきりしているのだろう。だが、立った瞬間に足がもつれて、再びリングの上に倒れた。  脳にダメージがあると、意識がはっきりしていても体は正常に動かなくなる。特に、脳から離れた位置にある足は。結果として足はもつれ、立ち上がることすらままならなくなる。  立ち上がれない相手を見て、レフェリーは、頭上で両手を交差した。 「ボックス・ストップ!」  試合終了の宣告。  翔太の、一ラウンドRSC勝ち。  ボクシング室の観戦スペースから「おおっ」という感嘆の声が上がった。  試合が終わると、翔太は、リング上で勝利者としてコールされた。相手とレフェリーに挨拶をして、リングから降りた。  リング近くにあるドクター席に足を運ぶ。ボクシングは、その競技の性質上、試合後にドクターチェックを受けることが義務付けられている。  ドクターチェックを受けた後、翔太は観戦スペースに足を運んだ。  陽向と美智、詩織がいた。 「お疲れ、翔太」 「ああ、ありがとな」 「まあ、よかったんじゃない。ダウンしたこと以外は」 「本当に凄かったよ、宮川君。ボクシングの試合って初めて見たけど、本当に強いな、って思った。ダウンしたとき以外は」  陽向と美智は、二人してダウンしたことをからかってきた。勝ったからこそ言えることだろうが、それにしても、と思う。 「お前等、やっぱり裏でセリフ合わせでもしてるんじゃないのか? 俺をおちょくる為だけに」 「まさか。ねぇ?」 「うん、被害妄想」  陽向と美智がからかうように言い合い、笑顔を見せた。 「で、どうだった? 詩織」  美智に聞かれて、詩織は、どこか控えめに答えた。 「凄かった。凄い強いね、宮川君。ダウンしたのはびっくりしたけど、それから巻き返して勝ったのが、本当に凄い」 「あ、あー、その……」  好きな人に褒められると、特別に嬉しい。別に痒いわけでもないのに、翔太は頭を掻いた。嬉しいけど、照れる。 「ありがとう、三田さん。こいつらみたいにからかいなしで褒めてくれると、凄く嬉しい」 「ううん。本当に凄かった」  試合中は、詩織に目がいって醜態を晒した。そこは大いに反省すべき点だと思う。それでも、詩織が見に来てくれてよかった。今はまだ告白なんてできないが、こんなふうに好印象を植え付けていって、いつか告白したい。  五味の印象を下げて、自分になびかせるんじゃない。自分の好感度を上げることで、詩織を振り向かせたい。  詩織を見つめながら、そんなことを考えていた。  そんな翔太に、陽向が、素朴な疑問のように聞いてきた。 「でもさ、翔太。あんたが相手を倒したパンチだけど」 「何だ?」 「気のせいかも知れないけど、凄く軽く打ったように見えたんだよね。こんなに軽く殴った程度で、人って倒れるの、っていうくらい」 「ああ、それ」  軽く打ったように見えたのは、陽向の気のせいではない。 「いや、実際に軽く打ったし。なんなら、その前に当ててたジャブよりも軽く打った」 「そうなの?」 「ああ」 「それなのに、なんで相手を倒せたの? しかも、凄く効いてたみたいだし」 「それはな──」  試合時間は短かった。それでも、翔太にとっては、倒すまでの道筋を丁寧に描いた濃密な試合だった。 「まず前提として、人間ってのは、まったく意識してないものには徹底的に弱い。例えば、そうだな──交通事故で後ろから追突された場合は、それほどスピードが出てなくても首を怪我したりするだろ?」 「うん」 「それは、後ろから追突されることがまったく予測できなくて、しかも、見えないからなんだよ。それと同じだ」 「どういうこと?」  聞いてきた、陽向の声  詩織が小さく「そっか」と呟いていたが、陽向の声でかき消された。翔太には聞こえていたが。  どうやら詩織には、翔太が相手を倒した理屈が分かったらしい。  翔太は説明を続けた。 「まず俺は、徹底的にジャブを打った。真っ直ぐ、正面からくるパンチだ。相手の意識は、当然、真っ直ぐに集中する。視界が狭まって、俺のジャブしか見えなくなる。さらに、何度かジャブを当てられたことで、他のパンチに対する警戒心が緩む」 「あ」  陽向も、ようやく分かったようだ。 「つまり、ジャブに集中させることで、他のパンチを視界からも予測からも消した、と」 「ま、そういうことだ」  一瞬のやり取りが交錯するリング上で、戦略を考え、実行する。それは容易なことではない。それでも最近は、できるようになってきた。  自分の理想に確実に近付いている手応え。さらに今日は、好きな人が応援に来てくれた。好きな人の前で勝てた。  ──気分が良くなった翔太は翌日の決勝も圧倒的な内容で勝利し、国体本戦出場を決めた。
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