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第四話 仕方ないと思っていても、辛くて悲しい
夏が過ぎても、まだ暑さは残っていた。空には雲がほとんどなく、太陽が照りつけている。
九月初頭。
日曜日の昼間。時刻は、午後一時くらいだろうか。
詩織は一人で、市街地にある本屋まで足を運んでいた。三階建ての、大きな本屋。参考書から漫画、小説、専門書など、ありとあらゆる本が揃っている。
本来なら、今日は五味とデートの予定だった。しかし、彼に急用ができたらしく、キャンセルになった。
だからこうして、ひとりで本屋まで足を運んでいる。
小説の文庫本コーナーがあるのは、この本屋の二階。エスカレーターに乗って、詩織は二階まで上がった。
陳列されている、多くの本棚。中にぎっしりと詰め込まれた文庫本。
詩織は、本が好きだった。一文字一文字、一行一行読むごとに、物語の世界が頭の中に広がってゆく。ときに楽しく、ときに切なく、ときに苦しい物語の世界。主人公が様々な人と関わり、色んなストーリーを見せてくれる。
最近では電子書籍が一般的になっているが、詩織は好んで紙媒体の本を読んでいた。ページをめくるごとに、新たな世界が広がる。まるで、めくる一枚一枚の紙が、宝箱の蓋のようだった。
蓋を開けた宝箱。その中に広がる物語。小さな本の中に広がるのは、自分なんかには縁のない素晴らしい世界。
自分の人生には、物語のような展開など望めない。自分は、他人と上手に関われない人間だから。関わってはいけない人間だから。
詩織は基本的に、自分から誰かに話しかけたりしない。寂しいけれど、仕方がない。その分だけ、飼っている猫を可愛がっていた。
飼っているのは、去年、事故で死にかけていた猫。当時生後三ヶ月ほどの、野良の子猫だった。
詩織が見つけたとき、その子猫は口から血を流し、失禁し、意識を失っていた。
それでも生きていた。呼吸で、腹が上下していた。
去年の初夏の、暑い日だった。意識を失ったまま、照りつける太陽に熱されていた。死にかけていた。ひとりぼっちで、寂しく。
そんな子猫の姿と自分が重なって、放っておけなかった。思わず詩織は、子猫を抱きかかえた。近くの動物病院に駆け込んだ。子猫の血や小便で服が汚れることなど、気にならなかった。
子猫は一命を取り留め、今では詩織の家で元気に暮らしている。事故などという不幸な目に遭ったその子には、幸福でいてほしい。そんな気持ちを込めて、福と名付けた。
家にいるときは、福を膝に乗せて本を読む。それが、詩織の日課になっていた。
今日も本を買って、帰ったらゆっくりと読もう。福を膝に乗せて。
買う本もすでに決めていた。ひとりのボクサーの選手生活を描いた物語。
二週間前に、クラスメイトの美智と陽向に誘われて、ボクシングの試合を見に行った。同じくクラスメイトの、翔太の試合だった。
誘って貰えて、嬉しかった。ボクシングの試合は、想像以上に面白かった。ただの殴り合いの競技だと思っていたが、翔太が相手を倒した技術の話を聞いて、俄然興味が湧いた。だから、ボクシングを題材にした物語を読みたいと思った。
クラスの中で、翔太は目立つ生徒だった。成績は常に学年トップ。さらに、ボクシングでは全国レベルの強豪。そんな人物が、目立たないはずがない。本人に目立ちたいという気持ちはなさそうだったが。
翔太は、陽向と仲がいい。彼女に聞いたが、同じマンションの隣に住む幼馴染みらしい。
きっと、ただの幼馴染みじゃないんだろうな。二人の仲の良さから、詩織はそう思っていた。付き合っているんだろうな、あの二人。
詩織にも彼氏はいる。五味秀一。同じ学年で別のクラスの、翔太とは別の意味で目立つ生徒。
付き合い始めたキッカケは、五味に口説かれたからだ。
詩織は目立つ生徒ではない。教室でも本ばかり読んでいて、あまり人と話さない。美智や陽向以外とは、ほとんど喋ったことがない。積極的に周囲と話せる彼女達とは、まるで違う自分。
そんな自分が、一年の秋頃に、突然五味に口説かれた。
五味の噂は、よく知っている。嫌でも耳に入ってくる。女好き。女癖が悪い。いつも違う女と一緒にいる。ルックスがよく積極的に女の子に話しかける彼は、当然のようにモテる。
たぶん、みんなが言う通り、詩織以外の女とも遊んでいるのだろう。その「遊ぶ」は、もちろん、ただどこかに行くだけではなく。
詩織以外の女と、体の関係もあるのだろう。
それでも詩織は、五味と付き合い続けた。こんな自分を口説いてくれた。それだけで、彼を好きになるには十分だった。それだけで、何でも許せた。彼の望みなら、何でも叶えたいとさえ思った。
夏休みの課題は、彼の代わりに全て詩織がやった。
学校の日は、毎日彼のために弁当を作っている。
彼に求められるままに、付き合い始めたその日にセックスをした。詩織は、初めてだった。
セックスの後に、スマートフォンで写真を撮られた。「詩織と初めて結ばれた記念だから」と言われたら、断れなかった。
断って、嫌われるのが恐かった。
たぶん、陽向と翔太は、こんな付き合い方なんてしていないんだろうな。そう考えると虚しくなるが、仕方がないとも思った。
自分なんかが、高望みしてはいけない。自分は、陽向のように明るくもないし、可愛くもない。彼女と自分では、望んでもいいものが違う。
少し暗い気分になりながらも、詩織は、目的の本を探した。五十音順に並んだ作者の名前。そこから、本を探し出す。
あった。人差し指で本の角に触れて、そのまま棚から引っ張り出した。
『ひと夏の夢』
本のタイトルをまじまじと見た。ボクサーの選手生命は短いと言われている。選手でいられる時間を、夏というワンシーズンに例えたタイトル。
本をレジまで持っていって、会計をして、書店から出た。
太陽は、まだ空の真上にある。帰って、福を膝に乗せて、ゆっくりと読もう。
休日だけあって、街中は人通りが多かった。暦上は秋になっているが、快晴の日の昼間はまだ暑い。薄着の人が大勢いた。
男性の視線を集めそうな女が、詩織の目に映った。金色に近い茶髪。生え際が、地毛で黒くなっている。胸の谷間まで見えそうなキャミソール。太股がしっかりと見えるショートパンツ。底の厚いサンダル。けさ掛けにしたショルダーバックの紐が、胸の形をはっきりと主張している。
とはいえ、その女が特に珍しい風貌をしていた、というわけではない。確かに男の視線を集めそうだが、そんな女はたくさんいる。
詩織がその女をまじまじと見てしまったのは、隣に、知っている顔を見つけたからだ。その女と、腕を組んで歩いている男。
見間違えるはずがない。五味秀一だった。詩織の彼氏。
今日のデートは、彼に急用ができたから中止になった。そう、聞いていた。その「急用」が何なのかは、聞いていなかった。
五味も詩織に気付いたようだ。女と腕を組みながら、こちらを指差した。詩織の方を見ながら、隣の女と何かを話している。楽しそうに笑っている。
キーンと、詩織の耳の奥に音が響いた。耳鳴り。
五味が浮気していることは、覚悟していた。それでもいい。自分なんかと付き合ってくれるなら、浮気してもいい。そう言い聞かせていた。納得しているつもりだった。
それでも、その光景を目の当たりにすると、ショックだった。
五味と女が、こちらに近付いてきた。彼等の顔に浮かんでいるのは、薄ら笑い。
「なんだよ、ひとりで買い物か?」
五味の最初の言葉が、それだった。女と遊んでいることに対する言い訳ではない。女と腕を組んで、明らかにただの友達ではない雰囲気を出している。それなのに、弁解すらしない。
「う……ん。そう。本、買ったの」
「まーた本読んでんのか? やっぱ暗いな、お前」
辛辣な五味の言葉。
詩織は俯き、顔を伏せた。心臓が、うるさいほど強く脈打っていた。ショックと、動揺で。
「ねえ、五味。もしかしてこの子? あの写真の子」
「──!?」
女の言葉に、詩織の肩が震えた。写真の子。その単語から詩織が想像したのは、ただひとつだった。
初めてセックスをしたときに、五味に撮られた写真。詩織の、初体験後の、裸の写真。
「そうそう。こいつ、俺の言うことなら何でも従うんだよ」
また、詩織の肩が震えた。五味の顔が見れない。伏せた顔を上げられない。彼を見るのが恐かった。彼が、自分を嘲るように話している。突きつけられたその現実を、直視できない。
「でもさぁ、なんか根暗そうじゃない? こんなのと付き合ってて楽しいの?」
「いや、よく見たら可愛いんだって、意外に」
可愛い。その言葉だけで、少しだけショックが薄れた。もしかしたら、これから彼女として紹介されるのかも知れない。無口だけど、意外に可愛い彼女。そんなふうに。
彼女として紹介してくれるなら、それでいい。浮気しても、他の女と遊ぶためにデートをキャンセルしてもいい。自分なんかの彼氏でいてくれるなら。
そんな期待とも諦めとも取れる気持ちを抱いて、詩織は顔を上げた。
目に映ったのは、五味の、見下すような薄ら笑いだった。
「でも、もう飽きた」
「……え?」
眼鏡の奥で、詩織は大きく目を見開いた。視界が歪む。眼鏡が曇ったわけでもないのに。
「よく見ると可愛い顔してるんだけどさ、つまんねーんだわ、お前。まあ、散々ヤることヤッたし、もういいわ。ちょうどいい機会だから、別れよ」
三度、詩織の肩が震えた。別れる。五味の言葉が、頭の中で反響した。好きなのに。可愛いって言ってくれたのに。だから、何でも言うことを聞いたのに。ひどいことだって、恥ずかしいことだって、何でもしたのに。
頬に、生温い感触が伝わった。それが涙の感触だと気付くまで、しばらく時間がかかった。
歪む詩織の視界で、女が楽しそうに笑った。
「いや、五味、あんたひっどーい。ざっくり切り捨て過ぎでしょ?」
「何言ってんだよ、里香。お前だって、詩織の写真見て笑ってただろ」
「だって、泣きそうな顔した裸の写真なんて見たらさぁ」
女──里香の、甲高い笑い声。それはまるで針のように、詩織の耳に刺さった。ザクザクと、鼓膜の奥まで突いてくる。
一通り笑った里香が、詩織の顔を覗き込んできた。
「あれー? もしかして泣いちゃってるの? かっわいそー」
言葉とは裏腹に、里香はさらに笑った。
「まあ、そういうわけだから。お前とはもう終わりな、詩織」
「ざんねーん。ご愁傷様ー」
「じゃあ、もう連絡してくるなよ」
捨て台詞とともに、五味達は、詩織の前を通り過ぎて行った。そのまま去って行く。
後ろから、二人の会話が聞こえてきた。
「じゃあ、これからどうするの?」
「飯も食ったし詩織も捨てたから、ホテルにでも行くか」
「いや、意味分かんないし。まあ、いいけど」
ポタリ。太陽に照らされたアスファルトに、詩織の涙が落ちた。雨のような染みが、足下にできた。
詩織の周囲を、多くの他人が通り過ぎてゆく。涙を流す詩織を一瞥しても、声を掛けてくることはない。
遊ばれた。いいように弄ばれた。その事実が胸に刺さっても、詩織が怒りを覚えることはなかった。
ただ、悲しかった。ただ、苦しかった。ただ、こんな自分が恨めしかった。
周囲の人々が、自分に声を掛けてくれるはずがない。
自分なんかが、まともに誰かと付き合えるはずがなかった。
ちゃんとした彼氏なんて、できるはずがなかった。
だって、自分は、こんな生き物なんだから。
周囲を歩く大勢の人達とは違う。
仲良くしてくれる陽向や美智とも違う。
陽向と付き合っているであろう翔太とも、もちろん違う。
人との関わりを極力避けなければならない生き物。
暗い影で生きなければならない生き物。
そんなふうに教育された化け物。
吸血鬼として生れた、自分。
こんな自分が、誰かに好かれるはずがないんだ。
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