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第五話 あなたしかいないから、どうしても
五味に別れを告げられた。
街の中で。大勢の人の前で。嘲るように。いらなくなったオモチャみたいに。
笑いながら、捨てられた。
堪え切れず、詩織は泣いた。
買った本を持って、涙を流しながら歩いて。こぼれ落ちた涙が、詩織の通った道にポツポツと染みを作った。
辛くて、悲しくて、涙が止まらないまま帰ってきた。
詩織が帰宅すると、猫の福が玄関まで出迎えてくれた。ニャーと鳴いて、すり寄ってきた。
自分の足に頬擦りする姿が、可愛くて、愛しかった。
こんな私なんかに、甘えてくれるんだ。きっと、嘘偽りなく私に甘えてくれるのは、この子だけだ。
自分は、普通の人間じゃないから。
吸血鬼として生れた。両親も吸血鬼だった。父は、約八十八パーセントの吸血鬼。母は、約六十二パーセントの吸血鬼。
そんな二人の間に生れた、約七十五パーセントの吸血鬼。それが詩織だった。
吸血鬼の存在と出生は、政府によって徹底的に管理されている。人外の、まさに怪物と言える力を持った生き物。本来は、生物兵器として作られた生き物。
そんな生き物だから、義務教育が終了するまでの間は、政府の管理下で徹底的に教育された。
政府は、吸血鬼を絶滅させたい。けれど、吸血鬼の存在を知る国連の機関が、人権を説いてそれを許さない。
だから、可能な限り人と関わらずに生きるよう、教育される。人と関わらずに生きれば、子孫を残すこともなく、緩やかに絶滅してゆくから。
政府が運営し、公安職員が教師を務める学校。そこに、幼少期から中学卒業の年齢まで通った。
授業は、必ず一人で受けさせられる。クラスメイトなんて単語は、高校に進学するまで知らなかった。友達なんて、物語の中にしか存在しないものだと思っていた。
授業で最初に習ったのは、吸血鬼の存在価値についてだった。存在する価値などない生き物だ、と。
お前達は、人とは違う。本当は、生きてはいけない生き物。仕方なく生かされている生き物。
中学を卒業する歳になったら社会に放流するが、それは、自由を与えるためではない。国連加盟国各国に「吸血鬼にも人権を与えている」と証明するため。その証拠として、政府の手を離れた吸血鬼のことを報告する。
社会に出ても、普通に生きることを望んではいけない。可能な限り孤独に生きろ。周囲とは必要最低限の会話をして、必要最低限の仕事をして。できれば、一生独りで生きろ。
政府は、吸血鬼同士が交流を持たないようにも配慮していた。先生と一対一で授業を行なうのは、そのためだ。
政府の監視対象となるのは、濃度が五パーセントを超える吸血鬼。その数は、驚くほど少ないらしい。国内では六十人に満たないそうだ。だから、一人の吸血鬼に一人の公安職員が指導に着くというハイコストなことも可能だった。
深層心理の底まで叩き込まれた、自分の存在価値。それは、無意識のうちに自分を卑下させた。自己否定の塊となった。いらない生き物だから、ひっそりと生きる。常に目を伏せて、暗い顔をして。
まるで暗雲のように仕立てられた心。その心に恐怖を降らせるように、刑罰についても教えられた。
いかなる理由があろうと、人を殺めたら死刑。吸血鬼が銃殺刑に処せられるシーンは、何度も何度も映像で見せられた。おぞましく凄惨な処刑のシーン。幼い頃にあんなものを見せられたら、トラウマとなって心に残る。
吸血鬼であるということを他人に明かしてもいけない。もし明かしてしまった場合は、吸血鬼の存在を知った人間も、かなりの行動制限を受けることになる。
洗脳に近い教育。刑罰に対する恐怖。心に擦り込まれた痛みは、詩織を、自発的に孤独にさせた。高校に進学してからも、自分から誰かに話しかけることはなかった。
しかし、だからといって、寂しいという感情がないわけではない。
一年前に福を助けたのは、その姿が自分と重なったから。
事故に遭って、死にかけていた福。吐き出した血。失禁して、周囲が濡れていた。誰もが、気味の悪い物を見るように避けていた。
──まるで私みたい。
人とは関われない。友達もいなかった。でも、この子となら、友達になれるかも知れない。そんな気がして、必死に助けた。命が消えかけている福を、躊躇いなく抱きかかえた。その体温を感じたとき、初めて寂しさが薄れた。
死なないで。生きて。私と一緒に生きて。
――私と友達になって!
必死の呼びかけが通じたのか、もともと生命力が強い子なのか。福は三ヶ月ほどで完治し、普通に生きられるようになった。
授業を終えて家に帰り、福を膝に乗せて本を読む。福が起きてソワソワと動き始めたら、オモチャで遊ぶ。そんな毎日が、楽しかった。自然と、笑顔になることが増えた。今までの人生では、笑ったことなんてほとんどなかったのに。
五味に口説かれたのは、ちょうどその頃だった。
「以前から可愛いと思ってたんだよ。一回、俺と遊びに行ってみないか?」
誰とも関わらないようにしている自分。本当は、生きていてはいけない自分。
そんな自分を、可愛いと言ってくれた。そんなことを言われたのは、初めてだった。人生で初めて、人に褒められた。
五味の噂は、詩織の耳にも届いていた。女癖が悪い。いつも違う女を連れている。女性に対する素行の悪さは有名だったが、それでも彼はモテていた。
詩織も、五味の女のひとりになった。自分を可愛いと言ってくれた人。二人きりで出かけた人。付き合おう、と言ってくれた人。
自分は、一生孤独に生きるのだと思っていた。
両親のように互いが吸血鬼だと知り、付き合い、結婚にまで至る確率など、ほとんどゼロに近い。
孤独に生きるよう教育された吸血鬼が普通の人と結ばれることも、ほとんどない。
異性と付き合うことなど、自分には縁がない。
当たり前にそう思っていた詩織は、すぐに五味に夢中になった。
好きだった。大好きだった。彼が、他の女と何をしていても構わない。彼のためなら、何でもできる。彼が望むことなら、何でもしてあげたい。自分と一緒にいてくれれば、それでいい。
それくらい好き。
それくらい、大好きなのに。
五味は、嘲笑いながら詩織を捨てた。
次の日から、詩織は学校を休んだ。とても行く気になどなれなかった。
学校には、普通に生きている人ばかり。クラスメイトと談笑する人。数人で集まって昼食を食べる人。放課後に友達と遊びに行く人達。寄り添い合う恋人同士。
自分には許されない幸せを持つ人達。
詩織には、友達と呼べる人がいる。陽向と、美智。数少ない、詩織に話しかけてくれる人。
陽向には、翔太という幼馴染みがいる。ただの幼馴染みではない、と思える二人。きっと、付き合っているんだろうな。
陽向と翔太は軽口を叩き合うこともあるが、互いに互いを大切にしている。尊敬し合っている。二人の雰囲気から、それがよく分かる。
詩織の目には眩しいくらいの二人。羨ましい。あんな関係に憧れる。絶対に無理だと分かっていても、あの二人みたいになりたいと思ってしまう。
だから今は、見たくない。死にたくなるほど惨めになるから。
二日間、学校を休んだ。
寝ても覚めても、泣きはらした。
それでも心に浮かんできたのは、五味のことだった。
あんなにひどいフラれ方をしたのに。弄ばれただけなのに。深く深く傷付けられたのに。
それなのに、五味が忘れられない。それなのに、五味が好き。
三日目のズル休みの日。その夕方。
詩織はシャワーを浴びて、外出した。
五味に会いたい。たとえ、彼にとっては遊びでも。どんなに冷たくされても。ただ都合のいい女でも。
どんな形でもいいから、五味の彼女でいたい。
まるでストーカーのようだと自覚しながらも、詩織は、五味の通学路を行き来した。偶然を装って彼に会うために。
放課後にそのまま遊びに行ったのか、その日は五味に会えなかった。
次の日も、詩織は学校をサボッた。夕方近くに、五味の通学路を往復した。
詩織は、五味の家の正確な場所を知らない。概ねの住所は知っていたが。閑静な住宅街。
一旦、五味の家の近くに行った。その辺りでウロウロと歩き回った後、学校まで歩いた。五味に会えなかったから、また彼の家の近くに向かった。
歩き回っているうちに、夜になった。時刻は夜八時を過ぎ、外はすっかり暗くなった。
何度か、学校と五味の自宅周辺を往復した。
学校の近くまで行った後、再び彼の家の近くに戻ってきた。
暗い住宅街の夜道。街灯に照らされている。
その街灯の近くで、四人の人影を見かけた。電柱を背にした男が、三人の男に絡まれていた。
絡まれている男には、見覚えがあった。というより、忘れられるはずがなかった。暗くて顔ははっきり見えない。それでも、彼が誰かは分かる。
大好きな人。会いたかった人。
五味が、男三人に絡まれていた。三人のうちのひとりに、胸ぐらを掴まれている。
「──で、人の女に手ぇ出して、どうやって詫び入れるんだ?」
胸ぐらを掴んだ男が、五味に詰め寄っていた。身長は五味より高い。一八〇くらいだろうか。詩織と比べると、三十センチほども高い。
「いや、待てよ。聡美に彼氏がいたなんて、知らなかったんだって。あんたみたいな彼氏がいるなんて知ってたら、手ぇ出したりしないって」
「なに言い訳してんだ? 聡美は『彼氏がいるって言ったのに口説かれた』って言ってたんだけどな?」
「いや、マジで知らなかったんだって!」
胸ぐらを掴んでいる男が、弁解する五味を殴った。鈍い音が詩織の耳に届いた。
自分の好きな人が、殴られた。傷付けられた。詩織の肩が、小さく震えた。
ゆっくりと、詩織は五味達に歩み寄った。街灯に照らされた五味の顔が、はっきりと見えてきた。眉をハの字にして、弱気な顔になっている。詩織をフッたときとは、まるで違う表情。
彼等の会話から、五味がどれだけ女性に不誠実なのかが分かる。
普通なら、五味に愛想を尽かして当然かも知れない。今の彼の、情けない表情。度を超えた女遊びの代償。薄っぺらな、この場を乗り切るためだけに出た言葉。
もし、詩織が普通の女の子なら、五味への気持ちが急速に冷めただろう。
実際に、詩織の心に変化が表れた。落ち着いて、この場の状況を見ることができた。
冷静に見て、冷静に考えて。
それでも、五味を助けたいと思った。
五味は、こんな自分を「可愛い」と言ってくれた人。そんなことを言ってくれる人は、他にはいない。自分に「好きだ」と言ってくれる人は、五味しかいない。たとえそれが、嘘だとしても。
だから、私も好き。
好きだから、助けたい。
詩織は、五味達に近付いた。
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