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海月は一通り話し終えると、またピアノ椅子に座り、新たな曲を弾き始めた。僕は彼女の部屋のカーテンを開ける。外は晴れていて、どこからか桜の花びらが舞っていた。
「……雨降りそうな曲だな」
「おお、良い想像力だね。当たってるよ」
「何て曲名だ」
「ショパンの“雨だれ”」
僕はいつの間にか消え失せていたポテチの残りかすを指にくっつけ、口に入れる。
彼女にレッスンを申し込んだときは、まだ余命の噂は無かった。だからあのときピアノを教えてくれないかと頼んだ理由は、彼女の演奏に惹かれたからだった。でも今、跡付けにはなるが、もう一つの理由が生まれた。
海月の演奏を、僕が引き継ぎたい。
生命を繋ぐことをよく命のリレーと例えられるが、それは本来は“連弾”みたいなことではないのか?
誰か大切な人と一緒に足並みを揃え、ミスすることがあっても最後には息を合わせ、曲を紡ぐ。僕ら、一人だけど一人ではない。それが生きるってことなんだろうな、多分。
もしこの先も、海月と連弾出来たなら。僕はどんな困難も乗り越えていける気しかしない。自分勝手ではあるけれど、彼女が練習しきれなかった曲も演奏してあげたい。というか、したい。
僕は目を瞑る。辺りには雨音が染み渡り、水溜りの上で傘を指す、レインコート姿の海月のシルエットが浮かんだ。
これが僕らの日常。代わり映えしないかもだけど、全力で生き抜いている日常。同じ旋律を、タイミングをずらして追いかけっこするカノンみたいな日常。
もしこの日常が何十年後に崩れたとして、僕は走りを止めないでいられるのか。
勿論だ。僕らの連弾があれば、何でも乗り越えられる。僕がオレンジジュースを飲み干して、水滴の付いたコップを机に置くと同時に、雨が止んだ。
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